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●『メリは外泊中』
2のペ・ヨンジュンになれるのかどうか、目下チャン・グンソクの人気が高まっている。先日たまたまTV大阪を見たところ、韓国ドラマをやっていた。今日取り上げる『メリは外泊中』だ。



見たのは第3回目の途中からだ。月から金まで毎週5日、1日1話ずつの放送なので、全16話を見るには3週間と1日で済む。これはありがたい。毎週1回見るのもいいが、間が抜けることもある。『メリは外泊中』は今日が最終回であった。いつも録画して見るが、さきほど見終えた。最初の3回分はネットであらすじを読んだ。それでだいたいわかる。青春ラヴ・コメディで、他愛のない物語と言っていいが、見始めると続きが見たくなる。結末は予想がついているが、それがどのように多少裏切られるかという興味もある。このドラマは予想どおりの結末ではなく、変化球であった。そこが時代や現実に即した描き方をしているところで、韓国ドラマのしたたかさだ。最近ネットでは韓国ドラマを放送し過ぎという批判があった。東京のフジテレビにはデモまで押し寄せたが、筆者が見たTV大阪はTBSとつながっての放送なのだろうか。さきほどネットで調べると、TBSには「韓流セレクト」という番組があり、人気のあった韓国ドラマを放送している。そして、日本語吹き替えと原語のどちらかが選べるが、筆者が見た『メリは外泊中』でも同じであった。筆者のTVは旧式なので、日本語吹き替えしか見ることが出来ないが、日本語の字幕もついていた。これは「韓流セレクト」の方式だろう。また、吹き替えと字幕はわずかに言い回しが異なり、それを見比べるのも面白かった。フジテレビとTBSのどちらが韓国ドラマを多く放送しているのか知らないが、騒ぎが起こったことからして前者だろう。そして、いったい毎週何種類の韓国ドラマを放送しているのか。おそらく10本程度では騒ぎは起こらないだろう。だが、10本となると、全部見ることはとうてい出来ない。毎週せいぜい3種の韓国ドラマを見るのが理解の及ぶ範囲で、それ以上となると頭の切り替えが難しい。筆者は週に2種がいい。また、フジテレビ批判騒動は、韓国ドラマだけではなく、韓国のポップスがたくさん流れることにも異を唱えたものであったが、筆者はK-POPにはさっぱり関心がない。足が美しい美女が舞台に勢揃いして歌っても、心は全く動かない。もちろんこれは日本のAKB48とやらいう、芋の子を洗うような大量の女子も同じで、誰ひとり魅力的と思える顔がない。若い女性アイドルには興味がないのだ。この思いは、芸能人にとっては死活問題だ。興味を持ってもらうためにあの手この手を使うが、「興味がない」という言葉の壁はとてつもなく厚い。いつの時代もこれがどこにでも大量に存在している。だが、興味がないと言う人に、筆者は無理に興味を抱かせる必要を感じない。いやならいやでいい。人間はすべてのものに興味を抱くことが出来ない。そこには先入観も多分に混じっているが、その先入観にしても誰でも多少は抱いているものであるから、それもまたわざわざ向きになって直してやろうとしなくてもよい。そんなエネルギーがあれば自分の好きなことに費やす方がいい。
 家内には2歳下の妹がいる。『冬のソナタ』のブームの時でも、韓国ドラマを見る気になれず、いまだにほんの少しも見たことがない。その点で家内とは話が合わないが、姉妹なので、それなりに仲がよい。手元にいくつかの韓国ドラマのビデオ・テープやDVDがあるので、特に面白かったものを家内の妹に見せようかと思う時があるが、家内は反対する。何年も前から見たくないと主張しているので、無理に見せることはないと言うのだ。妹には娘がふたりあって、ふたりとも韓国ドラマは『冬のソナタ』から見ているようだが、母つまり家内の妹に面白さを伝えても、頑として見たいとは言わない。ドラマ嫌いかと言えば全くそうではない。NHKの大河ドラマは見るのを欠かさない。案外こういうタイプの人は多いだろう。嫌韓とまでは言わないが、どうせ見るなら日本のものというわけだ。だが、文化は日本のものが第一と思っているかとなると、そうではない。家内の妹は娘にバレーを長年習わせたが、日本舞踊の知識も興味もゼロだ。また、バレエはクラシックのそれであり、モダン・バレエはバレエではないと思っている。そうであるから、もちろんピナ・バウシュの名前は聞いたこともない。