擬態語の題名であれこれ書いて来たが、今夜で終わりにする。撮り溜めた写真の一掃をかねて続けて来たところがある。
以前に書いたように、撮ってすぐにこのブログに載せられない写真、あるいは書こうと思いながらその機会がなかなか訪れない話題がけっこうある。遅ればせながらもそれら全部を投稿出来るかと言えば、半分以上は結局没だ。それが無駄かと言えば、そうとも言えるし、そうでないとも言える。たいていの場合、その没になるものが多ければ多いほど、公表されるものは質が高くなる。このことがわからない人、あるいはわかっていても実行出来ない人は多い。そこがプロとアマの差だ。修行の量が多いほど実りの質が高いということだが、同じように修行する人の全部が全部、一流となるかと言えばそうではない。やはり大半は平凡なままに終わる。ほんの一握りの者だけが一流になるのでなければ一流の意味がない。それがわかっていて、その一流になることに賭ける人はいつの時代でも多い。そして、大部分が没的存在になるが、そうした人も日々修行を続けることはあたりまえで、それをしない者は最初から一流になれるはずがない。ま、この一流の意味を言えとなると、また難儀なことになるが、自他ともにそうと認める存在ということにしておこう。先日TVで、世界に誇る日本人のベスト・テンが表示された。イチローや北野武が入っているので、現存の有名人ということだが、物故も含めるとどうなるか。北斎が入るのは確実と思うが、日本人が誇れると思う人物と、海外がそう思っている人物との間には差があるはずで、北斎は現存物故を含めて、ベスト・テンに入らないかもしれない。また、アンケートを取る世代と知性に大きく関係するはずで、結局一流人というものは、絶対的な存在ではないことになる。それはさておき、先日郵便局でカラーのチラシを1枚もらって来た。「8月の記念切手」と題したもので、4種のシートが紹介されている。その下に7月28日発売の「日本国際切手展2011」と題する3種のシートも小さく印刷されている。そのうちの1枚は北斎の「富嶽三十六景」から10点を選んでそれぞれ80円切手にしている。もう1枚はシール切手で、鉄腕アトムやピカチュウなどのアニメ・キャラクターで、子ども向きだ。もう1枚は金箔を使用したもので、500円切手が2枚印刷され、合計1000円分だが、販売は1200円、このシートのみ特別に割高だ。本物の金箔を使用している点が売りだが、あまり面白みはない。このチラシをもらって来たのは、北斎の「富嶽三十六景」が選ばれていることだ。去年か一昨年か忘れたが、国際文通週間の切手に「富嶽三十六景」から昔選ばれ、近年またそれが復活したことを書いた。そのうち同版画集の全種が切手になるかと期待しているが、別の画家の作品が取り上げられるなど、足踏み状態が何年か続いている。ところがこの「日本国際切手展2011」だ。

このチラシを目にして思ったことは、どれも以前に一度切手になったものが目立つことだ。これにまずがっかりした。だが、その次に思ったことは、切手の大きさや額面、文字などは以前のものとは違うが、二度目の切手図案となって、以前と比べて色合いがどう違うかだ。また、今回の10枚のうちには、どうも1、2枚ほどは初採用された図もあるようだ。帰宅して調べると、同じ図でも色合いがかなり違うものがある。それは北斎が別の色で刷ったと考えてよい。版画の保存状態の差で色が変色したこともあり得るが、そういう状態の悪いものを選んで切手図案用に撮影はしないだろう。やはり同じ「富嶽三十六景」でも版によって微妙に色合いが違うと思える。その意味からすれば、同じ図をふたたび切手にすることは、あながち退屈なこととは思えない。また、筆者のような古い世代は昔「富嶽三十六景」から切手に選ばれたことは知っているが、それはもう45年ほども前のことだ。今の若い人には大昔のことであり、今回の10点の北斎画を新鮮な面持ちで手にするだろう。だが、この焼き直しは、郵便局が日本的な絵画、しかも世界に誇れるものを今までに次々と採用して来たあまり、もう手の内がさほど残っていない証拠と見ることも出来る。となれば、また50年と言わず、20年ほど後に、「富嶽三十六景」から同じ絵を切手に採用している可能性は大きい。