荒れた肌というものには無縁であった筆者だが、夏の猛暑のせいで、かなりの肌荒れが生じた。それは両腕の手首から肘までの間の内側だ。こんなことは初めてだ。
そこはパソコンのキーを打っている間、机に触れっ放しになる。夏は半袖を着ているから、そこから吹き出た汗が机を濡らす。だが、汗は板に全部浸透しないから、肌にべとつき、あせもを生じさせた。最初はわずかであったのが、痒いので掻くと、それが大きくなり、広がった。体を洗って毎日メンソレータムの薬用クリームを塗ったが、効果はなかった。一旦治りかけてはまた痒くなる。それを掻きむしると、さらに大粒のあせもが出来る。それは、潰れては増えるを繰り返し、肌はついに鮫以上にざらざらしてしまった。秋になったので、汗はもうあまりかかないが、痒みは消えず、相変わらず掻き続け、今は小さな赤いかさぶたが無数に出来ている。もう半袖を着ないから、この見苦しさを隠すことは出来るが、ざらざらになった肌を見るといい気持ちはしない。筆者は腕や足に毛が全くなく、家内よりすべすべしている。そういう肌であるから、あせもには弱い。また、男であるから、肌はざらざらしている方が野生的で魅力があるのかもしれないが、痒さからこうなってしまったのであるから、痒みがなくなって、肌も元通りになってほしいと思う。よく70歳代の人の肌を見ていると、皺や皺がとても多く、改めてそれを見ながらぞっとすることがある。筆者はそうなりたくないが、果物でも花でもそうなって行くのが自然であるから、これは仕方がない。だが、50代の女性が、顔のあちこちに細かい染みや皺が多くて、それを化粧でごまかせなくなっているのを、近寄って見てしまうと、醜いと言うのではないが、苦労を重ねた象徴に思え、その苦労が哀れと感じる。老いるとはそういうことであるから、それを哀れと言えば当人から叱られるが、老いが哀れと思うのはある意味ではまともなことだ。昨日書いたように、今日は地元の小学校で敬老会があり、自治連合会の70代の老人が140名ほど集まって、さまざまな演目を鑑賞した。本当は180名が参加する用紙を届け出たが、今日は天気がとてもよかったにもかかわらず、約40名が学校に来なかった。その理由はわからない。忘れてしまったのか、あるいは急に体調が思わしくなくなったのか。ともかく老人らしいことだ。筆者は10年すると、その敬老会に参加出来る資格を有するが、参加しているだろうか。今日は筆者は受付を担当し、次々にやって来る御老人たちを観察出来たが、同じ70歳以上でも70と90では20歳の差があるから、みんな様子が違う。だが、今日参加した人数は、自治連合会における70歳以上の総人口の、10分の1とまでは言わないが、それに近い数で、大半は敬老会にそっぽを向いている。それは老人扱いされるのがいやなのか、出かける体力がないのかはわからないが、筆者はひとりで好きなことをやれるから、その大半に入ると思う。だが、老人特有の孤独がいつ襲来するかはわからない。それは覚悟を決めていてもどうしようもないものだろう。長生きするという幸運の代わりに、そういう孤独が待っていることは、若死にした人が一概に不幸とは言えないかもしれない。長生きしたいという欲は切りがない。だが、その切りのなさが活力になって、長生きの理由になる。

昨日のNHKだったか、ひとり暮らしの男女が結婚を前提にせずに、知り合いを作って会食する機会を持つというのがはやっていることを伝える番組があった。未婚のまま40、50になった人、あるいは配偶者に死別された人が集まっていたが、みな用紙に自分の孤独さを書き、それを人と出会って話すことで癒そうとしている。顔や話しぶりを見ていると、異性に縁のなかった雰囲気はないが、独身生活を続けていてあっと言う間に30、40になり、それが50になったのだ。そういう人は筆者の周りにもいる。人生はとかく早いのだ。あまり吟味していると、何も手に入らない。決心は賭けと同じで、確率を必ず伴なう。それが許容出来ない人は、何も決心しないまま、誰とも縁のない人生を歩む。そうした者が集まって会食する間に、好きな人が出来て結婚ということもあろうが、若い頃に恋愛をいくつか経験したことのない人は、未婚のまま40、50になった時、はたして異性から見て魅力がある存在になっているだろうか。恋は何歳になってからでも出来るとはいえ、若い頃と中年では、恋に対する思いが異なるだろう。段々と面倒になると言うか、若い頃のようには必死にならず、その一種の余裕あるいは達観さが、結局結婚には結びつかず、会食だけの付き合いで終わる気がする。だが、それでもいいと思っていることはTVで紹介されていた。一緒に暮らすことが目的なら、とっくにそうしていたろう。ひとりでも充分生きることが出来るが、ちょっとさびしい時があるということなのだ。そのTV番組は80代の後半の男性も紹介していた。3人の子がみな東京で暮らしているので、さびしくて仕方がないと言う。80代後半のひとり暮らしでは、それはごく普通のことだろう。その男性は楽譜を見ながらピアノを弾くたしなみを持っていたが、そのような趣味のある人でも、話し相手がいないことは孤独なのだ。配偶者が死んで初めてそのありがたさがわかったと言う人が大勢いて、まずます老齢化する日本は、孤独が蔓延する社会になり、それを満たす産業が今後は大いにはやる。だが、そうしたことを楽しめる人はまだいい方で、体のどこかが悪くなり、寝た切りで下の世話をさせることになれば、それこそ若い頃には想像もしなかった姿だろう。それはいつ誰がなってもおかしくなく、老人になることはそういう覚悟を固めることだ。また、昨日のネット・ニュースに、身障者の性欲の処理をする団体のことが出ていた。ソープランドに行くのではなく、それ専門の介護師が行なう。ある男性は射精に1時間もかかっていたのが、その介護師のおかげで10分で済ませることが出来て、気分が爽快になり、ストレスも減ったといったことが書かれていた。男性が男性の介護師にタオルを当てながら処理してもらうのだが、女性の場合はどう処理するのだろう。そこまでは書かれていなかった。こういう話をけがらわしいと思わない方がよい。世の中にはいろんな事情のある人がいて、みな悩みを抱えながらそれから脱する権利を有している。その意味でソープ嬢も先のような性欲を処理する介護師も全く必要な存在だ。自分で射精出来ない体の不自由な人がいることを思えば、老人が元気でいられることは本当に感謝せねばならない。さて、今日の写真は去年11月19日と21日のものだ。後者は本当はもう1枚あって、それは投稿写真の左とつなっがてパノラマを構成するものであったが、撮影後に加工してMOに保存していた時にファイルが壊れて消えてしまった。1枚だけでは中途半端だが、19日撮影が1枚だけでさびしいので、載せることにした。