湿り気があるとほっとする。台風の影響の雨というが、昨日の山鉾の巡行でなくてよかった。祇園祭りは毎年雨に祟られる日が1,2日はあるが、今年は山鉾がある間は雨が降らなかった。
昨日書き忘れたが、宵山で山や鉾を見ると、ふと今夜行ってもまだそこにあるような気がする。だが、実際はまた1年待たねばならない。そして、その1年が若い人ならいいが、仮に余命が数か月と宣告されている人であれば、残酷に響くだろう。だが、余命はいくらと告げられなくても、生涯においてもう二度と出会わなくなっていることはいくらでもあろうし、またこれからもあるだろう。そのあたりまえのことを思えば、毎日を充実した思いで過ごさねばならない。つまり、今この瞬間はもう二度とないと思えばいい。このことは、過ぎ去ったことにこだわらないという意味で使うことも出来る。今年の祇園祭りの宵山は終わったが、来年また巡り合えればそれはそれで楽しめばいいし、何らかの事情でその機会がなければそれもまたいいとの思いだ。そして、そのように思っていると、同じことの繰り返しには興味がなく、常に新鮮で未経験な何かを探し求めることとなって、これが若さを保つひとつの秘訣でもないか。この「新しいこと大歓迎」は「それは何?」という興味とつながっている。そして、「それは何?」という興味は赤ちゃんや幼少の頃は抱きやすいが、老齢化すると、未知のものが眼前に現われると、たいていは鼻でせせら笑って「どうせつまらないものだろう」と軽く値踏みしがちだ。もうそうなっていると、完全に老化していて、先は短い。そう言う筆者も「どうせつまらないものだろう」という思いはよくあるが、そういう中にも「ちょっと待てよ」と思うことがままる。これが大事なのだ。これはわずかな差のようだが、決定的に大きな差で、「ちょっと待てよ」と思わない人は多いし、また思ってもその対象が見当外れである場合もまた多い。筆者が手ごわいと感じる誰かがいるとすれば、その「ちょっと待てよ」の感覚が異常に発達している場合だ。それは嗅覚が鋭いと言い換えてもよいが、その嗅覚の対象が問題で、単に流行に敏感、あるいはセンスがよいといったものから、かなり通好みの世界を知っているという段階までさまざまで、筆者が言うのはもちろん後者だ。その通というのは、いくら勉強しても駄目な人は生涯駄目だが、それでもさまざまな世界でそういう凡夫が有名になっていたりもする。それでもそういう人が次世代に何かをそのままバトンタッチする意味合いからすれば存在価値はそれなりにある。そういう人がいなければすっかり伝達すべき過去の遺産もそのまま埋もれてしまうことが多い。また、そのように凡夫による伝達の長い歴史の間に、いつか急に途轍もない異才が出現する。そういう人は「ちょっと待てよ」の思いが極端に発達している。さて、今日はまたいつもの駅前の変化シリーズでもいいが、一昨日掲げようと思い、また文章も書いていたものを次に載せる。一昨日はあまりに長くなるので、前半を切り離した。冒頭の一文字は満月の「大潮」からの連想で「塩」にしたが、それは大塩平八郎のことを少し思い出していたからだ。以下はその切り離した部分だ。

大潮で思い出すのが大塩で、もちろん平八郎だ。これも書いたかどうか、大塩平八郎の『洗心洞箚記』の「箚記(さっき)」を、『おにおにっ記』では洒落で使用した。「思い出すっ記」とか「思い出しっ記」とかのシリーズを作った際、「さしすせそ」のうち、「さ」だけは「おもいださっき」とは言えないことに気づいていた。そこで考えたのが、「おもいだ箚記」だ。つまり、「思い出さっ記」とは言えないので、「思い出箚記(おもいださっき)」と題した。筆者はが大塩平八郎(中斎)に興味を抱いたのはもう30年かそれ以上前になる。