人気ブログランキング | 話題のタグを見る

●第3章その3 ザッパを論ずるに当たっての試案
解熱剤を3回飲んでも熱はあまり下がらず。今38.2度ある。そのため今日はまた展覧会の感想を書くのは見送った。しつこい風邪で困ったものだ。



今日は1日中家の中でゴロゴロしながら、適当に寝むったりしたが、それでも効き目がなかった。仕事もしたが、それでまた熱がぶり返したようだ。期日がある仕事なので、さぼることも出来ず、それでいて焦るあまりさきほどは小さなミスをしでかした。こんなことなら風邪が直ってから気分よくした方がよかった。

●「ザッパを論ずるに当たっての試案」
音楽ファンであるにもかかわらず、まるで音楽雑誌を読むでなし、同じ趣味をもって満足カパックに論を交える友が身近にいるのでもない。文字による音楽情報で時間を潰すのであれば、別のジャンルのましな本を読む方がいいように思えるし、またひたすら自分の好きなレコード音楽を日々孤独に楽しむ方に時間を費やしたい。したがって、あたりまえだが、知らないことはまったく知らず、興味の対象外のことはまるっきり何の知識もない。しかし何が音楽的知識の常識で、そうでないかは誰が決めるのか。一口にレコード鑑賞趣味といっても幅広い世界だ。そこで何を常識と考えるかは、徹底した個人主義を貫いて構わない。レコードを聴いて音楽を味わうということは、元来音そのものと一対一で面する孤独な行為にほかならない。一回限りの流れゆく時の波を、自分の好むレコード鑑賞のデキゴトロジーで染め続ける行為は、人生を楽しく生きるひとつの意味だ。とはいえザッパをより知るのに、ザッパだけを聴いていてよいはずもない。案外と全然違うようなものの中に、ザッパの本質に近いものがある。小ブロシキを大ブロシキに拡大するだけの行為かもしれないが、あれやこれやの雑多な事象を援用しつつ各アルバムを解説したい。こう書くと、何となくボロゾーキンの大なる山や「大雑布大雑多論」を思い浮かべてしまう。だがボロゾーキンのことをアーだこーだと論じるのはボロ屋さんに任せておこう。また「正論」かどうかを判断するのは読者であるから、それを書き手が唱えることは、文章が「リアル」であるというのと同義であって、本来はザッパしか使えない。読者が鼻白むような「正論」という言は、いろんな異論に挑まれ、それはそれで議論沸騰でいいのかもしれないが、気が弱いので羊頭狗肉になりかねないそんな誇称を使うつもりは毛頭ない。破れ放題のアッパッパを着た「母さんたち」を犬の母親的、つまりドグマティック(dog-ma-tic)に論じるのが、ノンテリの役目であろう。「ノンテリ」は「ノータリン」にちょっと似ているが、もちろん「インテリではない」という意味の強引グ蔓ウェイ的造語。また「ノンテリ」は「照りがない」という意味でもあり、光らず、つやがなく、醜いものを形容するにもつごうがよい。「大ザッパ論」のタイトルはもう、とうに龍の頭ほどの貫祿がありそうで、その内容が蛇の尻尾のようにならないよう、執筆の道中、聖クリストフォロスにでも願かけたい気分だ。あるいは自分がクリストフォロスになった気分がする。肩に乗ったザッパの重みでこけてしまわないように、危なっかしくも慎重に大きな川を渡って向こう岸にたどり着こう。
 面白いものはいつの時代でも大きな人気を獲得する。だがせっかくザッパの音楽が面白いのに、アルバム枚数も大変多いうえ、それらが相互に入り組んで複雑に絡んでいることや、普通ラジオからよく流れて来るような音楽とは違いあまり耳慣れないこともあって、なかなかとっつきにくい印象を与えていると思われる。解説書などなくても、面白いものは言葉の壁を越えて伝わるものであり、またそういうものでなければ大人気は得られないという意見もある。無責任な話だが、どちらかというとその考えに賛同したい。英語ができるということが今ではインテリの必須条件になっている感があるが、できる段階もさまざまで、ザッパの曲の歌詞を1度耳にしただけでただちに笑えるという、インテリ度の極端に高い人はそうはいまい。