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●「MY FATHER’S EYES」
体力が落ちて病院に行ったのは本当に久しぶりのことだった。しかも真夏に風邪が原因でというのも初めてのことだ。



●「MY FATHER’S EYES」_d0053294_023679.jpg体調を崩すにしてもそれは毎年、秋風が吹く頃になってから食当たりが原因であったのに、もう年令のせいもあるのか、今年は予想外にもその体力減退の訪れが早かった。ここ4日間はほとんど何も出来なかった。いや、仕事はしたが、思わぬ失敗をしてしまって、それを直すのにかえってまた時間を取る。何もしない方が本当はずっとよかった。体調を崩している時は気分が滅入って、あまりいいことも考えないが、昨夜、喉が痛むので、ずっと以前にお隣さんからもらったカリン酒を少し飲んだところ、それがとてもおいしくて、飲む間の数十秒間で一気に発熱も元に戻って行く気がした。そのカリン酒は濃い焦茶色になって蜂蜜程度の粘度がある。いったいどのようにして作るのかまた聞かねばならない。甘いカリン酒が体力増強のエネルギー源になったというのはおおげさだが、昨夜は熱もいよいよ下がり始めて、自分が本来の自分に戻ることを実感出来て、何だかとても嬉しかった。同じ思いは以前、病院で点滴を受けた時にも感じたことがある。その時も夏バテで動けなくなり、仕方なく病院に行ったが、点滴を1本打ってもらうとコロリと元の元気が戻った。点滴の間、ベッドに横たわりながら、自分の体内からエネルギーがこんこんと湧き出て来るのを実感したものだ。そこで思い知ったのは、人間は体力が根本というあたりまえ過ぎる事実だ。体力の限界点を下ると人間は気力が必ず落ちる。理想はその臨界ぎりぎりより少し上の体力を常に維持することだ。あまり体力があり過ぎてもろくなことは考えないから、気分を爽快に保てる必要最低限の体力は維持することを心がければよい。点滴1本を打つ間、意識も含めて体中がまたゴトゴトと一斉快活に動き始めたかつての経験と全く同じ感情が、昨夜はごく少量のカリン酒を味わいながら、湧きあがって来たが、まだ完全には回復はしていないことはわかっていたので油断はしなかった。だが、丸1日経った今、熱もすっかり平常に戻ったのでもう大丈夫だろう。ただし、痰や咳が出るが、これも時間の問題と思う。夏風邪程度でおおげさな話だが、5年に1回程度のことであれば、自分にとってはやはり特筆すべきことだ。体力がダウンするのはまっぴらごめんだが、体力が回復するにつれて意欲が湧くことを実感するという得難い経験も伴うので、何でも考え方次第だ。
 それで、体力がないのに仕事をしたことは先に書いたが、仕事中は大抵いつも適当な音楽を大音量で流す。それで発熱していた間に最もよく聴いた音楽を今日は採り上げる。このCDは桂にある古本店で100円程度で1年ほど前に買った。中古品だが、ほとんど新品同様だ。時々、その店ではとんでもない安いCDがある。その後同じ古本店でまた同じCDが売られていたが、その時は1700円ほどしていた。つまり、最初筆者が買った時は店員はエリック・クラプトンのものだとは思わなかったのかもしれない。実際、このCDを最初に見た時、宇宙空間に月と海というまことに素っ気ないデザインに、本当にクラプトンのものかと目を疑った。どう見てもかつてのテクノ・グループが好みそうなデザインで、いったいクラプトンがどんな音楽をやっているのだろうと思わせるには充分過ぎる、逆の意味でのインパクトがあった。『PILGRIM』というタイトルが『巡礼者』という意味であることはすぐにわかったが、『ロミオとジュリエット』にも効果的に登場するこの言葉は好きで、いったい何に対しての巡礼なのか、そんな興味も持たせてくれた。買ってすぐにしばらくの間聴き続けた。10数回程度だろうか。それでも多いくらいだ。筆者はCDはよく買うが、たいてい1度しか聴かない。あるいはまだ一度も聴いていないものが多くある。CDを聴くのはエネルギーが必要で、それなりの時期というものがある。このクラプトンのCDはBGMにはちょうどよく、1年前も仕事しながら聴いた。輸入盤のため、歌詞や解説がない。解説はどうでもよいが、歌詞がないのは困る。それでさきほどネットで検索した。全14曲のどの曲も同じように好きというのではなく、最初の曲、つまりここで採り上げる曲が最もよい。後は2、3曲目(アルバム・タイトル曲)や、6、7曲目といったあたりだ。ブルース的な曲以外、どれもよく似た感じだが、それはアルバムをある一定のトーンで整えるための方策であって、作曲能力に不足があるためではない。むしろその反対だ。
