餓鬼という言葉を今の子どもはどこで最初に聞くだろう。親か周囲にいる大人か、あるいはTVか。「このガキ!」といった表現は、山手に住む上品な人々は生で聞くことがおそらく一生ないであろうが、下町では昔はよく聞くことが出来たのではないか。
筆者が初めて聞いたのは、たぶんまだ数歳の頃で、周囲の大人が言っていたと思う。それはたとえば、「ガキみたいに食べたらあかん!」といった叱責が多かった。つまり、躾に用いられていた。ガツガツしていることを「ガキみたい」と表現するのだなと思ったが、一方で「柿」にかぶりつく様子を連想しながら、「ガキ」の本当の意味を知らなかった。それを知るのは、この音に合う漢字を知ってからで、それが「餓鬼」とわかったのは小学校の高学年であった。「餓」は難しい漢字で、同じ頃、それが「飢餓」という言葉で使われることも知った。この「飢餓」は「餓鬼」とは意味が違うが、発音はひっくり返したものであるから、筆者は今なお、「餓鬼」と聞くと「柿」をガツガツと食べるイメージと、「飢餓」を思い出す。そうそう、昔「飢餓救済運動」という10円の記念切手が発売されたことがある。今カタログを調べると、1963年3月21日の発売であるから、当時筆者は11歳だ。地球がデザインされた、緑1色での地味な切手で、これを発売日の早朝、大阪のとある郵便局に近所の年下の子どもと一緒に行って買った。その時のことはよく覚えている。その子は金持ちではあったが、不良で、窓口が開くまで待つことをいやがり、気の弱そうな子を見つけてにらみを利かし、割って入って順番を早めた。本当に長蛇の列で、200人ほどは待っていたと思う。当時はそれほど記念切手の発売が待たれた。記念切手ブームで、価値が上がると思われていたからだ。だが、現在その切手は、1シート20枚、すなわち200円分が、チケット買い取りの店に持ち込むと、半額の100円でしか買ってくれない。であるから、はがきや封筒、あるいはゆうパックにどんどん使うのがいい。とはいえ、発売当時の10円は、封書が送れた価格であるから、それを今になって、みすみす8枚も貼って封書を送るのは何とももったいない。かといって換金すると1枚5円にしかならない。郵便局がどんどん記念切手を販売するのは、死蔵する人が多いからだ。それが全部貼って使われると破産する。それはともかく、まだ薄暗い間から郵便局に出かけたというのに、すでに長い列が出来ていて、みんなだまりこくって飢餓の顔に見えた。それは半ばは当たっているだろう。何か儲けになることがないかと、みんな必死で、記念切手を買っておけばいつかは何倍もの価値になると幻想を抱いていたのだ。筆者はそういうことは考えず、ただデザインに関心があった。それは現在のように豊富な印刷物のない時代、一種の凝縮された宝物に見えた。筆者の美的感覚は、これら記念切手に負う部分が大きい。それはさておき、「飢餓救済運動」の切手を買った大きな郵便局の近くに、映画館がいくつも並ぶ商店街があって、そのうちの一館で、「飢餓海峡」という映画が封切られたことをよく覚えている。切手の発売から2年後の昭和40年だ。その頃はもう筆者はあまり映画を見に行かなくなっていた。前年に東京オリンピックがあってTVが買いやすくなり、本当の意味での映画全盛時代はもう過ぎていた。
「飢餓海峡」はいつから気になったか、記憶にない。もちろん封切られた当時、原色のペンキで描かれた大きな看板によって、伴淳が登場し、シリアスな現代ものであることは知っていたが、見る機会はなかった。ビデオが普及してからは、レンタル屋で借りて見ることも出来たが、そうするほどの関心はなかった。そうして長年待つともなく待ちながら、10年ほど前に京都文化博物館の映像ホールで上映されることを知り、見に行こうと思いながらそれを逃したこともあった。改装になったこの映像ホールの上映作品を先日たまたま調べていると、8日と11日に上映されることを知った。それで慌てて11日に見に行った。きれいになった映像ホールで最初に見る作品が、長年気になっていたものであることは運がよい。このホールでは昼と夕方に同じ映画を日変わりで上映するが、「飢餓海峡」は3時間の長さだ。5時の上映では終われば8時で、これは腹も空く。それで1時半の回を見ることに決めたが、30分前にホール前に行くと、すでに9割以上の席が埋まっていた。改装されたホールは座席数が倍増し、本格的な映画館のようになった。ここで往年の名画が500円で鑑賞出来るのであるから、暇な老人が殺到するのは無理もない。