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●『プリズム・ラグ 手塚愛子の糸、モネとシニャックの色』
物関係の展覧会で、大山崎山荘美術館で6月12日まで開催されていた。その最終日に家内と出かけた。招待券は鳥博士さんからもらった。この美術館は河原町とは反対方向で、これだけ見るために出かけねばならない。



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だが、もう昔のように1日に3,4つの展覧会をはしごする元気がなくなって来たので、ひとつだけ見てゆっくりするのもいい。3月に行ったばかりなのにまたかという顔をして家内は渋ったが、招待券は2名用で、駅前から出ている送迎バスに乗れば山を登らずに済む。帰りは下りで楽なので、バスを待たずに駅まで歩いたが、5分ほどの距離だ。最終日は日曜日で、それもあってか人は多かった。作品を半分だけ見て2階のテラスに出て背割り桜方面の写真を何枚か撮り、そしてテラスに面した喫茶室で休憩した。筆者はビールを飲んだ。小瓶で500円だったか。ジョッキでぐいぐい飲むというのは、周りに作品があることからしてあまりいい光景ではなく、ビールは小しか置いていない。小で500円はスーパーで買うことを思うと高いが、家で飲むのとは違う雰囲気代が含まれている。ところで、さきほど河原町に出て岡崎まで足を延ばしたが、木屋町にガールズ・バーがいくつかあって、飲み放題がいくらなどと派手な張り紙が目についた。実際は酒代はわずかで、女の子を近くにはべらせる料金がほとんどだ。女の子を随時募集もしていて、「1日15000円保証」といった張り紙があったが、不況でもあって手っ取り早くそういう場所で稼ごうとする女性はいくらでもいるだろう。そうした女性の生活を支えるために、男は高い酒と知りながら足を運ぶが、あまりに高いと暴れて、TVから締め出された大阪の漫才師もいた。それはさておき、家内が言うには、そのガールズ・バーの広告に大きな写真で顔が写る数名の女の子はみな同じような化粧で同じ顔に見えるが、大学生も同じ化粧であるらしい。だが、高校生もそうだ。つまり、学生が水商売の女と区別がつかない時代になっている。また家内が言うには、大学では喫煙していいコーナーをあちこちに設けてあるのに、学生はそれを無視してタバコを吸い、それを見つけた職員が注意すると、殴りかかる学生があるという。そしてそれに抵抗して手を出した職員は学校を辞めさせられたらしい。こんなアホな話はないが、低能な大学生を相手にペコペコする仕事など精神衛生上悪い。クビになってもせいせいしたと思えばよい。また大学も大学で、低能な連中をひとりでもふたりでも集めて収入を増やしたい。その収入はどっちみち豪華な建物に消えるだけで、大学を学問の場と本気で思っている学生は1割もいない。それで正常であり、その1割の1割が学者になろうとする。だが、いつも言うように、その学者はほとんど一般人は存在を知らないし、知る必要もない。そのほとんどの一般人が大学生の9割以上が占める。であるから、大学生の女が水商売女と区別つかない化粧とファッションであっても、それもまた当然で、卒業して就職先がなければ1日15000円は保証されるガールズ・バーに行けばいいと思っている。それなら中卒高卒でそういう職業に就けばいいが、大学生時代に親の脛をかじって男とさんざん遊びたいし、またそうして遊んだことでガールズ・バーになおさらふさわしい水商売の雰囲気を持つことが出来るし、雇う方もそれを期待する。
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 さて、また関係のない話を枕に長々と書いてしまい、どう話を続けていいものか。この展覧会、あまり取り上げる気はなかったが、写真を撮って来たので、その消化の意味からも取り上げておこう。展覧会の内容を一言すれば、既成の織物の一部を解体して糸を引っ張り出す行為を作品としたものだ。簡単にたとえると、たとえば今日阪急電車の中から見た光景に、青のビニールシートを半分被せた状態の古い木造家屋の解体があった。今までは決して見えなかった2階の部屋の壁や1階の居間がちらりと見えた。その家屋の見てはならないものを見た感じだが、人は住んでいないので、そういう光景を誰も不思議とは思わない。だが、改めて見ると、きわめて非日常的で、夢を見るようなところがある。同じ光景が一気に大量に出現したのが東日本大震災で、津波に襲われた多くの家が内部を晒け出した。そういう姿は芸術ではないが、芸術家が別の場所、たとえば美術館内で同じ様子を見せれば芸術となる。芸術の定義はしごく簡単で、みんなをあっと言わせばいい。「こんなところでこんなものが」を思わせたものが勝ちだ。非日常的な存在を改めてそうであると人々に示すだけでよい。それを初めてやったのがフランスのデュシャンで、小便用の便器を「泉」と題し、自分のサインも入れて美術品として展示した。便器などどこにでもあるが、それを作品と称して展示した人はいなかったから、これは一気に有名になり、その後同じようなことを考えて実行する芸術家が大勢出たし、今も出ている。今回展示された手塚愛子の作品は、商品として織られた織物を使い、それに手を加えて自作としている点で、デュシャン的だ。