「英語ができる・イコール・インテリ」の強迫観念から逃れてこそ、本物のインテリへの第一歩だと思うが、ジョークのユーモアが口から放たれた途端に把握できずに、必死にそれを解明しようとすること自体がジョークそのものの図だ。また、懸命に勉強してようやくアメリカ人並みにジョークを瞬時に理解できるようになったところで、それが人間世界の中でそれほどたいしたこととは決して思えない。アメリカでは5歳の子どもでもわかることが、人生のかなりの部分を費やすことによってようやく獲得できたというだけデは、何やら悲しい笑い話に近い。とはいうもののだ。それは百も承知で、やはりなぜザッパの歌詞が面白いのかを一度は通過して確かめておく義務を本書は負うべきだ。つぶさにザッパの音楽とそれにまつわる事象をたどって行くことによって、今までには見えなかったようなさまざまなことがよりはっきりとして来るし、こと日本においては、ザッパの音楽の面白さを解説すべく書かれた本はあるべきだ。だがそのためには前述した基礎資料に先立って、正確な歌詞や対訳が必要になる。だが、歌詞つきのすべての曲に対して、ザッパから正確な歌詞が提供されているとは限らない。そこでMSI独自に歌詞を聞き取って書き留めるという必要が生じた。それはアダム・カウフマン氏の丁寧な作業によって一挙に解決したと言ってよい。ところがそれはあくまでもレコードからの聞き取りであって、ザッパが読んで確認したものではないため、ザッパ側から提出されている資料と突き合わせると稀にミスが認められる。つまり英語を母国語とする人であっても完璧には把握できない歌詞があるということだ。またその歌詞対訳に関して、普通の辞書では皆目わからないような単語が多く、注釈をふんだんに設けなければ理解しがたい場合がある。その点はほとんどの歌詞翻訳を担当している茂木健氏の仕事はベストを尽くしている。本書はそういった基礎材料がなければかなり不完全なものになった。だが本書では歌詞を新たに読み直して自分で訳し、その要約を各曲につけた。これは、さまざまな解釈があった方が今後の研究に役立つと考えるためと、なるべくいろんな試論が提出される方が、ファンが持論を形成するのによいとの私論による。とはいえ異論、反論、激論、勿論、正論。無論、大雑多論の波浪立つがよい。
 ザッパ研究にはファンジンといったマニア向け資料が欠かせない。であるのに資料狩猟マニアではなく、ザッパに関連の膨大な資料を積極的に収集していないため、マニアにとってはあたりまえのことでも見落としていることがあるかもしれない。またいくつかの資料本にあることを引用して並べ代えるだけで、ザッパに関する別の1冊の本が出来てしまうという、安易で漫画的な現実を回避したい思いが山々の大山でも、基本的情報を押さえておかなければ、初心者には理解しがたいことが多い。そのためにどうしても資料本からの引用は無視できない。ザッパについての思いを初めて「大雑把論」にまとめた時、八木氏の文章に屋上屋を架しても仕方がないという意志はあって、なるべくまだ誰も書いていないような切り口で、ザッパを別の方面から見たものにしたかった。そして、その時点では1冊のファンジンすら所持しなかったのだが、時代が進んで、もはやそれではマニアを満足するものが書きにくくなっている。そこでMSIからの原稿依頼があった際、それまでの主な担当者である谷口まもる、片岡洋両氏の解説を参考として目を通す必要を感じ、浪速友あれ、「波浪ー」とばかりに、大阪の友人に「電話してコピーを送ってもらった。足りない分は相当後になって、MSIから好意で送付してもらった。だが、結局はざっと目を通したのみで、熟読にはほど遠かった。影響されて困るというのではなく、じっくり目を通す時間もないほどに自分の執筆のために手いっぱいであった。またこういう思いも影響した。他人の解説の資料的な部分は参考になっても、それ以外はその人の香りのようなものを感得しさえすればそれで役目は終わる。つまり他人の文章をいくら読んでも、自分は自分としてザッパの音楽に接して来た経験からしか書けない。そもそも「解説の熱烈な読者」という考え自体が本来たいしてあり得ないのではないか。「解説」という言葉はいかにも軽い印象がある。「評論」だと、価値を決めようと論じることで、論評を加える対象を手放しにただただ讃辞するのではなく、距離を置きつつもあらゆる知識と情報を駆使しつつ、冷徹に肉薄を試みる必要がある。そういうものが出現した時に「熱烈な読者」というものが生まれ得る可能性がある。