だが、それが日本の庶民の平均的な文化レベルであり、そういう和洋折衷の奇妙な文化観にあまりに染まるあまり、韓国ドラマという新しい、そしてアジアでは絶対に日本には追いつけないし、また追いついてはならないと思っている韓国の文化ごときが日本で流行することに我慢がならない。これを偏狭なナショナリズムと批判することもなかろう。ナショナリズムは偏狭なものであるし、またそれを掲げることは本人の自由だ。他人がとやかく言うことではないし、言ったところで本人は改めない。言うだけ損だ。そんな暇があれば自分の楽しみを追求すればよい。家内はそう思って妹に韓国ドラマを強要しない。人は自分に必要なものは自ら出会う。たとえばの話、家内の妹が韓国ドラマを面白いと思う性格であれば、娘や筆者、家内が話題にすることに接して、必ず心を動かされるはずだ。それがそうでないのは、見たところで、面白くないと言うに決まっている。これと同じことはビートルズの活動期にもあった。「ビートルズなんか音楽とちゃうで。音楽はベートーヴェンやで」と主張する者はいたし、そういう考えであるから、生涯ビートルズの音楽の味を理解しない。だが、それは別段悪いことではない。人はさまざまだ。であるから、意志が全く通わないこともある。人間とはそういうものだ。結局自分が面白い、楽しいと思えることを追求して生きて行くのが人間で、他人に迷惑がかからないのであれば、何に関心を抱いてもいい。
 前置きが長くなった。このドラマ、すぐにチャン・グンソクはわかったが、相手の女性、つまり主役のメリを演じる女性の顔にも見覚えがあった。2か月ほど前か、KBS京都で『風の絵師』が終わった。その主役を演じていた女性で、ムン・グニョンだ。この名前は聞き覚えがある。『秋の童話』の子役として登場した。『秋の童話』は『冬のソナタ』を見た1年後くらいに妹からビデオを借りて見たが、ぴんと来なかった。妹は絶賛していたが、それはまだ韓国ドラマが珍しかったからだという理由であった。子役で出たムン・グニョンの顔はさっぱり記憶にない。ネットでそのドラマの出演時の画像を見ることが出来るが、ここ2,3年でドラマの主役を演じることが出来るほどに成長し、垢抜けした。さきほど調べてわかったが、グンソクはムン・グニョンより1歳下だ。グニョンはえらく童顔で、『メリは外泊中』ではしばしば小学生か中学生にしか見えないことがあった。これだけおぼこい女優は韓国では珍しい。そこが人気の出た理由でもあろう。だが、ある程度は演技もあってそのようにおぼこい表情をしているだろう。子役からここまで成長し、今後どのような大人びた役が出来るかが注目される。とはいえ、韓国ドラマを見ていて思うことは、あまりにも若い俳優が次々と登場し、ほとんど使い捨てになっていることだ。そのため、5年後にムン・グニョンは残っているだろうかと思う。数年前はチョ・インソンが日本のCMに登場し、どれだけブレイクするかと期待されたが、その後さっぱり評判を聞かない。勝新太郎的な凄みを持った才能と思うが、こうも次々と若手の人気俳優が登場すると、いい役柄に恵まれず、才能が充分に開花する前に萎んでしまう。そこが残念なところだ。韓国はそれだけ厳しい競争社会であり、そういう中をくぐり抜けて主役、準主役に抜擢されることは、よほどの才能と運だ。それだけ韓国ドラマは質が高いと言うべきかもしれない。また、若手を周囲で支える脇役は、若手とは違ってかなり同じ顔が目につく。それはそれだけ時代の波をくぐり抜けて来て、貫禄と立場を得たことであって、若手の俳優の目指す位置はそういう脇役になることかもしれない。こう書くと、韓国ドラマの主役は常に20代の若者で、若者が見るものと思われるが、そう思って間違いではないだろう。脇役となる中年を主役にしたドラマがないでもないが、必ず若手も起用し、視聴率獲得の術を忘れない。筆者の世代になると、地味でも味わいのあるドラマが見たいし、もちろんそういうドラマは韓国でいくらでも作られているが、日本で放送してもあまり評判にならない。そこで、『メリは外泊中』のような青春ものが押し出される。