また、織物を部分的にほどいて糸を見せている点では家の解体と同じで、いわば解体屋、外科医でもある。織物はそれだけで完成したものだが、その完成の一部を解体する行為は、織物を未完成的な状態に戻すことかと言えば、そうでもありながら、その解体する部分が手塚の一種の絵を描くのと同じ造形感覚に支えられ、しかも手塚がほどいた糸をまた元通りに織ることは無理なので、外科手術とは全く相容れず、やはり家の解体に近い。あるいは死体の解剖と言えばいい。ここに若い女性の死体が横たわっているとする。そのままで美しいと思うか、あるいは腹を切り裂いて内臓を見て美しいと思うか、人によってさまざまだが、手塚は後者だ。ここで重要なことは、解体して内臓だけ取り出して見せるのでは決して美しくないという思いだ。あくまでも若い女の他の解体されない部分と開かれた内臓が一緒に見えていなければならない。それは簡単に言えば悪趣味だ。みんなスーパーで肉を買うが、たとえば豚や牛が一体丸ごと店内に置かれ、少しずつ部分が切り取られて売られる光景を見ると、食欲はどうに変化するだろう。そのぞっとするようなところに実は芸術のヒントがある。手塚が着目するのもそこで、どこにでもある古い織物をゆっくり周到に部分を解体し、内臓である糸を垂らして見せる。その糸は元の織物になることは永遠にないし、またそうして解体された立体的とも言える織物は置き場所にも困るようなものと化すが、その用を脱したところもまた芸術であるための必要条件だ。道端に織物の一部がほどけて糸状になったものが転がっていても誰も目に留めず、さっさと足で踏んでいずれゴミ箱に行く。だが、それとほとんど同じものを作家の名前のもと、美術館に展示すると、そのオーラがまとわりついて、人はお金を払ってでも見ようとする。デュシャンの「泉」と同じことだ。便器や織物はどこにでもあるが、それに別の価値をつけて美術館に作品として展示しようとする人はごくごくごく稀だ。芸術はごくごくごく稀なことを平気でやるだけの覚悟がいる。アホらしいと思いながらも、それを見せずに芸術だと思い込む必要がある。であるから、女子大生がガールズ・バーで働くのはあまりにもありふれたことで芸術的ではない。だが、女子大生が芸術的であり得ることなど可能だろうか。その例がたとえば、女子大生ではないが手塚愛子ということなのだろう。
●『プリズム・ラグ 手塚愛子の糸、モネとシニャックの色』_d0053294_19145047.jpg 織物は縦糸と横糸で織られている。そのどちらかを外せばどうなるかは、誰でも日常的に経験している。たとえば履き潰した靴下やズボンなど、擦り切れたところがすだれのようになっている。その状態を人為的に、また絵となるように、つまり美的な感覚で行なったものが手塚の作品だ。取り出された糸は思った以上に派手な色合いで、何色ものが絡み合うことで織物の絵が出来上がっていることを再確認する。それはそれで思いがけない発見だが、それは手塚の創作ではなく、元の織物の特性だ。また、しっかりと織られたものを残すべき糸を切らずに縦糸なり横糸をまとまった区間や部分を取り除くのはかなり手間がかかるはずだが、これは著作権の切れた古い布を用いる必要があろう。そうでなければ手塚が自分で織ったものを部分的にまたほどくかだ。だが、手塚が最初から織物の作家であればそういう無駄なことはしない。チラシによると手塚は油彩を学んだ。また、染色や織物といった工芸が油彩よりも下位に見られることに異議を唱えているようだが、それはそれで筆者の思いとも同じでも、手塚が目指しているのは工芸ではなく、工芸を利用したデュシャン的な現代芸術であり、そこに筆者は何となくいやらしさを感じてしまう。織物に対する冒涜とまでは言わないが、デュシャンの「泉」が美しいか美しくないかで言えば美しくはないのと同様に、手塚の作品はどれも美しいとは思えない。かと言って、元のどこにでもある織物が美しいかとなれば、それも芸術とは呼べない。であるから、手塚がそれに非日常をまとわりつかせて芸術に格上げしたと言えそうだが、そこに工芸も芸術として劣らないですよといった意見を持ち出す必要はないのではないか。実はこの展覧会を見た後、先に書いたように、送迎バスを待たずに坂を下って駅に向かったが、美術館のすぐ近くにガラクタ屋があって、いつものようにまたそこを覗いた。奥の部屋に太い糸で織った壁掛けが売られていた。現代の織物作家の作品、あるいはそれ風の商品だ。それが面白かったのは、部分的に横糸を全く使用せず、手塚の作品と同じように糸が剥き出しになっている効果を狙っていることであった。つまり、手塚が考えるような手法は織物の世界には以前からある。だが、それは織り上げる過程において糸を使わないことで、織ったものから糸をほどく行為とは異なる。前者は最初から仕上がりの効果を考えて糸を使わない部分を残すが、後者は織られた物が考えも及ばなかったように、後で部分的に切り裂いて糸を剥き出しにする。前者は芸術とはなかなかならずにガラクタ屋の片隅で埃を被って誰も見向きもしないのに、後者は遠方からでも作品を見に来る。どちらも同じように芸術を目指しながら、こういう差が出るのは、やはりぎょっとさせる度合いの程度による。整然と積み上げたようなものには今は誰もほとんど興味を示さない。