 とはいえ自分の勝手な感想や印象でもって、ザッパ作品を解釈する行為が、残酷にもザッパ作品を介錯してしまうことを危惧する。独善的一刀両断の記述が読者に固定観を植えつけず、ずっとアホなことを書いているなと批判されて、本書が反面教師的にザッパの音楽が秘めている楽しさを、より自由に幅広く味わうために役立つのであれば、思いはそうとう達せられる。解説や評論を読むことによって対象となる作品についてわかったような気になり、作品をもはや繰り返し楽しむことがないというのであれば、それは解説や評論が成功したとは言えない。より深く作品を楽しむための手引の用に供するものが解説や評論の役目で、そのためには読者の心に反論の波風を立てることもかえって意義がある。理路整然とさせるために何でも結論づけるより、あえてどこかに破れのようなものを残しておくのもよい。いや、そうでなくてもノンテリのことだからどこか綻びは自ずと現われる。わからないからこそいつまでも面白いということはあり、さまざまな解釈ができるというものが芸術の役目でもある。しょせんザッパの音楽についてアーでもある、こーでもあると野次馬勝手に云々を書くことは、ザッパという大きな星を取り巻く「宇宙の屑(ゴズミック・デブリー) 」のような存在に過ぎない。そのために正直なところ、後ろめたさと無責任さが混ざった気分に襲われることがしばしばで、大いに乗り気という心中ではない。ザッパについて一家言をもつ人は無数にいることだろう。その中で本書はそれなりの独立して漂うひとつの星屑で、ザッパについて書く他のすべての人もそれぞれ別の星屑同士、それらすべての集合体が星雲のような状態なザッパ星の周囲にある姿を想像する。そして星雲全体のあらゆる意見が大蜘蛛の張る糸のようにつながっていて、ザッパ星をあらゆる角度から眺めるのに便利な幅広い遊歩道かUFOの通り道のような役目を果たせないかと思う。フランク・ザッパのレコード音楽の面白い点のひとつは、さまざまな音楽の要素が1曲ないし1作のアルバムに混在、結合していることだ。これを踏まえて1作のアルバムをひとつの星と考え、星々が形作る星座、相互の関係としての「コンステレーション」を、解説間のそれになぞらえて置換したいという、非常にスケベエで痴漢的な夢を抱いている。それはちょうど、星座で、フロシキのような正方形をしているかもしれない。あるいはアザラシの赤ん坊の毛皮を広げた形か、ボロゾーキンのろくでもない山か、それとももう少し大きい犬の母親のような形で、宇宙のどこかに独善的に漂っているのかもわからない。いずれにせよそれは今ここの視点から眺め渡せる、勝手な云々によって描かれる星雲のようなものだ。

by uuuzen | 2005-08-02 22:14 | ○『大ザッパ論』サプリメント
●ブログ作成歩録16(コメント... >> << ●「MY FATHER’S E...

 最 新 の 投 稿
 本ブログを検索する
 旧きについ言ったー
 時々ドキドキよき予告

S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31
以前の記事/カテゴリー/リンク
記事ランキング
画像一覧
ブログジャンル
ブログパーツ
最新のコメント
言ったでしょう?母親の面..
by インカの道 at 16:43
最新のトラックバック
ファン
ブログトップ
 
  UUUZEN ― FLOGGING BLOGGING GO-GOING  ? Copyright 2024 Kohjitsu Ohyama. All Rights Reserved.
  👽💬💌?🏼🌞💞🌜ーーーーー💩😍😡🤣🤪😱🤮 💔??🌋🏳🆘😈 👻🕷👴?💉🛌💐 🕵🔪🔫🔥📿🙏?