実際ほとんどが70代以上で、昔見た映画をもう一度見ようとやって来る。そして、「昔見た時とは違って新鮮だ」とか、「あんな内容だったかな」といったことを言う。半世紀前に見た時と印象が異なるのは、それだけ人生を過ごして、物事がよく見えるようになったからでもある。筆者は初めてこの作品を見たのであるから、昔の記憶とは違うといった感慨はないが、その分かえって何もかも新鮮であった。ところで、この映画については日本で最高の作品といった絶賛が定着しており、ブログにも多くの感想が書かれている。それらを拾い読みすると、すべては語り尽くされていて、筆者があえて書くべきことはない。それに、映画を見てからこの2週間、毎日感想を書こうと思いながら、気が乗らなかった。それは書くべきことがないのではなく、全くその反対で、何回かに分けなければ書き尽くせないと思ったからだ。だが、それをせずに1回の投稿のみで済ますが、ならば何を書くかと考えた。そして、書くには原作となった水上勉の同名の小説を読まねばならないとも思ったが、今はその時間がなく、原作と映画がどう違っているかという点は無視して、映画そのものについて書く。さて、この映画は封切られた時は、20分か30分を東映の上層部がカットを命じた。監督の内田吐夢は、それを知って激怒し、自分の名前をフィルムから削除しろと詰め寄ったというが、結局この映画をきっかけに内田はほとんど映画を撮らなくなった。不運なことだ。3時間は当時長過ぎたが、実際に見ると、あちこちやや中途半端に場面が移る箇所があって、本当はもう2,3分長くてよかったはずだ。内田にすれば削りに削って編集したものを、さらに勝手にずたずたにされるなど、もはや自作ではないと思っても当然であろう。会社が資金を出しての作品であり、何から何まで自分の思いどおりとは行かないが、表現者がある作品をある形で提出する時、それなりの理由がある。そこを受け手側が積極的に意味を見出すことは必要だ。それはさておいて、内田の作品で筆者が見たのは、「血槍富士」と「恋や恋なすな恋」で、手元にはまだ見ていないビデオの「大菩薩峠」の3本組みがあるが、「恋や恋なすな恋」を20年ほど前に京都会館で見た時は心底驚いた。瑳峨三智子の艶かしい演技は今なお鮮烈に思い出すことが出来るが、女をそのように撮ることの出来た内田は、「飢餓海峡」では左幸子にも同じようなきわめて印象深い演技をさせた。
晩年の左は、TVに熟女数人のうちのひとりとしてよく出ていた。当時の左は「飢餓海峡」で見るのとは違って、高齢ではあったが洗練された美女で、筆者は好きであった。同じような魅力を持った女性はいない。「飢餓海峡」の当時、左は35歳だ。ふっくらとして、青森の田舎の純情な売春婦の杉戸八重を好演している。現在でも同じような理由で同じように身を売る女性があるだろうが、杉戸は父が樵で病弱、弟がひとりいるという設定で、貧しい家の出のために、いわば仕方なしに温泉街の女として働いている。時代は戦後すぐの頃で、まだ国家が売春を認めていた。青森の寒村の若い女にそのような仕事しかなかったという設定は、東北の貧しいイメージを代表しているところがある。冷害によって、江戸時代から娘がそのように身売りしたのが東北であるということを、筆者は小学生の頃から周囲から聞かされた。それは著しい偏見であったと過去形で言いたいが、現実は福島の原発を見てもわかるように、東北は東京のそのままの犠牲になっている。貧しい地域は本当に大事なものを売りわたさねばならないという事情は、江戸時代から現在に至るまで何ら変わっていない。かわいい生娘を金の代わりに差し出すことと、土地を放射能だらけにされてしまうことの間に、どれだけの開きがあるのか。1963年に「飢餓開放運動」の記念切手が発売されたことは、当時まだ深刻な飢餓が残っていたことを意味するが、表向きは食うに困らない状態は日本からは急速にその後は消滅しても、人が人を食うという、本当の意味での飢餓はそのまま温存され、それが原発になって現われた。飢餓という言葉は、漢字二文字が「食」へんであるため、「食うに困る」と普通は意味すると思われているが、この食うに困った時の人間がどういう行動を起すかということが、この映画のテーマになりつつ、実際は食うに困るほどの経験をした者でも、純粋さや、人に対する温かさを見失わないということを主張している。つまり、食うに困るほどガツガツしている人間であっても、精神的な餓鬼にはならない場合があるということだ。