徘徊というのがふさわしいだろう。「オン・ザ・ロード」の副題がこの展覧会の本質を物語っている。鳥博士さんからもらったチケットで、お盆前に見に行った。

森山大道の名前と写真をよく見たのは、80年代に若者に人気があった『写真時代』という月間誌だ。そこに毎月連載があった。だが、あまり記憶に残る写真はない。それは、派手なアラーキーこと荒木経惟の写真に目が行ったことと、売りにしていた女の裸の写真を貪り見たからだ。だが、赤瀬川原平などの連載の文章も面白く、『写真時代』はエロ雑誌に現代美術を足したような雑多な味わいがあった。そこに森山のざらついた写真が載っていたが、それはエロを売りにするのではなく、都会の片隅の下町風情をさびしそうな表情で撮っていて、やや時代遅れの雰囲気を感じもした。アラーキーやその他のカメラマンの写真が派手なカラー・グラビアで印刷されていたせいでもあるかもしれない。森山は、名前の字面から、東京出身ではないと思っていたが、今回の展覧会で池田市の生まれであることを知った。22歳で大阪で有名な写真家の岩宮武二に弟子入りし、その後、細江英公のアシスタントを経て25歳で独立している。師と呼ぶべきふたりは日本を代表する写真家だ。そういう人物に学んだことは将来が約束されていたとも言えるだろう。もっとも、大勢の弟子がいて、森山のように頭角を現わすのはごく一部で、大半は商業写真家として終わってしまうだろう。25で独立というのは、ふたりの師を合わせて3年学んだわけで、これは短いのか長いのかよくわからないが、筆者は師と呼べる人に2年就いて、それで充分と思ったから、ま、若い間では妥当な年月だろう。本人が仕事を覚える気力に溢れているのであれば、2,3年で充分だ。また、その間に自分の創作を始めているか、思い描いているのでなければならないことは言うまでもない。また、25で独立してどう食べて行くかが問題となるが、森山がその点どうであったかは、今回会場となった大阪中之島の国立国際美術館で配布されたふたつ折りの年譜によってわかる。27で『カメラ朝日』に作品が掲載され、29で、同誌への発表によって新人賞を受賞している。その後は季刊写真誌に参加、33で横尾忠則とニューヨークに滞在、34で写真集を出している。結婚は26で、翌年長女をもうけているから、がんがん仕事をして稼ぐ必要と、また名を上げる意欲もあったろう。実際はがんがん稼いだかどうか知らないが、有名人と知り合い、人脈がそれなりにあれば、また仕事の多い東京であれば、どうにか食べることは出来たであろう。面白いことに、35で一時的に鎌倉の寺にこもっている。34で出した写真集は『写真よさようなら』で、先のふたつ折りの年譜の表側に印刷されている会場構成の説明によれば、この写真集以後、写真が撮れなくなって行くとある。この写真集の前に撮って発表していた写真は、同じ34歳で写真集『狩人』にまとめられて出版されたが、25で独立してちょうど10年、結婚もし、写真集も出したで、大きな区切りを迎えていた。それほどにがむしゃらであった10年ということか。また、この最初の10年に森山の特徴はすべて出ていて、その後はそれを拡張統合化に向かったと考えてよい。寺にこもって何をどう悩み、また迷いを解決したのかは知らないが、10年続けた仕事を全部否定して新たなジャンルに挑戦するということはなかなか出来るものではない。
『写真時代』はその最初の10年からさらに10年他って創刊された。数冊は所有しないが、ふたつに分けて紐でくくって隣家に置いてある。これを書いている今はページを繰ることが出来ないが、森山の40代の仕事が同誌に掲載され続けた。先に書いたように、筆者はその写真に70年代の匂いを感じたが、ということは、森山は最初の10年の経歴をそのまま歩んだことになるか。それは80年代にあって、古臭いというのではないが、流行やファッションという意味合いからはやはりかけ離れたものであった。だが、レトロ感覚を売りにするという意味ではない。都会の皮相的な部分に強く寄り添うのでもなく、その皮相的な下に昔から変わらず染みついている日本の街の感覚と言おうか、言い返れば街中に住む無名の人々の、時代の流れに沿いながら、そこからも弾かれているような白けた感じが滲み出ていた。