そして、その頃になると、「富嶽三十六景」の好きな図をいつでも買えるシステムが整っているだろう。筆者はクロネコ・メール便の方が安い場合は、ほとんどそれを利用するので、記念切手を買うことはなくなったが、今でもたまに花の切手は買うし、また、「日本国際切手展2011」の北斎は買おうと思っている。チラシに印刷された小さな図版からはわかりにくい部分があることと、やはり初めて採用された図があるからだ。どうやらそれはわずか1種だが、その1枚だけでも、「富嶽三十六景」の全図切手化に一歩近づいたことになる。それはさておき、この10種の北斎の富士の版画のうち、2枚が赤い富士のクローズ・アップだ。切手をデジカメで撮ると、何度撮影し直してもピントが合わず、ぼけた写真しか出来ないが、それを掲げておこう。さて、以前何かで読んだ話に、この赤富士は、男性のシンボルが勃起して、ふんどしを突き上げている様子の見立てというのがあった。それは笑い話には最適だが、春画を盛んに描いた北斎であるから、そういう暗示を案外込めたかもしれない。そこには卑猥さはなく、火山のように勃起する男根は、北斎にとって、仕事に対するエネルギーの象徴で、たいていの人もこの北斎の赤富士を見て、むくむくと内面から力が湧く思いがするのではないだろうか。そして、それは万国共通に思える。その点でも北斎は国際的に評価が高くて当然の才能ではないか。何年か前にも筆者はこの赤富士の図を思い出して、仰向けになりながら、同じような富士山が下半身に出現するかどうか確認したことがある。結果を言えば、まさに絵のとおりで、白パンツ富士となった。パンツの頂点から左右に傾斜する曲線も絵そのままであった。女性にはそういう遊びは出来ないが、女性が北斎の赤富士を見ると、「珍峰」と叫んで内心喜ぶと、先の本には書いてあったような気がする。はははは、こんな話になるのは、今日も雨で、昨日立てたテントがたためず、境内にそのままにして帰宅したからだ。立ったままのテントはつらいか。

昨日も掲げたが、タイルが左右から寄って来て斜めにつき合わせになる箇所を時々見つける。そのうち、筆者が昔から気にしているのは、大阪市営地下鉄の中央線本町駅だ。そのプラットホームのちょうど中央が、昨日と今日の写真のようにタイルが左右から貼られて来て、それがぶつかったところでは、変形タイルが見られ、三角形が出来ているのが面白い。当然と言えば当然過ぎる光景だが、扇型のタイルであれば、こういうことは生じないから、山型に接する様子は、矩形を基準とした、例外的な、実際はまずい状態を示す。まずいのはまずいが、面白くもあり、タイルを貼った時の職人のやや困った顔が見えそうな気がする。昨日掲げた写真では、盲人用の黄色の四角い板も貼ってあり、それも同じように山型を形成している。この黄色のプレート上をまっすぐ歩いて来た盲人は、その曲がり点で、角度をやや変化させねばならず、その時内心にどういう動揺が生じるのだろう。「タイル職人の奴、ここで遊びやがったな」と思うかもしれない。だが、タイルが矩形であればこれは仕方のないことだ。左右からタイルが寄せて来て必然的に三角形は生まれる。松尾橋の下流側の歩道上から眼下に見える砂州は、左右の川の流れが形づくる。左右の力があって三角形が生まれることは、自分の両手を合わせて三角形を作ってみてもわかる。そう言えば筆者は子どもの頃、トランプを立ててよく三角形を作った。それを土台に城を作って行くのだが、左右の力の均衡を面白がったのだ。どちあらかがわずかでも強いとトランプの白は平らに崩れ落ちる。体にそても、左右のどちらかに曲がっていると健康にもよくない。息子は車を運転する時、左肩が異常に上がったままで、背骨がすっかり歪んでいる。そのことを指摘しても本人は曲がってないと主張する。自分の背中は自分で見ることが出来ないし、また親の言うことすべてに反対を唱える息子であるから仕方がない。他人に言われると初めてわかるのだろうが、わかったとこで直そうという気持ちがない。そのため、ずっと背骨が曲がったままになるが、それではシンメトリカルな富士山と勃起パンツのアナロジー、そして桂川の砂州と地下鉄のタイルの相似の面白さということにも気づかない。背筋を伸ばして生きるには、二等辺三角形を思い続けるのがよい。