ここを人はよく誤解する。食うに困ったことのない人ほどそうではないか。食べるにも事欠く人は、きっと精神も飢えていると思ってしまう。だが、実際はその逆が多いだろう。飢餓とは無縁の大金持ちほど、精神が腐敗し、餓鬼同然になっている。そういう連中が国を動かそうとするから、貧しい東北に札束をちらつかせて、みんなのためだと言って原発を建てさせた。そして、東京オリンピック以降、高度成長を続けた結果の現在の日本は、表向きは食としての飢餓は忘れた形だが、精神的な飢餓状態にあって、高度成長以前よりもっと深刻な状態になっていないとも限らない。話を戻して、杉戸八重という若い貧しい女に対して、同じように貧しく若い男が登場する。三国連太郎演ずる犬飼多吉で、舞鶴の田舎から一旗揚げるために北海道に肉体労働者としてわたっていた。それが本土に帰ろうとする時に、網走の刑務所を脱出したふたり組みの男と出会い、ともに行動するが、その衆人たちはそのまま本土に戻ってもまともな仕事がないと思い、押し入り殺人強盗をして、大金を奪う。そして外で待たされていた犬飼と合流して3人で列車に乗って本土に向かうが、津軽海峡に台風が襲来中で、青函連絡船が沈没する。その嵐の混乱に乗じて3人の男は小舟を入手、夜中にそれを漕いで青森にわたるが、囚人ふたりは連絡船の乗客とともに遺体として上がる。
大金をひとりで入手した犬飼は、飢えを抱えながら必死に青森から脱出を試みる。その間に杉戸八重と出会い、にぎり飯をもらうなどした結果、杉戸のいる宿で一泊し、そこで情を交わした後、新聞紙に大金の一部を包んで手わたして遁走する。ここがこの映画の大きなポイントだが、犬飼は通りすがりに過ぎない売春婦に、なぜそのような大金を与えたか。それは女であれば体を売る、また男であれば肉体労働をするしかない、社会の最も底辺に住む者同士の心の通いで説明出来るであろう。実際、杉戸はその金で父を温泉に連れて行き、弟の学費を出し、しかも自分は売春婦から足を洗って、友人を頼って東京に出る。そこには、もう一度どうにかして犬飼に会いたいという思いがあった。会ってお礼が言いたい。ただそれだけのことだが、そのことを心の支えに、杉戸は無駄遣いを一切せず、こつこつとお金を貯め続ける。かつて犬飼と一夜をともにした時、杉戸は犬飼の足の爪を切ってやったが、金を置いて出た犬飼を追ったのに、見失い、帰宅して犬飼の大きな爪につまずいて切り傷を負う。ここは小説として、心憎い描写で、その後のふたりを暗示させる。杉戸はその爪をお金と一緒に大切に保管し続けるが、たまにその爪を取り出しては犬飼を思い出し、横たわりながら爪を自分の素肌に沿わせてもだえ続ける場面がある。自慰行為をそのように象徴的かつエロティックに描く内田の腕前と、それを見事に演ずる左で、この映画で最もなまめかしい場面となっている。体当たり的と言おうか、役にのめり込まねば出来ない演技で、左の気迫が迫る。そういう演技の出来る女優は今は絶無だろう。また、内田のような天才もいない。話を戻して、終戦間もない頃の東京下町の盛り場で働くようになった杉戸だが、やくざが横行して喧嘩が絶えず、それに怖れをなして、元の売春婦家業に戻ってしまう。先に書いたように、国が認めた健全なそうした商売があって、店の夫婦の人のよさに助けられた杉戸は客に好かれる売れっ娘になって、生活は安定する。だが、いつも忘れないのは犬飼のことだ。そんなある日、赤線がそろそろ廃止されることになって、杉戸もこれからの身の振り方を考えねばならないという相談を店の夫婦から持ちかけられるが、主人は読んでいた新聞をぽんと杉戸の際に置く。何気なくそれをみた杉戸は驚愕する。そこには、犬飼が多額の寄附をしたことで表彰されたとの小さな記事が写真入りで出ていた。津軽で出会ってから10年後のことだ。名前は樽見となっているうえ、髭も生やした紳士だが、思い続けて来た杉戸には直感するものがあった。早速ひとりで樽見のいる舞鶴に向かう。ここからがこの映画の最大の山場になる。樽見としての三国連太郎の演技は、これ以上のものは誰にも望めない。一言一挙手、全く見事と言うほかない。大金持ちとなっている樽見に面会出来た杉戸は、すぐに自分がかつて青森で大金をもらったことを言うが、樽見はそれを知らないと押し通す。だが、突然雷が鳴り、雨戸を閉めた樽見の右手の親指を見て、杉戸は犬飼であることを確信し、声を激しく上げながら抱きつく。これを拒否して手をほどこうとする間にもみ合いになり、樽見は杉戸の声を塞ごうと、首を締めてしまう。大男であり、肉体労働で鍛えた怪力の樽は、手加減を知らなかったのか、あるいは昔の自分が暴かれることを怖れてあえて殺してしまったのか、ともかく杉戸は生き絶えるが、その瞬間笑みを浮かべる。杉戸にすれば10年も待ち続けた犬飼に会え、しかも抱かれて死ぬことは本望であったかもしれない。ここは田舎娘の純情といった言葉で片づけてしまっていいのかどうか、哀れな貧しい女の末路が示され、胸が震える。