それは田舎っぽいという表現ではふさわしくない。都会的なのだが、どこにでもあるような日常性で、それでいてざらざらした感じだ。そういうものを求める意志が森山にはあるということだが、それは森山の生まれた時代や場所が影響しているだろう。大阪生まれと知って、なるほどと思った。それに、筆者より13歳年長で、生まれは大阪だが、千葉や福井に住み、そして11歳から豊中、16で京都の中学校、17で大阪市立工芸高校に入学して、放校処分されている。何か悪いことをしたのか、学校にほとんど通わなかったかだ。そして、同校の夜間部に学び、平野で商業デザインを学んでいる。戦争体験もあり、また各地を転々と暮らしたところが、写真家向きの経験であったと思える。また大阪の工芸高校は筆者の下の妹が卒業したが、大阪ではかなり歴史の古い学校で、またバウハウスの教育方針をいち早く取り入れたところもあって、有名人を多く輩出している。ここまで年譜を見ながら書いて来て、森山が工芸高校に入学したことを知って、一気にその作風が馴染む気がした。だが、森山が大阪にそのまま留まらず、22で東京に出る決意を固めたことは大きな転機になった。狭くて、商業的にも遅れた大阪では活躍の場が狭められたはずだ。1961年に上京したことは、東京オリンピックの3年前であるから、まだあちこち混沌としていた東京を見て、その後に東京人としても自覚を持つことも出来たであろう。森山の写真に漂う、疎外されたような街や人の表情は、20歳までに各地で見た風景の影響が強いはずだ。驚くべき経済発展を遂げた東京や日本となったところで、その浮ついた皮を剥がせば、昔の混沌とさほど変わらない庶民の思いが渦巻いているという見方をしているのではないだろうか。何が日本の真の姿かとなると、先端の流行ファッションといったものは、うすい皮膜に過ぎず、その下には食って寝てセックスするという人間の変わらぬ営みがあるだけで、それこそが真の日本、真の人間の姿であるという思いだろう。したがって、森山の写真は、着飾ることが好きな人は嫌悪するかもしれない。かといって、森山の写真が、世間の暗くて醜い部分を好んで取り上げているというのではない。
写真は記録と思えば、撮ってから年月を経た方が味わい深くなるとも言える。懐かしさが増すからだ。森山の写真にもそういうところがある。撮ってすぐに見た時は、何だかいやなものを突きつけられている気がするが、10年以上経つと、昔の味わいが強まって安心して見ることが出来る。それは森山にとっては不名誉だろうか。写真はその時代の空気を切り取るから、古い写真が懐かしく思えるのは避けられない。いかに撮影時に最先端のファッションに身を包んだ人物を撮っても、かえってその最先端からすぐに風化する。人の着ているもの以外に、女の場合は化粧が時代を強く反映する。男にしても時代に応じた顔というのがある。そして、そう思えば、たとえば最初の10年であらゆるものを撮ったと森山が仮に思ったとしても、同じ態度で撮り続けても、写ってくれるものが勝手に時代に即して変化するから、結果的に森山の写真は違ったものになり続ける。この点、写真家は画家よりかなり気楽な商売ではないか。ところで、最初に徘徊という言葉を使ったが、会場では森山の最近の撮影の様子をドキュメントした映像が流されていた。全部見ていないが、20分ほどは見た。森山の顔や姿を初めて知ったが、予想とは大きく違った。長髪で、どちらかと言えば大きな人だ。昔撮った東京の下街を歩き、右手に持った小さなカメラのシャッターを盛んに押していた。それはデジカメではなかったろうか。その撮影の様子は想像したとおりで、とにかく気になった瞬間にさっと撮る。1日で100枚や200枚は撮るはずで、そうした中からこれぞという1枚が得られるのだろう。感覚を研ぎ澄ますにはそのように徘徊し、絶えず気になるものを撮り続けるしかない。筆者も毎日のようにスーパーに買い物に行く途上、気になるものがないかと暗に探している。いつも同じ道を歩くので、もう目新しいものはほとんどないが、それでも探す。すると、それなりに気になるものがまた目に入って来る。撮影の対象になるのはそんな時だろう。