可憐な白いスミレがコンクリートの隙間に群れて咲く場所がある。ムーギョに買い物に行く途中だ。
今はもちろん葉の塊だけがいくつも点在しているが、その間に割って入る形で、高さ70センチほどの雑草が数本直立している。それに気づいたのは1週間ほど前だ。.気づいてすぐに抜けばいいものを、そこを通りがかるのは、いつも両手に買い物をした後だ。最近は、往路と復路では道を違えるからだ。両手の買い物袋を地面に置いて雑草を抜けばいいが、魚や肉の入った袋を、まだ陽射しで暑くなったままの地面に置くのは、何とはなくはばかられる。雑草の成長は早い。今日は終日曇天と雨天で、夕方になってもそれは変わらず、念のために傘を持って買い物に出かけた。透明のビニール傘で、子ども用なのか、ひと回り小さく、また濃いピンク色をしている。その色が変わっているので気に入っている。それに、めっきり暗くなるのが早くなった夕方なので、そのピンク色は目立っていい。というのは、今日の筆者は黒の半袖シャツに黒のジーパンで、数メートル離れると見えないはずで、車にはねられる可能性が大きい。それでせめて靴だけは白と考えて、スニーカーを履いた。家を出て2,3分で土砂降りの雨となった。瞬く間に、あちこちに水溜まりが出来る。それを避けながらジグザグに歩くが、それでも靴の中に水が入る。それだけならまだしも、車が猛スピードで走り、たっぷりと水を跳ね、2,3メートルもしぶきを飛ばす。それにまともに2回遭遇し、車道側の半身がずぶ濡れになった。車に乗っている者は歩道を歩く者に泥水がかかっていることを知らないのだろうか。それはないだろう。知っていて、あえて泥を被せ、さっさと逃げるという魂胆だ。バズーカ砲でもあればぶっ放してやりたい気分だ。そんな映像が脳裏をかすめる。だが、どうせ小さな傘なので、肩や背中もたちまち同じ状態になり、全身濡れた格好で松尾橋に差しかかった。すると、嘘のように雨が上がった。まんの悪い時に出たことになるが、雨でなくても暑さでシャツはすっかり濡れるので、同じことだ。3つのスーパーを覗き、ムーギョとトモイチで買ったが、袋はいつものように2枚持って出かけながら、買い物が少なかったこともあって、片手で持った。右手には傘だ。そうして歩いていると、スミレの間に咲く雑草のところに来た。そのまま2メートルほど行き過ぎたが、思い直して引き返し、雑草を抜き始めた。ところがなかなかしぶとい。根こそぎ抜けたのは1本のみだ。そのほかはみな途中からちぎれた。根があまりにしっかりと張っている。地面は雨で濡れているので、袋を持ったままの両手使いだが、それでも全身の力を込めても抜けない。なおさら躍起になって、とにかくスミレの葉の高さより低い状態にまで取り除いた。抜いた雑草はそのまま少し離れたところにまとめて横たえておいたが、そのままではまずいので、明日袋を持参してそれに詰めるつもりでいる。また、スコップも持って行き、雑草の根を掘り返してやろうと思う。雑草にも生存する権利があるが、か弱いスミレの領地を侵す必要はないだろう。かわいそうに、そのままではそのわずかなコンクリートの隙間はすっかり雑草に覆われてしまう。だが、もう遅いかもしれない。雑草はすでに種子を撒いているだろう。油断も隙もないのが生き物の生態だ。安泰と思って暮らしていても、いつ何時、侵入者がやって来て、棲家を奪うかもしれない。そんなことを思いながら、力を入れ過ぎて痛くなった両手の指を街灯の光で見ると、ちぎれた草の断片と泥ですっかり汚れていた。それを見て、力任せに雑草を抜いた行為が腹立ちまぎれに思えた。実際そうであろう。だが、何に対しての腹立ちか。さきほど車に泥水を浴びせられたためか。それは道端に生える雑草なら毎度のことだ。そのために雑草を抜いた時に両手が真っ黒になった。

トモイチのポイント・カードの話をしよう。一昨日それを持って出かけ、いつものようにSのレジに行った。他のレジが空いているのに、わざわざそこに並ぶのはバツが悪いので、そこはうまく調節して、どこへ並んでも同じという顔をしながら待つ。筆者の前に背の高い20代の男性が立った。Sは次が筆者であることを知っている。顔をまともに見ないが、気配でわかるはずだ。前の男性の支払いが終わった後、Sは筆者を向いて、すぐに「こんばんは」と言った。いつもより大きな声だ。筆者はすぐに両手でカードを胸の高さに掲げながら、「カード、作りましたよ」と笑顔で言った。すると、驚いて「ワー、すごい!」と応え、次にすかさず小声で、「ワースゴイなんて、言ってしまって……」と恥ずかしそうに添えた。それから1日置いて今日だ。金曜日はSは休みだが、今日はいるはずだ。それもあって、雨が降るかもしれないが、出かけた。今日のSの「こんばんは」の声は一段と大きく、また嬉しそうであった。誰にでもそういう調子で挨拶をしているのではない。そして、筆者のピンク色の傘を見ながら、「雨が降っていますか?」と訊くので、「降ったり止んだりです」と返事した。Sは自転車で通勤しているのだろう。大きなスーパーなので、外の様子はわからない。9時半だったか、遅くまで営業しているから、Sが帰宅して一息つくのは10時過ぎになるだろう。Sの家族や生活の様子を知りたいとは全く思わないが、スーパーのレジとして勤めるのは、他に適当な仕事がないという理由が大きいだろう。昨日NHKで生活保護を受ける人が増加し、それが3兆円を超えていることを伝える番組があった。