聖人は上人より聖なる部分を多く持つ尊い存在であるかのように、字面からは見える。親鸞上人ではなく、親鸞聖人と書くのは、その意味があってのことか。
今年は親鸞が750回忌で、3月に京都市美術館で展覧会が開かれた。仏教関係の展覧会は奈良が多いが、親鸞は京都生まれで京都で90歳ほどの高齢で死に、また京都に浄土真宗の本山があるので、京都での展覧会は当然だ。だが、京都国立博物館でなくて、なぜ市立なのだろう。どうでもいいようなことだが、市立美術館というローカルな場所で開催されたことが、何となく親鸞の偉大さも地域によって偏りがあるのではないかと思わせられもする。で、その春の親鸞展は気になりながら、また美術館の前を何度も通りながら、見ることはなかった。会期中、その半券を拾った。見ていない展覧会の半券を持っていても仕方ないので、また捨てようと思いながらそのままパソコンの横に置いておいた。その半券の画像をまず掲げる。親鸞展を見なかったことを気にしていると、夏に大阪の阪神百貨展で親鸞展が1週間だけ開催されることを知り、お盆前に家内と見に行った。阪神百貨展での展覧会は珍しい。それに、大丸や高島屋のような、そこそこ大規模な展覧会を開くのではなく、会場の面積も小さい。それを知っていたので、春の展覧会とは違って、内容に乏しいものだろうと予測して出かけた。だが、かえってそういうコンパクトにまとまったものの方がわかりやすく、印象に強い場合がある。真宗の門徒なのか、会場内部は大勢の人でごった返していて、人集めを最大の目的とする百貨店としては大成功であったに違いない。展示物は複製印刷したものが目立ち、ありがたみは少なかったが、親鸞の筆跡がごく間近で確認出来たのはよかった。今頃になってこの親鸞展について書くのは、書こうと思いながらその機会がなかったこととがまず第一だが、昨夜水上勉の原作の映画について書いたので、仏教を思い出したことも理由が大きい。そこで、話題は大いに外れるが、昨夜の続きを少し書く。映画音楽の担当は富田勲で、後年のシンセサイザー音楽の走りのような実験的な音響を作り出していた。それは当時の映画音楽では最先端の試みではなかったか。映画の最初の方に、杉戸が亡き母の声を聞きたいために、恐山のイタコに頼んで霊を呼び寄せてもらう場面がある。そこでイタコの口を借りて語られる母の意志は、「後戻り出来ない云々」で、それが杉戸のその後の運命を予言していて、映画を見る者は何となく結末がわかってしまう。そのイタコの語り口調は、その後もBGMとして反響する場面があるが、それとは別に男性合唱で僧侶の念仏のようなものも歌われる。富田は声明を参考にそうした曲を書いたはずで、そこは外国の同世代の音楽家の真似の出来ないところで、その意味でも『飢餓海峡』は日本の代表的映画と呼ばれるだけはある。だが、音楽は添え物であって、もっと重要なのは、映画の最初の方に予言的にイタコが登場することだ。それをまじないとして、今では仏教徒も信じないが、戦前まではそうではなかったのではないか。水上勉は生まれ故郷の福井から口減らしのために少年時代に京都の相国寺の塔頭に小僧として住むが、この経験は、還俗して小説家になってからも大きな影響を与えたはずで、そのことが、『飢餓海峡』ではイタコの登場になったのではないだろうか。霊を呼び寄せるイタコは仏教には関係なく、朝鮮で言うムーダンに近い存在だが、運命を予言する点では、広く宗教に関係している。仏教が未来を予言するものと言えば問題があるが、来世を説くのは宗教の特性であり、その意味ではイタコの言葉が物語の成り行きを決定づけている『飢餓海峡』は宗教的な作品と言える。
水上勉は2004年まで生きた。最晩年は京都寺町の画廊に関係したり、竹紙作りを薦めるなど、京都市内に舞い戻ったようなところがあった。『飢餓海峡』は津軽海峡を直接的には指すが、映画の冒頭のアナウンサー的語りにもあったように、日本のどこでもよい場所で、それほどに全国的に飢餓があるという設定だ。それは水上の生い立ちを反映してのことで、福井の貧しい村を舞台にしても本当はよかったのだろう。そういう日本の辺鄙な田舎に戦後は原発が建ったが、水上の故郷も例外ではなく、若狭の原発は京都に電力を送るためのもので、貧しい場所が都会の犠牲になっている図は福島と何ら変わらない。そういう原発の施設に「文殊」といった名前をつける感覚は、そうとうな思い上がりと言えるが、原発が本当に人間にとって仏や神のような存在であると考えているのだろうか。