岩波文庫の戦前の『洗心洞箚記』を当時古書で入手した。それを買った店は塚口駅近くの店で、今もあるのかどうか、そこの店主とそこそこ知り合いになり、ここでは書かないが、その後ちょっとした交流があり、筆者の個展にある品物をいただいたこともある。それはいいとして、『洗心洞箚記』は分厚くてしかも難解、読み始めたはいいが、漢文でもあって、内容がとてて歯が立つものではなかった。その後ずっと気になりながらこの年齢まで来たが、いつか読破したいと思っている。だが、それには儒学のことも深く知る必要がある。特に平八郎の場合は、朱子・陽明学だが、これは言うは簡単だが、現在は学者がとても少なく、もう過去の遺物と思われているところがある。それはそれで別段かまわず、少しずつ回り道をしながらも、興味の核に接近して来ているつもりでいる。韓国ドラマに関心があるのも、実は日韓における儒学の需要の差と現状での差だ。だが、これには儒学の教えの上にキリスト教が重なった韓国と、そうはならなかった日本との差があって、宗教が深く絡む。そんなこともあって、なかなか『洗心洞箚記』には進めないでいる。先に書いたように、『おにおにっ記』では「箚記」を「思い出」と一緒にして「思い出箚記」としたが、その使い方は間違いではない。「箚記」には随想録の意味があって、いわば筆者のこのブログ全体にふさわしい言葉でもある。そんなわけでもないが、まず中斎の墓の写真を掲げよう。ある女性と中斎の墓を初めて見たのは四半世紀前になる。インターネットのない時代で、地図で調べて出かけた。大阪市北区にあって、梅田からか、地下鉄の南森町から歩いたが、記憶はすでに定かでない。寺の名前も忘れていたが、これを思い出す機会が3か月ほど前にあった。天神橋筋商店街を天六から南に抜けて中之島まで歩いた時、途中で商店街を出てすぐ西側の大きな通りに出た。そして信号をわたって西側の歩道を南に向かっていると、右手つまり西側に大きな寺の塀が続いた。その塀が途切れたところ、中斎の墓所があるとの看板が目についた。そこでその成正寺に中斎の墓があることを知った。四半世紀ぶりに中斎の墓を見るのもいいかと思い、四つ辻を西に折れた。そこから100メートルほど西に墓が見える門があって、その付近まで来た時に遠い記憶が蘇った。門を入ろうとすると、孫をふたり連れたおじいさんが、門の奥に見える墓を指差しながら何なら説明している。それと同時に、いかにも観光客然とした20代半ばの女性も門の中に入ろうとしながらきょろきょろしている。筆者はどんどん中に進んで写真を3枚撮った。今日はその2枚を掲げる。写真を撮っていると、先の若い女性も入って来て、じっと墓を見ている。中斎に興味のある若い女性は珍しいのではないか。写真を撮って門の外に出ると彼女も少し遅れて出て来たが、筆者が元の道を戻るのに対し、彼女は西、つまり梅田方面に歩き去った。

四半世紀前に見た日は、調べると正確にわかるが、ま、それはやめておこう。筆者が記憶する光景は、向かって左の中斎の墓石の前の手水鉢のような丸い水を溜める穴に大きなミミズが入っていたことだ。それが水の中でもがいているように見えたが、中斎の異常な苦しみにも思え、何となくぞっとした。これはついさきほどのことだが、家内が裏庭の土ではないコンクリート部分にミミズが何匹も干からびて死んでいると言う。雨が降らず、また庭に水をやらないので、土の中はこの猛暑でこもっていることが出来ないのだろう。ミミズでさえも生きて行くのが苦しい世の中だ。中斎は奉行の腐敗に我慢がならず、それを糾弾するために立ち上がったが、結局思いは破れて自害する。為政者が腐敗のきわみにあったのは、江戸の武士の世の中も末期にあったからでもある。