 エリック・クラプトンには熱烈なファンがたくさんいることだろう。このことは今までに2度ほど書いたと思うが、筆者が中学生の時にビートルズ・ファンになって、同級生のIを感化したことがある。Iはお金持ちの長男で、弟がふたりいたが、筆者がI宅に遊びに行くと、母親は初め大歓迎をしてくれた。勉強のよく出来る友人が来てくれるという思いからだったろう。ところが次第に事情が変わって来た。Iは思いのほかビートルズにのめり込み、筆者とは違って勉強がおろそかになった。そのため、筆者がI宅に行くたびに、母親の眉間の皺が深くなるのがわかった。Iは高校もろくに行かずに工員などをしながら、ロック・バンドを組み、そこでベースを担当していたようだった。そのことがわかったのは、中学を卒業してからずっと会わなかったのが、23歳頃か、筆者が会社員になって、会社のロック・バンドの一員になって梅田にある会社の分室で練習をよくしていた頃、急に梅田の雑踏の中でIに会ったことによる。早速誘って分室に行き、一緒に演奏したところ、Iらしい恥じらいのあるベースの弾き方であった。工員をしていることはその時に知ったが、それですぐに思ったのは、Iの母親はきっと筆者を憎んでいるだろうなということであった。筆者に出会ってビートルズを教えてもらわなければ、真面目に家の跡取りになっていたものを、その道は弟に譲ったのかどうか知らないが、Iの目立つ大きな家はその後取壊しになって銀行が建った。ま、Iの話をしていてはきりがないが、20代になって再開したIが、ビートルズもいいが、エリック・クラプトンはもっといいといったような素振りで話をしていたのが印象的であった。それは別に意外でも何でもなかった。むしろきっとそうだろうと思わせた。誰でもビートルズの次にまた夢中になるグループがほしいからだ。筆者の場合、それはすぐにマハヴィシュヌ・オーケストラやジェスロ・タルになり、そしてやがてザッパになったが、Iの場合は、クリームから入ってクラプトンということになったようだ。クリームの音楽がいいと思うのはこれまた筆者と同世代では誰しもそうであるはずで、LPの2、3枚は必ず買ったものであるので、わざわざ書くこともないほどだが、クラプトンのギター・ソロがそれほど特筆すべきほどのものかどうか、筆者はあまりよさを感じなかった。そのため、クラプトンの音楽のよさが何らわからないままに来た。
 クラプトンの本当のよさと言えるかどうかわからないが、充分過ぎる貫祿と存在感を思い知ったのは、一昨年の12月だったか、去年の1月だったか忘れたが、新大阪のとあるホールでの試写会においてだ。ジョージ・ハリソンの没後の追悼コンサートの映画で、それは本当に全編が素晴らしかった。ジョージの偉大さを再確認もしたが、それよりもクラプトンの存在があってこそのこの企画実現であり、円熟の境地にある才能を改めて見る思いがした。その魅力は押しつけがましいものではない。どちらかと言えばかなり控え目なもので、特徴にも乏しい。にもかかわらず絶大な存在感がある。不思議な才能と言ってよい。そもそもクラプトンはそうだったとも言える。ビートルズ時代のジョージの曲に友情出演してギターを演奏する時でも、クラプトンならではの味を出しつつ、ジョージの才能を邪魔してはいない。かといってスタジオ・ミュージシャン的な無名性に徹するのでもない。そこでIのことを思ってみた。Iは背が高くて、その点では目立ったが、品がよくて物静かで、決して大声を出さず、自己主張もほとんどしないような性格であったが、そのIがクラプトンを好きだと言ったのは自分と似たものがあることを感じていたからかもしれない。Iは今はどこに住んで何をしているか全く知らない。中学時代の近所に住む友人たちに聞いても誰も行方を知らないと言う。Iがこの『PILGRIM』を聴いているのかどうか、もし聴いているなら感想を聴きたいところだが、あまり自己主張しない性格であったので、筆者ひとりが自分勝手にああだこうだと理屈を言い放つことになるだけに決まってはいる。で、そのああだこうだの理屈話に戻そう。ジョージの追悼コンサート・フィルムで久しぶりに動く姿を見、それから数か月してこのCDを入手したが、最初に聴いてただちにいいとは思ったものの、それ以上ではなかった。つまり、ブックレットを詳細に見たり、曲名と照らし合わせながら聴くということをしない聴き方で、ほかのクラプトンのCDにも手を出す気も起こらなかった。
