種で思い出した。昨日、裏庭に生えている芋蔓からむかごを採取する時、かたわらの2本の牡丹のうち、小さいピンク色の花の咲く方に、濃い臙脂色の種子が7,8個、すっかり顔を覗かせていることに気づいた。

白い花は咲いた後に花を茎から切り落としたが、遅れて咲いたピンク色の方はろくに見もせず、いつ散ったかも知らない。花茎を切り落とさなかったため、花が散った後、種子が出来てしまったのだ。来年は花が咲かないかもしれない。種子は一晩水に漬けて土に蒔いてやると、3年後には小さな苗になり、6年目には花が咲くようだ。全く気の長い話だ。牡丹が富貴の象徴である理由もわかる。ずぼらな筆者は種子から育てるのは無理だろう。だが、せっかく出来た種子なので、植えたいと思う。さて、種田陽平という名前は今回初めて知った。この展覧会、夏休みの子どもたちを親子ともども動員するために企画されたことが見え見えで、前回のカンディンスキー展の時にチラシを見ながら、行くつもりは全くなかった。だが、鳥博士さんから招待券を送ってもらったので、別の展覧会を見るついでもあって出かけた。美術館が子どもが楽しめる企画展をすることは社会的に求められているし、また美術館側としても、昨日紹介したような、ほとんど名前が知られないようなモホイ=ナジを取り上げるよりも観客の入りが期待出来る点では欠かせない。子ども向きに企画された展覧会がどれも面白くないかと言えばそうではない。子どもだけで美術館を訪れるのは無理があるので、必ず大人の引率者がある。つまり、大人が見てもそれなりに面白いように工夫されている。筆者があえて見るのはそういう部分だ。だが、今回躊躇したのは、スタジオジブリの作品に関係している点だ。筆者は宮崎駿のアニメには、全くと言っていいほど興味がない。その理由をうまく伝えられないが、アニメらしくないアニメと言おうか、ナンセンスな笑いに満ちたものとは違う様子がいやなのだ。漫画やアニメの真髄はナンセンスものにあると信じているので、俳優を使った実写版に匹敵するような精細な写実や筋運びというのは邪道に思える。宮崎アニメは背景を含めて、リアリティが追求されているが、それが精緻になればなるほど面白くない。ほとんど実写に大差ない緻密な描写を売りにすることは、アニメの世界では技術的頂点として瞠目すべきことなのかもしれないが、実写をどこか意識したようなやり方は、背伸びしているようで痛々しい。最初から実写とは全然別のナンセンスはギャグものの方が漫画らしくていい。宮崎アニメは、背景画は多くの写真や映像を利用して、ほとんど絵画作品のように克明に描かれるが、そこに登場するアニメのキャラクターは、やんわりと影はつけられてはいても、輪郭を伴った平面的な表現、つまり昔ながらの漫画やディズニーのアニメと基本的には一緒で、それが背景の輪郭のない表現との間に齟齬を来たしていると感じて仕方がない。宮崎アニメの評判からして、筆者のような見方をしない人が多いのだろうが、筆者にはどうしても自然をとことん追及した背景画からそうした人物が浮き上がって見える。また、そういう方法にいっこうに疑問が抱かれずに、もっぱらストーリーに毎回知恵が絞られているようだが、漫画やアニメに対して、大人が子どものために考える思想など、かえって害があると思う。大人が大人相手に思想を展開するのはまだしもだが、まだ何も知らないような子ども相手に、思想を導く世話を焼くのは、むしろ罪ではないか。子どもための童話は昔からあり、それをそのままアニメ化するのとは違って、オリジナルの現代向きの話を作る場合、アニメ作家としてよりも、まず小説家、思想家の側面がしっかりしていなければならない。その点宮崎アニメが立派な内容を表現し得ているのかどうか、その心配をする。筆者が知らないだけで、宮崎アニメの各作品の思想を詳しく読み説いた本がいくつもあり、現代の思想家として宮崎駿がそれなりに評価されているのであればいいが、それはどうなのだろう。
宮崎アニメは多くの人を動員して作るもので、ある程度儲からなければ次作の製作費の捻出は難しいだろう。それはどの映画も同じで、多くの人を感動させ、支持される必要がある。つまり、玄人受けして、平均的な一般人には難解に思えるような作品では、自己満足の失敗とみなされる。ここが芸術とはいささか違うところで、娯楽の悲しさが見え透く。娯楽にも芸術があるのは当然で、宮崎アニメはそのようにみなされてもいるから、今回のような美術館での展覧会が開催される。だが、その芸術は、大多数を満足させるという前提があり、その前提は表現上の不自由な足枷となる。