先月、MSIのH社長からザッパがらみの用件で電話があった。10数年ぶりのことだ。MSIはザッパ・ファミリーが通販のみで世に出しているCDを輸入して日本盤として販売しているが、そうした動きとは別の企画で、その内容についてはまだどうなるかわからないので、ここでは書けない。だが、ザッパは相変わらず企画ののぼる存在であることはわかる。さて、以下は昨夜の続き。
そんなある日、それは「大雑把論の息子」を書いてから8年目の1991年9月上旬、面識がないMSIのH社長から原稿執筆依頼の電話が突然かかった。ザッパはその当時、大部分の旧LP作品のCD化発売を終えていて、未CD化アルバムは10点程度残すだけであった。ところがH氏の話によると、ザッパはその未CD化作品を従来からのライコディスクからではなしに、今度は自分のバーキング・パンプキン・レーベルから直接発売するというのであった。予想したとおり、その後の結果はライコディスク盤とははっきり異なって、ジャケット等のアートワークがオリジナルLPのように充実し、いよいよザッパがCD発売を他社に任せずに、自分自身でコントロールしようとの決意の表われと見えた。だがバーキング・パンプキンから発売された初CDは、通販専用LPであった『ベイビー・スネイクス・サウンドドラック・ピクチャー・ディスク』で、これは89年6月に遡ることであったから、ザッパとしてはライコディスクとの契約更新といった機会に、残るアルバムは自社発売に切り換えたかったのだろう。MSIは結局ライコディスクとは無関係にザッパのバーキング・パンプキン・レーベルと契約し、その日本盤の販売権を得るに至った。
ところが、このことは従来とは違ってMSIを面食らわせる原因を少なからず招いた。ザッパの考えによって、日本盤の歌詞対訳と解説はザッパから委任を受けたサイモン氏にチェックを行なってもらう必要が生じたためだ。MSIはこれを契機に、今までの主な解説担当者の谷口まもる、片岡洋の両氏とは別の人物を探すことにした。これは内容充実度を高めると言うより、むしろ逆の理由だったろう。当然のことながら、MSIの思惑としては、ザッパがアメリカで発売した後、1日でも早く日本盤を出したい。それらの新しいCDはアメリカでは91年9月から発売開始予定だが、おそらくLPと音の大差はないだろうから、『スタジオ・タン』『スリープ・ダート』から順に書き進めてほしい、そしてザッパからテープとジャケット・フィルムが届いて、もしCDとLPの違いが確認できれば、その時に解説内容に追加訂正しようという話であった。MSIは原稿枚数をおよそ15枚と考え、極力これ以上にはならないようにということであった。読み応えのある内容にする自信が最初からたいしてあるものでもないが、頼まれると断れないたち野郎、たかが15枚ならとたかをくくりつつ、我が身の肉引き裂く思いで、ザッパについての四方山話ではなくて、初めてアルバム解説を手がけることを引き受けた。ところが、ザッパの自伝である『リアル・フランク・ザッパ・ブック』すらまだ購入していなかったので、大慌てで京都市中を回って、ようやく最後の一冊と思われるものを入手した。これで解説を担当するというのだから無責任このうえない、たちの野郎。やがて何枚かのアルバム解説を担当する間に、原稿枚数に関してはMSIの半ば黙認をいいことに、しだいに強引グ蔓ウェイ主義をはびこらせ、もちろん稿料が増えはしないが、とうとう最期あたりの解説では40枚を越えてしまった。それ以上になると文字があまりに小さく詰まり、読む方もしんどいというMSIのO氏の意見で、ようやくそれもそうだと目が覚めた。ザッパのことになるとつい熱が入ってしまい、ついMMK状態、つまり「もっともっとこだわる」。自宅で仕事をする身、本職の合間にザッパの解説を書く時間は見つけられる。しかし、普段から心積もりがなかったから、同じ情報を盛るとしてもどういう文体にするかで悩んだ。結果としては「大雑把論」に比べて相当硬くなった。それはH氏からの急な依頼にハエ・ハエと応えたのはいいが、慣れないことで頭がカ・カ・カと緊張ールしたためにもよる。また制限原稿枚数以内では、くだけた言い回しや冗談を多く交え、ザッとした調子で一気に原稿の枡目をパッパと埋めることはもったいない。そのため、ましな情報を少しでも詰め込もうとするのはやむを得ず、なおさら文章は硬くなった。と、これは勝手な言い分。実のところは最初の解説はえらく硬い調子の「E型」と、漫才のようなお笑いを主にしたうれしがりの「U型」の二種類の原稿を用意し、「E型」がいいと採用されたのだった。本書では「E型」を主体にしつつ、随所に駄洒落がうるさい「U型」要素を交えて、自分なりに息抜きをした。当時我が家にはファクシミリはあって、ザッパから届いたジャケットの確認や、サイモン氏の意見、あるいは解説のゲラ刷りや校正などの送受信に大変に役立った。いや、ファクスがなければ仕事が間に合わなかったに違いない。ところがワープロをまだ所有しておらず、原稿はすべて原稿用紙に手書きで郵送し、MSIのKさんによってフロッピー・ディスクに移し変えられ、紙にアウトプットしたものをファクスで送ってもらった。その後すぐに誤字や内容の訂正を行った上でまた送信し直す。これを実際に行なって痛感したのは、ちょっとした内容の変更をしたいと思うたびに、フロッピー文章の修正を依頼せねばならないことに気が引けたうえ、しかもファクス用紙も膨大に使用した。自分で締切間際までワープロの中で文章を加工し、その完全なものを1回で送り届けられれば、どれほど便利なことだろう。ようやく93年9月からは自分でワープロを使用してザッパ解説を手がけることになった。H氏の原稿依頼の電話からちょうど2年経っていた。
執筆依頼のきっかけは、88年に白夜書房から発刊された『ザッパ・ヴォックス』の中に再録された「大ザッパ大雑把論」をMSIのO氏が思い出したことによる。その2冊からなる重い本は八木康夫氏が執筆したもので、現在は絶版。八木氏はザッパのワーナー・ブラザース時代(日本ではワーナー・パイオニア)のLP『アポストロフィ』から解説を担当を始めた。次のアルバム『10年目のマザーズ=ロキシー・ライヴ』と『スタジオ・タン』では抜けたものの、以後『ハエ・ハエ・カ・カ・カ』までの日本で発売されたLP計13点の解説を担当し、『ザッパ・ヴォックス』の1分冊はその再録を中心にまとめている。なおこのLP解説だけは、ビデオ・アーツ・ミュージックから94年に『ユー・キャント・ドゥー・ザット・オン・ステージ・エニィモア』の全六集のアルバムが箱入りで一括して発売された際、その特別製のブックレットに再々録された。八木氏が解説を担当する以前には、ザッパ/マザーズのアルバム解説者は単発中心で、ひとりに固定することはなかった。それらが1冊の本にまとめられそうにはない。また八木氏は『ザッパ・ヴォックス』以降、MSI時代のCD解説を5点ほど執筆している。前述したようにMSI時代は谷口まもる、片岡洋両氏が全部で10数点で筆を奮った。原稿枚数はさておくとして、それとほぼ同じCD枚数の解説が『大ザッパ論』にまとまった。両氏のザッパ解説はまだ1冊の本にはまとめられておらず、またMSI盤はすべて現在廃盤なので、その詳細きわまる文章は残念ながら簡単には読めない。