 それがなぜ2、3日前に急に聴きたくなったのか理由がわからない。気まぐれに選んでCDを聴くことが多いので、ただの偶然と言えなくもないが、このCDに流れる何か特殊なパルスを体得したいために手が伸びたとも思える。いや、きっとそうだろう。「癒される」という言葉は今や手垢にまみれてしまって自分で使うのは抵抗があり過ぎるが、39度以上という発熱の中で何か音楽をと求める気があってこのCDに手が触れたのは、それなりの癒し効果を記憶していたからかもしれない。あまりテンポが早くて快活過ぎる曲は疲れるし、かといってメロメロの短調なら逆効果になって気が沈む。そういう時はクラシック音楽がいいのだが、ちょうどドビュッシーの『ペレアスとメリザンド』を何度も聴いていた後だったのでやはりロックがよかった。それでも、ゆったりとしながら、はっきりしたビートがあるようなものがよい。それでこのCDを思い出した。さて、1年ぶりにブックレットを改めて開いてみると、このCDがもう7年も前のものであることがわかった。となると、ジョージの追悼公演以前の作品だ。改めてクラプトンの才能を見直す思いがする。また、写真と思っていたジャケットの月や海は、実は本物そっくりに描いた絵であることもわかった。ドラムスをスティーヴ・ガッドが担当していてこれもなるほどだ。それに続いてドラム・プログラミングにポール・ウォラーという人物の名前がクレジットされているが、スティーヴ・ガッドのような超一流のドラマーがいるのになぜコンピュータ・ドラムが必要なのかと思うと、このアルバムでは実に効果的にこのコンピュータ・ドラムの音が使われている。その音があることによって未来的なロック・サウンドに仕上がっているのだ。ポップスは絶えず何か最先端の工夫といったものが求められる。昔と全く同じままというわけには行かないのだ。そしてどうせ何か新しいものを使うのであれば、それをおおげさなものにはせずに、隠し味的に使いつつも、なくてはならないものとして活用するのが一流人のやるべきことだ。この点このアルバムは大いにそのツボを押さえて成功している。ここで言う未来的サウンドとは、シンセサイザー音楽に代表されるようなスペイシー・サウンドというのではなく、未来において過去のロックを演奏した場合、過去になり切れない新しさが滲み出てしまわずにはおれない意味においての未来という意味で、つまり、このアルバムは1998年の制作ではあるが、2020年に聴いても充分新しい、そして充分古くもあるという意味だ。未来的であると同時に回顧的でもある味わいは、このアルバムはどの曲もどこかで聴いたことがあるメロディの寄せ集めに思えつつも、どれとも違うことにおいてもよく示される。
 このアルバムの冒頭曲はどんな邦題がついているのかどうか知らないが、取りあえずここでは簡単に「父の目」としておく。中テンポでレゲエのリズムだ。クラプトンのヴォーカルに女性ヴォーカルがところどころに重なる。どこかで聴いたことがあるメロディはこの曲にもあって、イントロがシャンソンの「ラ・メール(海)」によく似ている。これはあえてそうしたのかもしれない。歌詞にも、またアルバム・ジャケットにも海のイメージが現われるからだ。それで、さきほど音を少し拾ってみた。メロディはほとんどBの長調の旋律上に並ぶが、ナ抜きになっている。これは先日U2の曲を採り上げた時にも書いたが、別に不思議でもなく、むしろイギリス人ならばあたりまえの感覚だ。それはいいのだが、このクラプトンの曲が不思議な感覚を与えるのは、途中で臨時の半音がひとつあるが、ロ長調でありながら、ロの音はごくわずかにしか、しかも経過音的にしか使用されず、4度上のE(ファ)の音がずっと基音として鳴り続け、ロ長調の音階の後半部のみでもっぱらメロディが構成されて短調に聞こえるようになっている点だ。