家内は見たようだが、筆者は見ないでもだいたいの様子はわかる。生活保護を受ける人は、収入の道が途絶えてどうにもならないからだが、実際はそうではない人が混じる。貯金をいくつにも分け、また名義を変えれば、資産の全体は把握されない。経済状態は自主的な申告にほとんど任されているため、数千万の貯金があっても生活保護をもらう人がいる。もちろん犯罪だが、ほとんどはわからない。そういう人は娘に贅沢な学び事をさせたり、また自分たちは高価な衣服を着て、豪勢な食事にもよく出かけるが、誰が見ても生活に困っているとはとても思えない。もらえるものはもらうという主義なのだ。恥の観念が欠如している。というより、もらえるものをもらわない方が恥と思っている。また、これは家内から聞いたが、ある若い女性は結婚して子どもが2,3人いるが、旦那は浮気してそこにも子どもをもうけた。ふたりは離婚はしたが、関係は続いていて、しかも双方とも生活保護を受給するために別れた。こういう若者は今は珍しくない。結婚したが、旦那の稼ぎが悪い。それで離婚の形を取り、母子が生活保護費をもらう。離婚はしてもふたりは実質的な夫婦で、ただ籍を抜いただけだ。変なことを自慢するが、筆者はここ数年の収入はゼロに等しく、それは生活保護者とは比較にならないほどだ。また一方では、まともに働いているのに、年収が生活保護者より少ない人は大勢いる。これを改めて思うと、誰もまともに働かなくなる。働かずに、何らかの理由をつけて生活保護を受けた方が贅沢な暮らしが出来るのであれば、誰でもそう思う。ここに、筆者がいつも言うように、真面目な者が割りを食う世の中がある。それは真面目ではなく、正真証明の馬鹿ということなのだ。少しでも頭がある者は、堂々と生活保護費をもらって、以前よりましな生活を考える。何も後ろめたさを感じることはない。誰でもやっていることだ。政治家などもっと悪いことをして大儲けしている。悪者どころか、「大きな器」と賞賛されているではないか。こんなに生活保護費をくれるのは、政治家が後ろめたいからだ。そのように生活保護者が思っても不思議ではない。

今日のネット・ニュースに、堺屋太一が、高校生でも子どもを生んで育てればいいと発言したというのがあった。日本の人口が減少しているので、そうでもしない限り、解決策はないという考えのようだ。高校生が子どもを産むと、親たちが子育てを手伝うことになる。それは昔のような仲のよい大家族をもたらすかもしれない。だが、それはほとんどは甘い幻想だろう。高校生で子どもを産む者は昔からいて、珍しいことではない。そういう者は大学に進まず、男はトラックの運転手になったりして、手っ取り早く金を稼ぐ必要に迫られるが、それはそれでいいことだ。大学は、行かなくていい者があまりにも行き過ぎで、貴重な時間と金をドブに捨てている。ならば、高校生でせっせと子作りをした方がいい。セックスの味を早く覚えると勉強が手につかないという意見があるが、それも人によりけりだ。いいように考えると、いつでもセックス出来る相手がそばにいると、かえって勉強に熱心になる。そういう意味で堺屋太一の考えには一理ある。だが、日本の人口減少を食い止めるためというの目的であれば、筆者は賛同しかねる。人口減少はいい面もあるはずで、1億2000万が異常と思う立場もある。何度か今までに書いたが、日本の人口が1億を突破したのは半世紀前のことだ。半世紀できわめて異常に人口が増加した。異常な状態を基準にして、いつまでその異常さを保とうというのか。1億でも多い。5000万でもいいではないか。1億いることで、誰もが実感出来る幸福感があるだろうか。5000万になっても、人はその数を実感出来ない。1億2000万の状態で支えることが出来た経済状態を、5000万でも実現させるのが政治家の手腕だろう。また、経済状態だけが幸福の指標でもない。もうそれをいい加減にわかっていいが、反対に拝金主義はひどくなるばかりで、先の生活保護費の問題もそれに絡む。これもネット・ニュースにあったが、上岡龍太郎は、芸能人は人から目立つことが好きで、しかもあまり努力したくない人種だが、それはヤクザと根は同じであると、かつて語った。同じようなことは、近年全くTVに出なくなったが、吉本のある偉いさんは、評論家はいろいろ理屈をこねて芸人の芸を持ち上げるが、われわれ商売人はとにかく儲かったらいいのであって、歴史に名を刻むなど全くどうでもいいことと思っていますと語っていた。今の芸能人を見ていると、みな小粒を自覚し、売れている間にせいぜい蓄財し、副業で成功して晩年を安泰に過ごそうとしている。上岡龍太郎はその先駆であり、代表だろう。上岡は先の言葉に続けて、売れない場合は野垂れ死に覚悟と語っていたが、であるからこそ、芸人が売れた場合の利益は莫大になる。その夢を求めて芸人を目指す者が増加の一途だが、これはあまりいいこととは思えない。夢破れた者は生活保護を受けて、生活は保証されるから、野垂れ死になどないのだ。ついでに書いておくと、筆者の思う芸術家は、芸能人と同じく、野垂れ死に覚悟でありながら、金儲けなどどうでもよく、名前すらも世に出なくていいと思っている連中のことだ。それが馬鹿でも狂人でもいいではないか。今日の3枚の写真は前回に続いて、去年11月6日のもの。また駅前の変化に無関係なことを書いた。