自分の作品は大きな収益を上げているから、普遍性があり、間違ってはいないと、作家が考えるようであれば、ただそれだけの存在で筆者にはさっぱり面白くないし、また、本当はもっと別のことをやりたいが、多くの抱えている人材を食べさせるためには、個人の勝手は許されないと思っているとすれば、これまた面白いものが出来るはずがない。大多数に歓迎されようがされまいが、内的欲求から製作するというものが芸術の基本だ。商業的なアニメ作品は、どうあがいても最初から内容は見えている。もちろんそういうことをよく知ったうえで、なおかつ良質のものを作るという思いが宮崎駿にはあるはずだが、さして個性的でもない登場人物の描き方を見ると、個人が作る短いアニメを見る方がはるかに開放的かつ独創的で面白い。宮崎アニメの人物の顔は無国籍的で、またどの作品も同じように見える。そのうえ、手塚や赤塚など、戦後の漫画作家の第一世代からやや遅れて登場した、個性のあまりない、平均的な描写と言おうか、それは、髭は生やしてそれなりに貫禄は出ているが、宮崎自身の風貌に応じて、圧倒的な作家的貫禄というものがない。と、ここまで書いてくれば、この展覧会にわざわざ行く必要もなかったことになるが、暇潰しがてら出かけたのであって、それなりの感想を書いておく。そして、今回は宮崎駿展ではなく、種田陽平という人物に焦点が当たっている。もっとも、この名前ですら、今こうして書いていてチラシで確認しているほどで、展覧会場にいる時でさえ、覚える気がなかった。興味のない恐ろしい。そのように無視しておしまいになる。同じようにして、芸術の興味のない人は、生涯その醍醐味などわからずに過ごす。そして、そういう人の生涯が精神的に貧しいものかと言えば、これは誰にも判断出来ない問題だ。個人は好き勝手に生きればそれでよく、芸術は好きな人だけが求めればいいし、いつの時代にも実際そのようになっている。であるから、モホイ=ナジの名前など知らなくても、宮崎駿を偉大な芸術家と賛美する者はいるだろう。村上隆も宮崎アニメの賛美者として知られるが、それは売れてこそなんぼと思う村上からして理解出来ることではある。
さて、『借りぐらしのアリエッティ』の題名くらいは知っているが、それがどういう作品であるかさっぱり知らず、また知りたいとも思わないので、そのアニメについては何も書くことが出来ない。今回会場を入って驚いたのは、この大きな美術館の半分が、簡単に言えばお化け屋敷に改造されていたことだ。いかにも子どもが喜びそうなそうした大がかりな構成にどれほどの制作費を要したのだろうか。内部がほとんど夕暮れの暗さであるから、倒れて怪我をする人も出る怖れがある。そのため一部屋に数人のアルバイトの係員が配置された。この経費も大きい。その各部屋は、このアニメに描かれる特徴的ではいくつかの部屋や場所を、小さな模型にしたがって拡大したものだ。その模型と言おうか、アニメに登場する舞台設定を種田陽平が手がけた。そして、通常の人が用いる一部屋を美術館の一部屋に拡大するのであるから、何から何まで巨大な模型として作って配置せねばならない。映画の小道具や大道具係が総動員して作ったのかどうか、ともかくアリエッティのテーマ・パークが美術館内に出現し、このアニメを見た子どもは大喜びだろう。タンポポやオオバコが人の背丈ほどの造花として立っていたが、福島原発の放射能の影響でそのように突然変異したのかと思うほど、それなりの迫力はあった。何度も訪れたこの美術館がそのように2か月の間、訪れる人が妖精か小人化するファンタスティックな空間に変わることは、たまにはいいことだ。また、それほどの経費をかけても、それが回収出来るだけの人気をこのアニメが持っているということで、それはそれで侮らずに認めるべきだ。今、チラシを見ると、謳い文句に、「現実(リアル)と虚構(ファンタジー)を融合(フュージョン)させる。」とある。括弧内の横文字が気になるが、言わんとしていることがあまりにあたりまえ過ぎて、その横文字が必要と考えられたのだろう。実写映画もアニメも、現実と虚構の融合であり、映画とはすべそうだ。ドキュメンタリー映像ですら、虚構性があるとも言える。人間が作り上げるものにはそれは不可避的に入り込む。だが、宮崎アニメの場合、先に書いたように、背景画が輪郭線のない写真のような精密さで、その上に漫画としての線描き主体のキャラクターが被せられる。チラシの謳い文句は、狭く捉えれば、宮崎アニメの形容そのものになっている。そう考えると、宮崎駿は、あえて現実と虚構を融合させるために、背景画を写真を思わせるように緻密に描かせるのだろう。だが、これも先に書いたように、筆者はそれが成功しているとは決して思えない。。