 この全16話、筆者が見たのは韓国で放送されたものを大幅にカットしたものではないだろうか。あまりにも話や場面が急展開し、目まぐるしい。日本で短く編集しているのであれば、それは日本人好みに応じて、いい処理だと思う。あるいはほとんどカットされていないのであれば、韓国も日本も、ドラマのスピーディな展開の好みには差がないということだ。日本と韓国の落差がどのような部分にどの程度あるかを見るのが筆者の楽しみ方でもあるので、このドラマの展開の速度は重要事だ。どの程度カットされたのかそうでないのかはわからないが、若者向きのドラマであるので、また、チャン・グンソクがロッカーという役柄であるので、速度感は脚本段階で重視されたであろう。となると、次に気になることは、日韓でのロッカーの生活の差、また性質の差というものだ。だが、これは愚問かもしれない。ロックはあまりにも幅がある音楽であるし、また韓国でどのようなロックが主流であるか、また、その主流とは無関係に、グンソクが演じるムギョルがどういうロックを目指している、あるいは演奏しているという設定であるかが問題となるからだ。そういう疑問の一方、日本ではロッカーを主役にしたドラマがあったのかどうか、あったとして、そのロッカーはどういうロックを演奏している設定であるかが気になる。それはさておいて、このドラマではムギョルは、業界に媚びを売って、コマーシャルなポップを演奏することを拒否するロッカーとして描かれる。その点、このドラマの脚本家や監督は、ロックのイメージをかなりハードなものとして見ていて、好感が持てる。ロックのイメージが健在という気にさせられるからだ。こうした青春ドラマでは、やわで甘ったるいロックが登場してあたりまえだが、そこを拒否しているムギョルという設定に、妙にリアリティがあり、またその世間に斜にかまえた屈折したロッカーの役柄をグンソクは見事に演じている。『ベートーヴェン・ウィルス』の時はほとんど坊主頭であったが、今回は長髪で、しかもどこかやつれた感じがあって、不健康な生活をしているロッカーの雰囲気をうまくかもしていた。実際ムギョルの役どころは、母親が若くして産んだ子で、しかも母は男と金にだらしがなく、いつも息子に迷惑をかけているという設定だ。こういう生まれ育ちであるので、ムギョルはロッカーになるしかなかったということだ。その設定は説得力がある。実際、いい子で育った者がロックをやると、それはほとんど聴くに耐えない嘘になる。だが、人は誰でもそれなりに問題を抱えているから、その「いい子」という基準は実際にはあまり存在しないと見る立場もある。とはいえ、概して両親の愛に恵まれ、また経済的に困窮せず、すくすくと明るく成長した者は、ロック魂とは無縁の生涯を送るだろう。ムギョルがかなりわけありの育ち方をしたので、甘さを拒否したロッカーになったという設定は、韓国におけるロックへの見方でもあって、それがずれていないことに、まずこのドラマを見る価値があると言っておく。
 さて、ムギョルとメリと奪い合うもうひとりの男ジョン・インが登場する。これは韓国ドラマによくあるように、会社の御曹司だ。経済的には何の不自由もない。これを『コーヒープリンス1号店』に出演したキム・ジェウクが演じるが、日本語を訛ることなく話すことの出来るので、このドラマでも父とともに日本で暮らしていたという設定だ。そして、韓国ドラマでは常套手段だが、金持ちでも必ず不幸な部分を抱えていて、思うようにならないことがある。ジョン・インはムギョルと同様、かつてはギターを演奏し、音楽の道に進みたかったが、それを押し通せず、手首に傷を負ってしまった。そして、全16話とすればえらく複雑な脚本だが、父との間に根深い葛藤がある。何とそれは、父の意中の女性がメリの母親で、そのことを妻に知られたインの父は、妻からなじられ、またその夫婦喧嘩の様子を見てインは育った。父はメリの母を諦め、後輩に紹介し、そして後輩はメリの母と結婚してメリを産んだ。そのことをひょんなことで知ったインの父は、メリの父を経済的に援助する一方、メリを息子インと結婚させようとする。つまり、自分のかなわなかった愛を息子の代で実現させようと考える。この父のメリの母に対する愛と別れの経緯は詳しく描写されないが、誰にでも思うようにならないことがあるという、世間のそれなりの常識を持ち込んで、ドラマの筋立てに綾を作っている。若者向きの青春ドラマでは、そのような一種の辻褄合わせのようなことをここまで凝ってする必要はないと思えるが、何でも深い理由があることを示さねば納得しないのが韓国ドラマだ。それは見方によれば、ていねいな脚本で、大人の鑑賞に耐えさせるためには不可欠な手法と言える。また、メリは父とのみ、インは父とのみそれぞれ暮らし、またムギョルには母だけがいるが、これら3人の親はみなどこかだらしがなかったり弱みがあって、その完璧な人間はいない描き方には好感が持てる。