さて、杉戸と犬飼に対して、警察が登場する。伴淳三郎は北海道の刑事弓坂だ。青函連絡船が転覆して死んだ乗客の中に脱走した囚人がふたり混じっていることを突きとめ、しかもそのふたり以外に別に男がひとりいて、3人で行動して大金を奪ったはずなのに、ひとりの行方がわからない。地道に捜査を続け、杉戸の宿でその男が泊まったことをかぎつけるが、大金を犬飼からもらった杉戸は弓坂を信用せず、嘘をついてそのまま東京に出る。その後、弓坂は杉戸こそ行方がわからなくなった、そして大金をひとり占めして逃げた犬飼を知っていると確信し、東京にまで捜査に向かうが、10日の猶予期間の間に成果を上げられず、事件は迷宮入り、弓坂は左遷されてしまう。警察を悪く描くことは1960年代半ばの映画では無理であったろう。また、原作の小説でもそうは描いていないと思う。だが、この映画は、警察は正義を追及する集団として認め、高潔な人物の集まりとして描きながら、終戦直後の時代では、予断によって犯人をでっち上げたことがあったことをほのめかす。これは映画を見る者にも真実が伝えられないが、犬飼が大金をひとり占め出来た行動は最後まで謎のまま残される。逮捕された樽見はついに真実を白状するが、その言葉は、警察からすれば、罪を逃れるために真実を曲げているということになり、そういう警察の見方を知っていたからこそ、大金をひとりで確保出来た時に、自分は警察に出頭しなかったと樽見は告白する。つまり、自分は何も悪いことをしておらず、囚人が喧嘩をしたために、ふたりが海に転がり落ちて死んでしまい、後に残された袋の中に大金があることを知ったと言うのだ。だが、これは真実であっても、今でも誰も信じない。死人に口なしであり、また貧しい肉体労働者であれば、大金に目が眩んで当然と思うからだ。現在の日本の司法もそうなっている。裁判は必ず貧しい者、そして外国人が絡んだ時は、外国人に罪が重く言いわたされる。警察にしろ、司法にしろ、それら金持ちを守るために、金持ちたちが生み出したもので、決して貧しい者の味方にはなってくれない。警察のことを犬とたとえるのは、そういう貧しい人たちの本音であり、そして戦後のどさくさではいかに貧しい正直な人たちが無罪であるのに投獄されたかと思う。今なおそれはさほど変化がない。本当に悪い奴は、ぐっすりとぬくい寝床で眠りこける。話を映画に戻すと、精神的な餓鬼状態は犬飼ではなく、それを色眼鏡で見てしまう警察であり、われわれであろう。捜査に当たった若い刑事のひとりに、樽見の子どもの頃の家のあまりの貧しさを見ると、どんなことをしてでも金がほしいという人格に育って無理はないと会議で唱える者がある。それは偏見だが、世の中は物事をそう見るものなのだ。そして、犬飼はそういう世間の眼差しを知っていたから、転がり込んだ棚からぼた餅の大金を活用しようと考えた。一生かかっても手に入らない大金をうまく運用し、懸命に働けば経済的成功はある。戦後から昭和30年代はそういう時代であった。その元金をいかに手にするかが人生の分かれ道だ。犬飼はその幸運をつかみ、まず最初にその一部を杉戸に与えた。そして故郷に戻ってやがて工場を起し、会社を成長させ、収益を囚人が社会復帰するために寄附するなど、地元では名士にのぼり詰める。犬飼のそのような優しさは、妻にしたのが身寄りのない足の不自由な大陸からの引揚者で、とかく貧しい、恵まれない者には同情を惜しまない。にもかかわらず、そういう犬飼が殺人を犯してしまう。それも自分を10年も探し続けた純粋な杉戸を。貧しい者はどこまでも不幸という現実を描くこの映画は、気が滅入ると言えばそうだが、杉戸の人生が無駄であったかと言えば、さてどうか。犬飼から思わぬ大金を恵んでもらい、その犬飼瞬時も忘れなかったことは幸福であったし、最期に犬飼とわかったことで、もう死んでもよかったのだろう。無駄であるのは警察の努力の方だ。真犯人がわからず、わかったとして犬飼を牢獄に放り込んでも、そのことで世間が少しでも改善するか。