膝が破れたジーパンを履くことがあたりまえに格好いいと思われるファッションになったのと同じように、手塚のように、あえて破って糸を垂らしたものが格好いいように見える。これを女にたとえると、腹を切り裂いて内臓を見せることは出来ないが、ほとんどパンツが見えそうなスカートを履きたいと女子高校生が思うのと同じだ。今はかつてなかったほどの露出好みとなり、露出に美学を見ようとする時代で、若い女性は局所を見せることも昔ほど抵抗がなくなっている。だが、女性が局所の内部を晒してもその女性は自分の心は別だと思うだろうし、実際それは真実で、美は絶えず手の届きにくいところに移動し続ける。手塚の作品はぎょっとさせはするが、美ではない。だが、美の真実をどうにか追い求めようとしていることは伝わる。現代芸術の役割はだいたいそんなところにあって、美を美として表現する時代はもう終わった。
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 手塚の作品は、織物をほどくようなマイナスの作業ばかりかと言えばそうではなく、刺繍もし、ほどいた織物の糸をそのまま使って元の織物に刺繍を施す作品もある。これは言うなれば、解剖して取り出した内臓を別な状態でつなぐ作業で、そんな外科医がいれば困ったものだが、やはりそういう悪趣味を感じさせる遊びと言ってよい。デュシャンの作品にモナリザに髭を生やしたものがある。織物からほどいた糸でほどいた織物上に刺繍を施す手塚の作品はそれを思い出せる。チラシによると、今回の展覧会のキーワードは「虹色」だ。それで当館所蔵の点描画家のシニャックやモネの作品と一緒に展示したようだ。シニャックの作品は昨日書いた展覧会のチラシにも使用されていたが、点描派ではスーラの二番煎じ的な雰囲気が強く、モネほどに評価は高くない。それはいいとして、虹色というのは、古い織物に使われている糸が、意外にも鮮やかで、それがプリズムを通した虹色に見えるところから出た考えだろう。副題にある「プリズム・ラグ」は、筆者はRAG(絨毯)のことかと思ったが、これはLAGで、チラシ裏面には「普段ものを見ている角度にズレ(=ラグ)を生じさせることによって、通常の視線からこぼれ落ちてしまうものを可視化させ、見る者を新鮮な驚きと喜びに導きます」とあって、やはり「驚き」の言葉が使われている。ただし「喜び」は人さまざまで、今キーを間違って叩きながら「世転び」の変換が出たが、まさにそのように思う人もあるかもしれない。チラシの表側に印刷された作品は、花柄の織物の右端に青い糸がきれいに広げられて垂れている。同じ織物を使いながら、左端には赤糸を同じよう垂らしている。青は葉、赤は花に使われていたもので、そのほかの黄色などの糸を全部取り除いたわけだ。この織物の端の糸の色が美しいという考えは誰しも抱くことで、織物作家はそれを最もよく知っている。だが、その末端部分は商品となる時は通常は切り落とす。使用中にひっかかったりするからだが、西陣の帯の場合では裏地を当ててこの糸の垂れを隠す。もちろん織り方によって裏に糸がわたらない場合もあるから、手塚がほどく織物は、それなりに織りの組織を知らなければ、誤って切ってはならない糸も切ってしまうだろう。繊細な注意を要する点で、それは織物を織るのと同じほど手間がかかる場合もあるかもしれない。だが、織物を織る場合は、確実に絵を完成し、またしっかりした織物として仕上げるという、ポジティヴな思いがある。その点、手塚は仕事をどこでどうやめてもいいようなところがあり、また完成状態にある織物を部分的に切る破壊行為に対して、ネガティヴな思いを抱くことがないのだろうか。そう思いたくないために、虹色といった言葉を持ち出し、また一方で刺繍というプラス行為をすることで心のバランスを保っているのかもしれない。また、どんなことでもいいので、自分の手を使って行なうことには心の充足が得られるし、またそれは作品となるという自信があるのだろう。そして、美しいかどうかは考えないのではないか。むしろ美しくない方が芸術と思っている。女子大生は、男から美しいなどと言われなくても、けばい化粧をし、売春婦に見られても平気だ。むしろそう見えることを誇っている。それはどんな男も恐くなく、女としての本能を剥き出しにすることに快感があるからだろう。だが、それは男が女にそうさせてもいる。複雑な色合いの織物が、実は全く単純な数種の色糸で織られていることを手塚の作品は示しているが、その単純な色糸が、女にたとえればどんな思いになるのか、そして男はそんな女の本質とでも言うべき単純な色糸的思いを見たいと思っているだろうか。女を隅々まで解体した結果、そこに見えたのはどの女も同じいくつかの単純なことでしたというのでは、やはり味気ない。だが、そういう単純な色糸を一度は見るからこそ、それで織り上げられた織物が複雑な陰影を伴ない、それがその女の個性と思ってぞっこんになるのだろう。
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by uuuzen | 2011-07-03 19:16 | ●展覧会SOON評SO ON
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