どうせなら、「閻魔」とでもやればよい。そして、原発学者と推進者は、死んだ後、閻魔大王の前でどう裁かれるのか、恨みを持った原発の被害者がそう思っても当然ではないか。それはさておき、話がどこで脱線したのやら、戻って確認すると、親鸞の筆跡であった。筆跡という言葉はパソコンやケータイがこれほど存在が大きくなると、もはや死語であろう。人はいよいよ自分の手で文字を書く時間が減少し、そのため、筆跡はどうしようもないほどに下手くそなものになる。これは避けられない。その一方で、筆で字を書いた昔の人は、字がうまくてあたりまえという思いがある。それはかなりの部分そうであっても、やはり上手下手はあるし、筆跡はその人を表わす。それはほとんどの人が下手ながら、今なおそうだ。そして、ほとんどの人が下手という状況では、文字の上手下手を見抜く眼力が昔より衰えて当然だが、どうにか筆跡から人柄を直感出来る能力はまだ残っていると思う。筆者は近年は展覧会でお経の文字をなるべくじっくり見るようにしているが、さすがと言おうか、もはや現代では並ぶ才能がないと思わせられるものがとても多いと感じる。それは単に上手というのとは違って、全体から立ち上るたたずまいに邪念というものが感じられないとでも言うしかないもので、それは詰まるところ、信心に由来したものかと思い、そしてなおさらその筆跡が遠いところにあるように感じる。文字は上手な手本を真似して何年も書き続ければ、それなりにそっくりな筆跡となる。だが、それだけでは昔の写経の筆跡にかなうはずがない。上手下手も大事だが、それ以上に欠かせないのが、信仰に対する姿勢だ。それが現代は著しく減退している。とはいえ、筆者がそう思うだけであって、実際はそうではないのかもしれない。そのことに関しては、禅宗から還俗した水上の本に何か書いてあるかもしれないが、水上は仏教を否定したのではなく、生涯関心を抱き続けたのではないだろうか。また話を戻して、親鸞の筆跡はきわめて印象的で、これを書きながらもまざまざと思い出せる。非常に個性的で、鋭く、強い。全体に細く反り返って、丸みに乏しいが、跳ねの部分が長く、悠然とした雰囲気に満ち、容易に模倣出来ない何かを持っている。書が人を示すとすれば、親鸞の書を見つめていると、その人格がわかる気がする。これを模倣すれば、途端にけれん味たっぷりの卑しいものになるはずで、親鸞の時代、同じように感じた人は少なくなかったのではあるまいか。
親鸞がどのような風貌をしていたかは、肖像画や彫刻が残っている。今回の展覧会では、漫画家だろうか、それらを元に親鸞を描いた図もあったが、よく特徴を把握していた。それほどに親鸞の風貌はイラストとして描きやすく、特徴がある。だが、親鸞の顔は、正直な話、筆者は好きではない。最澄や空海、道元、日蓮、法然といった先輩に比較して、ふくよかさに欠け、頬骨が高い猿顔で、かなり神経質で文句が多い人物に見える。その顔を見ると、まさに筆跡とぴたりで、そこから親鸞像をあれこれと想像してみる。聖人と称される親鸞であり、門徒の数は日本の仏教では最大を誇るところ、親鸞の教えがよほど真実味を持ったもので、親鸞が魅力ある人間であったことを物語るが、これは、南無阿弥陀仏という念仏を唱えさえすれば、たとえ悪人であっても極楽に往生出来ると、仏教の門を大幅に広く開いたことによる。簡単に言えば、レベルを著しく下げた。そのためにごく普通の庶民がこぞって信心するに至った。これはそれまでの仏教からすれば、一種ルール違反に思えたであろうが、ごく一部の人間だけが極楽に行くことが出来るという差別が、やがて反乱に遭うことは必然であった。今では極楽や地獄を信じる者はいないが、親鸞の生きた鎌倉時代は、京都でも飢饉が多く、餓死者が続出するありさまで、一般人が心のよりどころを求めるのは、現在では想像出来ないほどに激しいものであったろう。そういう悲惨な状況を見れば、仏教を改革して、誰でも極楽は無縁な場所ではないと強く言ってくれる者の出現が期待されるのは当然だ。だが、そういう人物が出ると、世の中を混乱させているとか難癖をつけて排除する動きが出るのは、キリスト教でも同じだ。親鸞は30半ばだったか、名前を変えさせられ、越後に追いやられる。島流しではないが、それと同様のことだ。もっともその前に、妻帯し、また肉も食べたというから、破戒僧とみなされたのだろう。この妻帯という点は後の一休を思わせる。