見なかった第1話について少し書くと、メリは苦学生で、アルバイトをしながら学費を稼いでいるが、ある日自動車を運転中、ムギョルに当ててしまう。交通事故が出会いという設定もまた韓国ドラマの月並みな手法だ。そう思えば、このドラマは今までのあらゆるドラマのパロディとも思える場面に満ちている。それはあえてそうしているのか、あるいは斬新な手法が枯渇して仕方なしにそうしているのかわからないが、それらデ・ジャブ感のある場面を全部差し引いても、見所はある。たとえば画面の色の処理でもいい。壁の落書きをうまく画面の色彩効果として使っているが、それはムギョルのロック生活にはなくてなならない小道具でもあって、またその洒落たセンスは日本や欧米に比べて遜色がない。となると、次に思うのは、ドラマの主題歌や挿入音楽がそれに見合っているかだ。この点もムギョルに語らせているように、ムギョルはメリに出会ってからは、今までに書いたことのないようなポップスを作曲し、歌うことになって、その音楽は、ポール・マッカートニー風のラヴ・ソングで出来は悪くない。そこでまた韓国におけるロックへの正確な眼差しを知ることになる。
 チャン・グンソクは日本公演をしているようだが、歌はうまいのだろうか。このドラマではギターを演奏する場面が多かった。それは実際に演奏しているようで、歌えもするのだろう。となると、このドラマはグンソクのそういう才能に合せて作られたものか。長髪はよく似合っていたし、また場面ごとに変わる服装もなかなかよかった。一方のメリは、素朴な女の子という印象で、そういう女性が、女には不自由しなかったムギョルの心を捉え、また父の無理矢理の政略結婚でありながらも、徐々にジョン・インの心の中に入って行くという役柄であるのも、よくありそうなことで、ドラマにリアリティを与えている。もちろんメリはインには心を惹かれず、終始ムギョルを思い続けるが、これが実話とすれば、女をあまり信用せず、また女に縛られるのがいやなムギョルが、メリひとりで我慢出来るであろうか。確かに若い純粋な女性からすれば、格好いいロッカーの方が、会社の御曹司よりも魅力的に映るだろうが、韓国社会が現実問題として、それをどう思っているかとなると、若い女性が手放しで、明日がどうなるかわからない遊び人のようなロッカーに恋することに賛成するとは思えない。そのため、結末がどうなるか気になったが、メリとムギョルは10回も別れてはよりを戻すを繰り返して、いまだに結婚していないということであった。これは現実を見据えた描写だ。またロッカーはそういう生活であるからロックを演奏することが出来るという見方でもある。メリはメリで脚本家としての才能を磨き、ムギョルと同棲しながら、自分の仕事を持っているという結末で、これまた現在的な設定だ。女は男に養われることなく、自分の職業を持ち、好きな男と生活する。これは日本でも同じではないだろうか。結婚という枠に縛られず、まず好きかどうかだ。好きでなくなれば一緒に暮らすこともなくなる。これはごく自然だろう。ただし、子どもがいる場合、話は複雑になる。そうそう、ムギョルがメリと結婚したいことをメリの父親に伝える時、「音楽で稼いで、メリにおいしいものを食べさせ、きれいな服を着させるようにしてみせる」と言う場面がある。それを見ながら、ムギョルのロックとどう折り合うのかと思わせられた。だが、ムギョルが実在のロッカーで、しかもやわな音楽は大嫌いであったとしても、好きな女が出来た場合、彼女を喜ばせるために、金儲けをしたいと考えるのはあたりまえで、しかも男らしい。女も金も拒否したロックが、さてどのように面白いかとなれば、それは全く無味乾燥なシロモノに違いない。ロックには色気は欠かせず、それはたとえば好きな女をモノにして、存分に喜んでもらいたいといった、きわめて動物的な熱意と関係している。その意味で、ムギョルの先のセリフはとても現実的であり、説得力があり、このドラマを絵空事の甘ったるいものという評価を根底ではねつけるものにしている。つまり、このドラマは韓国ドラマ特有の使い古された筋立てをあれこれ用いながらも、基本の真実味は決して失っていない点で、実に巧みに、合理的に、しかも計算高く作られている。
by uuuzen | 2011-09-05 23:59 | ●鑑賞した韓国ドラマ、映画
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