始末する態度はいいが、あるものを使わないでは意味がない。一昨日、母親の家に行くと、節電のためと称してクーラーをかけていない。ひとりで住んでいることもあって、電力がもったいないし、また我慢出来ない暑さでもないと言うのだ。
こっちは炎天下を歩いて来たので、少しくらいは涼しさを味わいたいが、母は今年は一度もクーラーをつけておらず、またリモコンが見当たらないと言う。クーラーの本体を見ると、ボタンなど一切なく、すべてはリモコンで動かすタイプで、とにかくリモコンを見つけなければどうにもならない。10分ほどしてようやく出て来たので、室温を28度に設定してスイッチをオンにした。おそらくその時のみが今年の使用で、またクーラーを使わないだろう。筆者もクーラーなしは平気だが、それは小さい頃にクーラーに慣れていなかったせいだろう。クーラーを必要とするほど暑くなかったからだが、そんな昔に比べてはるかに暑くなっているのに、クーラーなしでもいいと思うのは、よほど神経が鈍感になっているのか、その逆に強靭になっているからだ。ともかく、母ひとりではよくても、筆者や家内、そして妹がやって来ると、人の体温で部屋の中はよけいに暑く感じる。それと同じで、電車やバスの車内のように、人がにぎにぎしく集まった状態でひやひやとした空気がなければ苛立って来るので、そういう場所では以前のとおりに冷房すべきであろう。だが、百貨店や電車は設定温度を例年より少し上げているようで、阪急電車は特にそのようだ。京都の市バスは、バスによって温度設定が違うようで、涼し過ぎる場合もある。また、人によって温度の感じ方が違い、筆者がちょうどよくても、寒いと思う人があって、電車やバスの温度設定は難しい。だが、暑い暑いと言いながら、今年もお盆が過ぎ、もうすぐ9月で、涼しい風が吹く。夏はせいぜい汗をかけばいいとはいえ、昨夜のニュースで知ったが、今年は熱中症で救急車で運ばれる人が急増している。老人は自覚症状が劣るため、我慢出来ると思っているが、体が言うことを聞かない。心と体は別のものと思う必要があるのだが、老人になるほどに頑固になって、何事も過信する。そして、クーラーなしでも平気と思うが、体はどんどん熱くなって、気づかない間に意識を失う。であるので、母も我慢せずに毎日クーラーを使用すればいいが、言うことを聞いてくれない。朝は4時頃に起きるらしいが、正午まで8時間あるのに食事をしないから、午前10時頃に足に震えが来ると言う。それで水や牛乳を飲むとそれが止まるらしいが、それも意識と体が乖離している証拠だ。意識がそのように体のことを考えないことが、老化の大きな特徴だが、そのことを指摘してもやはり聞く耳を持たない。一番いいのは、妹がそういうことまで留意して世話を焼くことだが、親子でもそうしたことは意思の疎通がそれなりに難しいらしい。

8月中旬になって猛暑がぶり返し、電力の危機が迫ったが、お盆休みに重なったので救われたようだ。綱わたり的な電力供給ということか。それでも停電にならずにどうにか行くだろう。となると、原発は今以上には必要がないということだ。巨大地震で原発問題、電力問題が浮上したが、そのかたわらでフジテレビが韓流偏重であると意見がかまびすしい。嫌韓に微妙に偏重報道反対が混じって、論点が曖昧になっているが、筆者には巨大地震とこのフジテレビ批判はどこかでつながっているように思え、そこがいやな気にされられる。巨大地震による精神的な大きな衝撃の持って行きようがなく、その鬱屈を吐き出すには、ネットの書き込みにおける罵詈雑言のし放題の嫌韓行動は最適だ。関東大震災の直後にデマを信じた日本人は朝鮮人を虐殺したが、ま、それと同じような思いや行動はそう簡単にはなくならないだろう。今回の嫌韓派のデモが拡大すれば、容易に東京の韓国人街が破壊されたり、また虐殺なども起きるかもしれない。そして、それを正義と煽る連中が、自分こそ純粋な愛国主義者で、何の罪もないと主張するだろう。そんな図は、何かの拍子に簡単に起こり得る。韓国を紹介する番組よりも日本の伝統的な文化を紹介するTV番組を見たいと言うのであれば、関東大震災の後に朝鮮人がどう扱われたかという歴史も、日本の伝統性として踏まえておくべきと思えるが、NHKでもそのような恥部となる事実をあまりあからさまに紹介しない。つまり、TVはNHKですら昔から偏重していることを自覚する方がよい。また、偏重を言えばあらゆるものがそうで、それがない存在はあり得ない。ともかく、TVの偏重が気になるのであれば、批判もいいが、それよりもっといいのは見ないことだ。その方が節電になって、原発推進派側にも応えるのではないか。それはさておき、電力消費が多くて電力会社が停電を起こさないかとひやひやしている状態は、にぎにぎひやひやと形容してよい。原発事故以前なら、もっと電気を使いましょうと、電力会社は宣伝に余念がなかったのに、供給が危ぶまれると節電してくれと言う。