現在の政治家がどの程度腐敗しているのかどうか、そして中斎のような人物が出るのかどうか、それを考えた場合、現在が江戸の末期のような時代かどうかが問題となるように思える。武士がいなくなるという大変換に比べるべき状態が、現在の日本の政治にあるとはまず思えない。何しろ民主主義であるから、これをどう変革するというのか。だが、腐敗らしきことは武士の時代に劣らず今はあるだろう。先日もTVでは沖縄のある土地を民主党の大物が買い占めたと言っていた。そのすぐ近くにアメリカ軍の施設がいずれ出来るので、政治家が買ったその土地は先々莫大な価格で転売出来るようだ。インサイダー取り引きと同じことを政治家はいち早く情報を得て行なう。蓄財にいくら熱心とはいえ、それはあまりにも我欲が強過ぎる。弱者の立ち場に深く同情し、また行動した中斎が生きていれば、そういう政治家をどう思ったことか。だが、一方では中斎もまた出世欲があって、自分の地位を上げたいがために行動し、その見込みがないと悟ったので乱を起こしたとか言う研究者もあるし、以前NHKの特集番組ではその立場に立っていた。だが、中斎がそれだけの小さな器の人物であれば、中斎を長らく匿ったりした人物がいたであろうか。それに、思想の本として有名な『洗心洞箚記』を著わした才能に匹敵するような政治家が今いるかとなれば、これは全く絶望的であり、いかに政治家の質が落ちているかは国民の誰もが知る。中斎は大阪が生んだ異才であり、政治の腐敗があるところ、永遠に思い返されるべきだ。大阪には昔から中斎のファンがいて、本を書いている人もいるが、大阪がローカルとみなされている現在の状況では中斎研究は今ひとつ全国区にはなり難い印象がある。惜しいことだ。

以上が一昨日載せようと思いながらカットした部分だ。今日は雨なので、土中のミミズもほっとしていることだろう。中斎の墓の写真だけでは物足りないので、3日前、満月の写真を撮った際についでに写した桂川の砂州の写真をまた掲げる。一昨日の満月写真の2枚目と3枚目の間に撮った。すでに川面はかなり暗かったので、写真は少し明るめに加工した。三角形の形は相変わらずだが、これは雨で増水すると消滅したり、また三角形の頂点がもっと尖る。この三角形が実際はどれほどの大きさはわかりにくいので、いつか機会があればこの頂点に筆者が立って、誰かに橋の上から撮影してもらおうと思う。さて、もう2枚今日載せてもいい写真があったが、毛並みが違い過ぎることもあって、機会を改める。そのようにしてたくさんの未発表写真が溜まって行く。日が過ぎるということは、そのように何でも溜まる一方であることだ。「吐き出せば吐き出すほどの思いかな」と、今一句思い浮かんだ。で、今もうこれで終わりにしようと思っていると、すっかり雨が上がって、蝉が鳴き始めた。先日蝉がわが家の裏庭の合歓の木で鳴いたが、今年は蝉の鳴き声が少ないように感じる。昨日はそのことについてネット・ニュースに地震の前兆かもしれなと不気味なことが書かれていた。阪神大震災の前の夏も蝉の鳴き声が少なかったらしい。ということは半年ほど後にまた大地震か。その可能性を思っておいた方がいいだろう。何しろ地震学者はさっぱり勘が鈍いと来ている。蝉や鯰、蛙やミミズなどの小動物の方がまだましかもしれない。人間も動物だが、その本能を少々忘れ過ぎているか。本能もいろいろで、金儲けに熱心なことも案外に雌獲得、種族保存につながってのことだろうが、為政者にそれが横行すると、国を揺るがしかねず、結局元も子もない。本能の中でももっと高次のそれに突き動かされるのが、本当に格好いい姿ではないか。それがわかっているのは、おそらく本当の芸術家と呼ばれる人たちだけだ。中斎もそこに含めていい。