そして、表現と言えるものは、そうした日常の地道な行為の連続からしか生まれない。それを森山は半世紀やり続けて来た。「オン・ザ・ロード」という展覧会名は森山にふさわしい。歩きながら被写体を見つけ、そして撮った写真を前にまた考えて歩く。徘徊の中にしか作品は埋まっていないとするその態度は、森山の落ち着かない幼少時代の生活に関係しているだろう。スタジオの中でモデルを撮ったり、予め決めたとおりに被写体を構成して撮るということは性に合わず、路上でたまたま遭遇した瞬間を撮る。その一瞬に命があり、その命は二度と同じ形では再生しない。写真とはそんな瞬間を記録するもので、それは絵画にはない強みだ。
図録が売られていたが買わなかった。手元にはチラシしかないが、その裏面を見ると、6点の写真が小さく掲載されている。その最初は「野良犬」で、1971年の白黒作品だ。これが代表作とされている。会場ではやや大きめに焼かれたものが展示されていた。それでも森山の写真は概して小さい。もっとも、大きく焼くことも出来るし、今回は最初の大部屋には、近作の東京を写したとても大きな、畳1枚分ほどのカラー写真が隙間なく埋められていた。デジカメで撮ったと思うが、とても鮮明で、間近に寄って直径1センチほどの顔の人物がはっきりとわかった。それはさておき、野良犬を見かけなくなったのは、ここ20年ほどだろうか。保険所がやって来てすぐに捕らえることと、犬は完全にペット化して家族の一員として大事に育てられる。確かに野良犬が街中に目立ったのは1970年代前半までだ。特に多かったのが60年代後半だろう。育てられる犬にも流行があり、60年代前半はスピッツがはやった。そうした犬がよく捨てられ、街中で平気でさかった。真冬の市場の前で、数匹の雑多な野良犬が集まり、そのうち2匹が交わり、その様子をものほしそうに小型のかわいらしい犬が口を開けて見つめ、自分も交わりたいといった表情をしていたことを思い出す。そして、そんな時は大人が必ずと言っていいほど、水をかけるか、箒を持って追い立てた。野良犬は自由に交わることが出来たが、嫌われものでもあった。そういう野良犬が空腹を抱え、人間をどのような思いで見つめるようになるかは、想像に難くないだろう。だが、犬をペットとして大切に飼う人にはそれがわからないかもしれない。いや、今でも平気でペットを捨てる人はあり、犬も例外ではない。ただ、野良犬になった途端、区役所に連絡が行き、捕らえられるだけの話だ。まだ保険所がそういう作業に熱心でなかった時代は、森山の「野良犬」のように、半ば狼にも見える凄みのある顔をした犬がいた。もちろん、普段は餌がほしいからそんな顔を人には向けないが、水でもかけるか、箒で追い立てると、たちまち恐い顔で見返す。この「野良犬」から人間を連想することも容易だが、森山はそういうすさんだ人物の顔を撮っていない。それはなぜか。含羞があるからか。だが、「野良犬」からそういう人間や社会を思うことは出来る。その意味で、この路上で遭遇した野良犬は、時代と社会と世相を映しながら、森山の芸術となった。チラシの2番目は「ヨコスカ」と題する写真だ。ゴミが堆積した夜の狭い路地の奥へと若い女が入り込んで行く。女は裸足で、しかも1971年らしく、ミニ・スカートだ。そのためか、半分尻が見えている。この謎めいた写真は、モデルを使って演技させたものではないだろう。ヨコスカを徘徊していた時、たまたま出会った女が奥に駆け込んで行ったのだろう。「ヨコスカ」という題名がいかにもドラマティックだが、これも実際にそこで撮っただけのことで、徘徊と膨大に撮影する態度の賜物だ。この写真は、桐野夏生の小説『アイム・ソーリー、ママ』の表紙や見返しに使用されたので知る人も多いだろう。この小説は、森山の写真の世界に近いものがある。いや、森山の写真は桐野の小説ほどグロテスクではないが、本質を抉り出すようなところは共通する。また、森山の「ヨコスカ」は、その小説を離れて、また別の何かに使われると新たな息吹を湛えるはずで、そこに言葉と映像の差があって面白い。つまり、森山の写真からどのようなドラマを読み取るかは個人の自由で、森山自身が自作について深く語っていないのがいい。いや、これは筆者が知らないだけかもしれないが。