融合などしておらず、ただ強引に重ね合せただけで、落ち着きのなさを感じてしまう。それはこの展覧会のお化け屋敷的な部屋の造形も同じで、観客が小人に感じるようにあらゆるものを拡大して設えられてはいたが、間近に見るそうした拡大オブジェは、作りものであることを否応なしに感じさせられ、舞台の書き割りじみた、すなわちキッチュ性を感じて、恥ずかしくなるところがあった。本物に接近しようと思えば思うほど、作り物にはそういう悲しいとも言える特質が増す。漫画やアニメが現実を志向し、写実の泥沼にはまり込むと、どんどん聖性を失い、かえって安っぽさを増す。『前回はこれだけお金をかけて精緻な映像を作ったが、今度はそれを凌駕するために、さらに精緻さを増そう』といったような考えに至ると、それは留まるところを知らない。手抜きをしないことは真面目として誉められるべきかもしれないが、その真面目もよしあしで、時に少数派の意見に耳を貸す方がいい。だが、往往にして、売れている存在は自惚れて、売れていない者はひがみから意見すると考えてしまう。
種田陽平という人の顔写真がチラシの裏面にある。会場でも同じ写真が拡大されて展示されていた。一見、森山大道に似ている。美術監督だが、筆者はこの人物が手がけた映画を1本も見ていない。そのため、ここに感想を書く資格はない。ちなみに手がけた映画の中で、筆者がよく知るのは『キル・ビルVol.1』のみだが、見ていない。『フラガール』も知ってはいるが、これも見ておらず、見ないでも内容がわかると思っている。『キル・ビルVol.1』はタランティーノ監督の意欲作で公開当時大いに話題となり、見たいと考えながら機会を逸した。チャンバラ映画の持ち味を大幅に取り入れた作品で、やはりキッチュの面白さが見所になっていると思うが、「現実と虚構を融合」させたという形容がふさわしいだろう。この映画の美術、つまりセットの様子が今回は多くのパネルで紹介されていて、それを見て思い出したのは『ゴジラ』だ。1950年代にすでに邦画は大がかりなセットを作って、それをゴジラに破壊させた。東京の街並みを模型で作って、それをゴジラの目線で俯瞰撮影する様子は、『キル・ビルVol.1』にも用いられた。その意味で、種田の仕事は、邦画全盛時代の才能を受け継いだ。『キル・ビルVol.1』では、武家屋敷のような日本建築がセットで作られた。その内部には当然障壁画があるが、その絵を種田は日本の江戸時代の名画の引用合成で作った。コンピュータ時代ではそれは簡単なことで、またキッチュからしてもそうするのが当然だ。そうした元ネタとなった絵に、若冲の鳳凰を描いた絵が大きく使われた。その鳳凰と対になったのが宗達の雷神で、双方の間には光琳の水模様がぎこちなく使われた。江戸時代の美術にうるさい人が見ると、驚き、笑うだろうが、いかにも江戸時代にあったような、リアルな絵を創造して用いるのではなく、引用合成で済ましているところが、この映画にはふさわしい。つまり、あえてそのような無茶とも言える合成をした。だが、あながち無茶とは言えない。宗達、光琳、若冲とつなげば、明らかに一本の筋が通っているからだ。その点で種田の用意周到さがうかがえる。そこには、遊びという余裕もあって、仕事を楽しんでいるふうでもある。『キル・ビルVol.1』以外に手がけた映画の美術が同様に写真パネルでいくつも紹介されていたが、その点で、今回は前半が子ども向きの遊園地、後半が大人の美術ファン向きの構成であった。種田の才能はアジアの若手映画監督にも高く評価されているとあった。今日TVを見ていると、津川雅彦が、「日本の映画は9割が駄目だ」と語っていた。それは簡単に監督になって映画を撮る時代が来たからとも思えるが、津川の評価の一方で、むしろ今の邦画はどれも完成度が高いと見る向きもあるだろう。そしてそういう評価の元に、種田の仕事があるだろう。良質の美術が良質の映画を生むと考えるのはしごくもっともな話で、いかにセットを現実らしく作るかということの中に、虚構としての映画の全体的なリアリティの向上がある。誰しも映画を何もかも作りものとわかって見るが、俳優の立派な演技とは別に、セットがあまりにも本物そっくりであること、あるいは種も仕掛けも丸わかりで笑えて来ることに一方で感動するという、かなり捻じ曲がった鑑賞の仕方をする。作品を味わうとはそういうことだ。ま、現実があまりにつらいと、人は居心地のいい虚構を求める。映画好きには孤独な人が多いとよく言われるが、ほとんど映画を見ない筆者は孤独ではないのだろうか。だが、映画に限らず、何らかの作品が好きというのは、虚構好みであって、それは映画好きとあまり変わらないかもしれない。