昨日と今日は終日韓国ドラマを観たので、ブログに書くべき文章が用意出来そうにない。それで、10日ほど前の出来事を書く。
筆者は京都嵐山に住んでいるが、大阪から京都にひとりで移り住んだ時、最初は右京区の梅津に住んだ。梅津では1度だけ引っ越しをしたが、もうどちらの家もすっかり建て替えられた。それでも道筋や店など、まだ変わっていない場所が多いので、たまにそうしたかつて住んだ家の前を通ることがあると、ほんの少しは懐かい。嵐山にはスーパーは小さいのが2か所あるだけなので、食料品の買い出しには自転車で10数分の梅津やさらに10数分かけて桂あたりに行く。気分転換と運動を兼ねて、そうした買物の役目を筆者が負うことがしばしばあるのだ。嵐山よりは断然人口が密集する梅津もここ20年ほどは次第にさびれて来た印象があり、やや大きなスーパーが2か所あるが、それでもあまり大したことはないため、桂にあるもっと大型のスーパーに行くことの方が多い。だが、そうしたスーパーも、品物が豊富ではあってもあまり安くないことが最近はよくわかって来たので、梅津のスーパーで済ますことも増えている。で、10日ほど前、久しぶりに家内と、散歩がてらに梅津のスーパーに行った。そのスーパーは半年ほど前だと思うが、すっかりオーナーが変わり、当然品揃えや店舗の雰囲気も一新されたが、噂に聞いていただけで出かけたことはなかった。わが家には自転車か1台しかないので、家内は松尾までの1駅を電車に乗り、その後はスーパーまで15分ほど歩く必要がある。これが夏ならば汗だくになるので、家内は梅津のスーパーに行くのはどうしても敬遠してしまうのだ。それはいいとして、10日ほど前の夕方、まだ出かけたことのないそのスーパーにまで家内と足を延ばした。その前に別のスーパーでたくさんの買物をしたので、それを自転車の荷カゴに入れたまま、筆者はスーパーの駐輪場で家内の買物を待つことにした。初めてのスーパーなので筆者も一緒に入ってもよかったが、そのあたりには自転車でよく出かけるし、重い荷物を持って店内をぶらぶらするのが面倒そうなのでやめた。まだ陽が沈んだばかりで明るいが、待っている間にほんの少しずつ空気が紫色を深めて日が暮れ行くのがわかるような時間帯だ。
停めた自転車のすぐ横に立ってスーパーの1か所しかない出入口を眺めていたが、筆者から3メートルほど前方の出入口寄りに1匹の犬がおとなしく坐っているのに気づいた。首輪はしている。しかし鎖にはつながれていない。買物客が連れて来たのだろうと思いながら、その犬を見るともなく眺めていると、時々立ち上がって出入口の方をさびしそうに見つめる。いや、地面に坐っている時でも顔はずっと出入口に向けたままで、首を長くして誰かを待っているという雰囲気が滲み出ている。中型犬でシェパードによくあるような黒っぽく短い毛並み、体型は柴犬に近い。そして、全体にうす汚れてみすぼらしく、老犬と言ってよい。自転車置き場には30台ほど停められいたが、筆者が待つ15分ほどの間に次々と買物を終えたおばさんがやって来て、半分の台数がなくなった。もうそろそろこの犬の飼い主もやって来るに違いないと、こちらまで首を長くして待つのだが、それらしい人が現われない。家内より先に店内に入ってまだ買物を終えて出て来ない客はいるだろうが、それでも家内より後に入って先に出て来る客がたくさん目についたから、飼い主がいるとすれば、よほどじっくり店内を見ているのだろう。そんなことを思っていると、ひとりの顔や手足が麻痺して正常に動かない、40歳を少し出たようなとても痩せた中年男性がビニールの小さな買物袋を下げて出て来た。いかにも人がよさそうで、上は白のランニング・シャツ1枚、下はベージュ色のズボン、それにサンダル履きで身なりはよくない。経済事情は想像出来る。その男性のすぐ後に、赤っぽい色のワンピースを着た、全く対照的によく太った大柄の中年女性が、同じように買物袋を下げてやって来る。ふたりはどうやら夫婦のようだ。奥さんも主人同様に、教養はあまりなく、動作も鈍く見えるが、それでも体全体から優しい人柄であるのは伝わる。