あるいはいっそのことEの長調のヨ抜きのメロディと言い換えてもよいが、いずれにせよ、ふらりふらりと頼りなげに揺らぐ味わいがあって、そのことは音階からもよく理解出来る。そして、その頼りない感じというのは、実は歌詞もそのことを示唆している点で見事に適合した作曲技巧と言えるのだ。さきほどネットで調べた歌詞をここで全部訳すことは控えるが、曲名もろくに知りもせずに聴いていたのに、その曲名が「父の目」であると改めて知って、今日は俄然興味が湧いた。筆者は父親を数歳の頃までしか知らないので、クラプトンの父親観がどのようなものか少しは関心がある。歌詞は3番まである。1番は自分が今まで辿って来た人生を振り返っての感想と言えばいいか、ざっと直訳すると、「太陽を背にして帰帆し、王子の訪れを待つ。わたしの魂の回復のための癒しの雨を願う。逃げ回っているちっぽけな存在。どのようにしてここに辿り着いたのか? 何を成したしたというのだろう? 希望のすべてがいつ立ち上がるのだ? 父をどのようにして知るのだ? 父の目を見る時…」。日本語に無理やりしてしまうと全く味気ないし、意味も通りにくいところがあるが、簡単に説明すると、最初のSailing downという言葉は、太陽を背にしたいわば人生後半の下りの旅を表現していて、もう60近いクラプトンの感慨をよく示している。healing rain(癒しの雨)やto restore my soul again(魂を回復する)は、筆者がこのCDを2、3日前に1年ぶりに手に取った理由をそのまま示す言葉であるので驚いた。繰り返すが、ブックレットに歌詞は載っておらず、この歌詞を知ったのはネットで調べたつい2時間ほど前のことだ。2、3番の歌詞にもいい下りがあるが、その中でも重要な箇所は「少しずつわかった。父が自分とともにいつもいることを」だ。
 スティングも父親を敬愛して曲を捧げたことがあるが、クラプトンのこの曲はポップスでは珍しい内容の歌詞と言えるだろう。こうした個人的な思いを書いてアルバムの最初に置くことが出来るというのも大御所ならではであろうが、大御所ならではの角が取れてまろやかな心を持つに至ったからこそ可能なこととも言える。クラプトンは麻薬に溺れて再起不能になりかけたり、不健康なイメージがつきまとったが、そうした人物であるからこそ、虚心にこのような曲が書けた。有名になり、大金持ちになり、それで自分は成功したと単純に思えるような人間ではなく、何が人生で最も大切であるかを本当に探り当てたいと常に思っているような人間だけが到達出来る域に達している歌詞と言ってよい。クラプトンの父親はどのような人でまだ存命かどうかは知らないが、クラプトンにすれば、いつも父親を越えがたい存在として思っていたのであろう。自分が人生の後半の旅にあって、父親の目を見つめるというのは、実は筆者にも思い当たることはある。筆者は5歳ぐらいまでしか父親は知らないが、30近い時に再会したことがある。その時の父親の眼差しを思うことがあるのだ。だからクラプトンがこのような曲を書く理由がよくわかる。父親には父がいてまた父がいてまた父がいてまたいてと、自分を基本にしてさえも何万、何十万、何百万もの父親がいたわけだが、そう宇宙的に考えると、よく言うように、父を乗り越えるなどということはなく、ただ同じことを永遠に繰り返しているに過ぎないのかもしれない。父より金を儲けたり、有名になっただけで、自分が父を乗り越えたと思うのであれば、それはかなりおめでたい野郎で、父のずっと前の父はひょっとすれば自分よりもっと偉大な王様だったかもしれないし、自分の孫の孫の孫には殺人者も出るかもしれない。したがって、比較などせずに自分は自分で今を懸命にやればよいし、そうするしかないのだ。クラプトンの曲に癒されて魂が回復したも同然であるが、その理由を探ろうとした今日は思いがけず、筆者の想像を越えて、この曲が元々そうした魂の回復を歌うものであることに気がついた。クラプトンの人間的なよさというものの片鱗がこの曲だけからも充分に把握することが出来る。そして、滋味ある名人芸とも言うべし。
by uuuzen | 2005-08-03 23:54 | ●思い出の曲、重いでっ♪
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