だが、本当はこの節電状態が正常であるはずで、不要なものは使わないのが美徳だ。そういうあたりまえが無視され、たとえば誰もが携帯電話を持ち、以前ならしなかったメール交換で多大の時間を潰している。もっとも、これは人生そのものが暇潰しの連続であるから、否定されるべきことではない。人生とはしょせん退屈なものであり、その退屈を何で埋めるかを人類は古来考え続けて来ている。その最も輝かしい発明はTVであったが、その黄金時代は半世紀ほどであったようで、携帯メールに王座を譲った。その携帯メールはTVより長持ちするだろうか。それは携帯メールに変わる斬新な暇潰し道具がいつどういう形で生まれるかにかかっている。スマートフォンのアプリは、言うなればその暇潰しのための道具で、予めセットされた枠内で人が遊ぶ点でコンピュータ・ゲームと同じだ。便利なアプリがたくさんあると言うが、つまるところは誰かがプログラミングした世界の中で遊ぶもので、創造性というものはなく、受身だ。これが筆者には面白くない。真っ白なところに自分で何かを埋めて行くことが楽しいでのあって、それが創作の基本だ。携帯電話のメールにもそういう面はあるが、個人相手に何か短いメッセージを伝えることの中に、どれだけ普遍的とも言える内容を盛ることが出来るかとなると、その可能性は筆者のような携帯メール無縁の老人にはさっぱりわからない。TWITTERと同じで、結局有名人のものしか注目されず、また残らないのではないか。そして、その有名人になるには、普通の女子高校生が、電車や学校で1日に100回のメールを誰かに送ることは何の役にも立たない。そういうことに気づいている者がネットの2チャンネルに書き込んでうさ晴らしをするのではないか。

先日大阪の中之島にある国立国際美術館に行った際、向かい側に立つ関電ビルの前で、原発反対の人々が10人ほど座り込みをしていた。その場所は直射日光が当たり、全くごくろうさんな状態であったが、ビルを見上げると、節電を願う馬鹿でかい垂れ幕がぶら下がっている。どれほど遠くからそれが見えるのか、おそらく空気が澄んでいれば5キロほど離れても読めるだろう。美術館からの帰り、ビルを見上げながらその写真を撮ったが、電線が邪魔をした。それでどうせ入り込むなら、それを構図にしてやろうと考えた。その電線は皮肉なことに、垂れ幕を真中でさえぎり、電線をくまなく張り巡らした者が節電をお願いするという漫画的な図が仕上がった。見上げながら思ったが、関電ビルは部屋数がいったいいくらあるのか、おそらく1000は下らないだろう。それほどの部屋が必要なのだろうか。日本の人口は減少傾向にあるというのに、背の高いビルがどんどん建つ。これが筆者にはさっぱり理解出来ない。省エネと言いながら、不要なものを建てている。そこには建設会社の思惑が作用しているが、そこには将来を見据えた計画がある。つまり、100年ほど先にそのビルが老化した時、その解体を手がけることも出来る。そして解体すればまた建てるで、一旦建てると、建設会社は永遠に潤うように出来ている。そのため、節電のかけごえを聞くと、最初からよけいなものを作らねばいいのにと思ってしまう。たとえばクーラーだが、必要のない人や部屋もあるはずなのに、世間の目があったりで、ほとんど使わないでも取りつけてしまう。そして取りつけると使いたくなるのは人情だ。原発は同じようにして日本中に増えた。そして、使わなくて済む電力をみんなに使わせ、そのことで電力会社が潤い、必要のない馬鹿でかいビルを建てた。そのようにしてお金が回っているからいいではないかという意見があるが、回り回って必要のない税金が使われもし、貧しい人はどんどん貧しくなり、意見を言うことすら出来ない立場に追い込まれる。原発で潤った人は、強者のみで、弱者には放射能がプレゼントされただけだ。いつの世の中も人間は全く同じことを繰り返し、やくざまがいの強者のみが生き残る。そして、そのやくざも集団となって代を重ねると、それなりのしきたりや制度を作り、乙に澄まして公家や武士という新たな階級となって、それなりに社会を動かすお上の存在となる。天皇が僧兵を黙らせるために武士を使い、その天皇が白拍子に子を孕ませて跡を継がせるといった平安時代の様子と同じようなことが、今ではちょっとした会社の社長あたりが誰しも真似をしていることであって、権力すなわち金、そして女といったようにつながって世の中が動いている。それはそうと、関電ビルを見上げた後、長堀に出て、心斎橋を歩き、戎橋に出た。グリコのネオンが消えていたが、これは節電のためか、あるいはまだ真っ暗な夜空でないためか。その巨大なネオン看板の右手に、新しくスーパー玉出の縦長の液晶広告があった。それが面白く、5分ほどその正面に立って眺めた。いかにも大阪らしい下品さも持ち合わせ、全体的にアホらしい内容にうさが晴れた気分だ。スーパー玉出はレジの女性に中国人を使っているが、なかなかてきぱきしていかにも大阪らしくてよい。