初め、ふたりは犬をしげしげ見つめるので、てっきり飼い主かと思ったが、すぐにそうでないことがわかった。自分たちは毎日このスーパーにやって来るのに、今日に限ってなぜこんな犬がこんなところにいるのかという顔をして、あたりをきょろきょろ見始めた。そして奥さんが独り言する。「かわいいなー」。犬が尻尾を静かに振る。だが、すぐにまた出入口の方を見る。吠えることはなく、クンクンと声を出すこともない。夫婦は本当ならばすぐに帰宅するのだろうが、犬のすぐ横に立ちながら、「いい犬やなあ。かわいいなー」の言葉だけを何度も繰り返し、5メートルほど離れたところに立つ筆者の顔を見てついに声をかけて来た。「この犬かわいいね。ほんまにいい犬や。連れて帰って飼いたいわ。ほしいなあ。誰の犬やろ」「ぼくもさっきからずっと見ているのですが、どうも飼い主がいないような気がして来ました。首輪はつけているけど、鎖でつながれていないですしね」「そうやね。ほしいなーこの犬。連れて帰りたいなー。いい犬や。スーパーの犬かな」「そうではないと思いますよ。もしスーパーの犬でしたら、こんなところに鎖でつながずに置くことはないでしょうしね。野良犬でしょう。連れて帰ってもいいと思います。それでも首輪があるしな…」「飼い主がおらへんがったら、連れて帰ってもええのんかなー」「いいんじゃないですかー」
そんな会話をしていると、家内が両手にずっしりしたビニール袋の包みを持って出て来た。それで夫婦との会話はもう終わってしまったが、まだ犬のことが気がかりなようで、犬の傍らを去らない。家内とそこをを離れたのでその後のことはわからない。夫婦が犬のそばにいた時間は10分ほどだ。夕餉の準備をしなければならない時間帯であるので、見知らぬ犬のそばに立ち尽くす時間としては長い。夫の方は笑顔のままずっと体を小刻みに揺らしながら、一言も喋らず、奥さんのそばに立ったままだった。夫婦が現われるより前から筆者はその犬が優しそうないい犬だなと思っていたが、筆者のその感情と全く同じ反応をその夫婦は持ったわけだ。これが何となく嬉しかった。というのは、次々と出て来る買物客は犬のそばを通りながら、誰ひとりとして犬には注目もしなかったからだ。何か食べ物があれば犬に与えたかったが、そうしたものがなく、また飼い主がひょっと現われれば、餌を与えたことに立腹されるかもしれない。それは夫婦も同じ気持ちであったと思う。夫婦は犬と一緒にしきりに出入口の方を見やりながら、飼い主が現われてほしそうな、それでいて現われてほしくないような表情をしていたが、あの犬はきっと野良だった。そう思ったからこそ、連れて帰ればと無責任にも夫婦に言ったのだが、飼い犬であれば鎖でつながれるはずで、それをしていない飼い主であるから、そんな無責任な主よりこの夫婦に飼われる方がいいと思ったのだ。鎖でつなぐには格好の鉄柱が犬の真横に立っていたし、いくら噛みそうにない犬とはいえ、やはり食品をたくさん扱うスーパーの前ではつなづ必要がある。しかし、もし野良犬だとすば、何とおとなしかったろう。野良犬は人間にいじめられたりして、脅えた表情をしている場合が多いが、この犬もどちらかと言えばそうだが、それでもじっと誰かを待つといった雰囲気があり、人間馴れしていることはわかった。暮れ行くスーパーの出入口近くでぽつねんと坐ったり立ったりを繰り返しながら、全く脇目もふらずに誰かを待っているような、まさに忠犬そのものの姿はどことなく哀れであった。犬だけならばあまりそう感じなかったかもしれない。夫婦が下げる買物袋は、その脹らみ具合から、中にはごくわずかなものしか入っていないことがわかったが、着ているものも安物丸出し、しかも夫はきっと障害者手帳を持っているに違いなく、子どももおらずにふたりでどうにか日々を暮らしているというのがもろに伝わった。そうしたごく平凡な心優しい夫婦が、野良かもしれない老犬に心を寄せている姿が、人間というものの哀れさを伝えたのだ。かわいそうだと言いたいのではない。筆者は着飾って人を見下すような高慢な連中よりも、貧しく目立たないが優しい表情を湛えた人の方がずっとずっと好きだ。犬に飼い主がおらず、その夫婦に引き取られて行ったことを願う。