一休は確か禅から真宗に考えを変えた。越後に住んだ親鸞は、そのことがかえって真宗を広く普及させるにはつごうがよく、真宗王国と呼ばれる一帯が北陸に出来た。それは多くの弟子たちが地道に活動を続けたからでもあるが、親鸞によほど魅力があり、多くの人が集まったからだ。そのことには、親鸞が妻帯していたことも好つごうに働いたのではないか。僧は世を捨てた者で、厳しい修行を行ない、快楽に結びつくものとは無縁の生活をするのが、それまでの常識であったが、カトリックに対してプロテスタントが興ったように、妻帯を許可する宗派が仏教に出るのは必然であったろう。宗教の本当の目的が何かといった、大きな主題はひとまずおいて、親鸞が言ったのは、字の読めない無学な人が多い当時、とにかく南無阿弥陀仏の六字を唱えるだけでよいのだという、絶対的な保証、つまり信念だ。「親鸞」と聞いて、子どもの頃は筆者は「一心不乱」を思い浮かべたが、実際この駄洒落のような言葉は親鸞にふさわしいのではないか。ともかく、念仏の覚えやすくて堂々としたところに、人々は安心を抱き、親鸞を信ずることが出来たのではないか。それをマインド・コントロールと現在では言ってしまいそうだが、何かを強く信じることは、いつの時代になっても変わらない人間の最後に残された大きな力であるはずで、それを親鸞は800年ほど前に言った。
筆者は宗教に無縁の生活を送っているので、親鸞に関しても何も知らないも同然だが、この信じるということについては思うことがある。たとえば、息子にもよく言う。息子はひどいアトピーだが、いくら薬を飲んでも治らない。原因がはっきりとわからない現代病で、特効薬がない。心的な原因が大きいと思うが、それは鬱病も同じで、衣食住に満ち足りた現代に、そうした病が急増して来た。鬱病はさておいて、息子のアトピーに関しては、筆者はかねがね息子に対して、もっと自分のやることに自信を持ち、日々努力するように言っている。ところが、28にもなる大人に、それを言ってももう遅い。また、そんなことは誰からも言われなくても、わかる者はわずか5歳の子どもでもわかる。したがって、言うだけ無駄で、またこっちが言うほどに頑なになる。その頑なな態度こそが、固い信念のように凝り固まっていて、それを自ら打ち砕いて何かに向かって邁進するという気力がない。そのこともまた名前がつけられないだけで、病気と思うしかないが、そういう病気、あるいはそれに類する境遇から脱却するには、結局は自分の覚悟、決心しかない。それは何かをきっかけに誰でも簡単に持つことが出来るはずと筆者は信じているが、息子は内心当然それに反抗し、アトピーが治らないのは仕方がない、医者もそう言っているなどと、理屈をつける。ここにはどこまで行っても意見の平行線がある。だが、親鸞も同じような立場に置かれたことがあったのではないか。そして、編み出したのが、南無阿弥陀仏の念仏をただただ唱えるだけでよいということだ。この問答無用の掟は、相手を黙らせるには格好の発明であった。筆者は息子にはそういうことは言わないが、ひとついつも言っていることは、自分の現在の姿はすべて自分の思いによって実現化しているのであって、アトピーが治らないのは、それでもいいと思っているからだということだ。これは息子にすれば無茶苦茶な意見だが、筆者が言いたいのは、本当に治りたいと思えば、ネットでゲームなどして時間を潰さず、同じ病気を持った人の経験をつぶさに毎日調べるなりして、自分でいろいろと処方を試すはずで、そうして熱心に努力している間に、副産物的に、さまざまな物事に出会い、案外それを突破口にけろりとアトピーは治ってしまうということだ。つまり、今までの自分とは違う自分になろうとすればいいわけだ。心がそうなれば、体もついて来るという考えだ。これが無茶な意見であることは百も承知だが、それを言えば、親鸞の念仏も全く無茶なものだ。にもかかわらず、その無茶が通って、信ずる思いによって人は救われて来た。信ずることはもともと無茶なことなのだ。だが、人間は合理的に物事を考え過ぎるとろくなことはない。無茶な思いや行動、つまり信心は思わぬ力を持っており、それによって日々前向きに強く前進することが出来る。もっとも、前向きでなくて、後ろ向きでもよいと思う人はあるし、そういう人はたとえば一生アトピーが治らない。まず、陽性に絶対的に信じること。これはなかなか難しい。親鸞はそれが人の何倍も強かったのだろう。