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●『海と水のものがたり』
は同じでも見せる手を変えれば違ったものに見える。その手法を美術展覧会ではよく採用する。景気がよくない時期ではなおさらだ。これは音楽でも同じで、さまざまな切り口の編集盤やベスト・アルバムは有名ミュージシャンには例が多い。



●『海と水のものがたり』_d0053294_15504114.jpg似たことはこのブログでも言える。一応カテゴリーを設けて、似た内容はまとめているが、駅前の変化シリーズは、確かに毎回掲げる写真は駅前やその周辺の変化を追った写真を毎回掲載しはしても、添える文章は写真に全く関係のないことを書くことが多く、その内容はどのカテゴリーにも収まらないか、どこにも収まるようなものになっている。また、これはあえてだが、ある投稿がそのカテゴリーにのみふさわしいものではなく、他のカテゴリーの投稿と何らかの関連を持たせる場合がしばしばあって、ひとつひとつの投稿は独立しながら、全部つながっているところがある。そのため、投稿のタイトルだけ見て、『今日は興味がないな』と思ってほしくはないが、もちろん強制は出来ず、筆者が最大限出来ることは、最初のわずかな文章でその後の「More」ボタンを押して続きを読んでもらえるような何らかの工夫をするしかない。最初に書いたことに話を戻すと、筆者のブログのそうした心配りに似たことは、近年の展覧会ではかなり目立って来た。今まで全く、あるいはほとんど知られなかった作家、あるいはある時代の作品をまとめて展示する機会はかなり稀になった来たうえ、なるべく低予算で企画展を開催する必要上、手持ちの作品からいかに目新しいテーマをひねり出し、今まで何度も展示した作品をまた別の側面から目新しく見させようとするものがほとんどになって来た。それは学芸員の涙ぐましい努力の産物であると同時に、見方を変えれば、ある作品を他の作品と並べることで、相互の作品の今まで知られて来たのとは違う面を観客に気づかせるという、大きな創造力の発揮の場でもあって、かえって学芸員の才能が問われる時代になった。筆者のように何十年も展覧会を見続けて来た者からすれば、だいたいの作品はもう知っているから、展覧会に行く楽しみは、その新しい切り口のまとめ方ということになる。それは、作品は昔から同じでも、時代によって読み取る部分が多様化することであり、またそうするからこそ芸術作品は時代に応じて常に新しく見えるが、ここには時代が変われば学芸員や観客が変わり、さらには過去の名作に学んで新しい作品を生む作家がいつも登場する事情がある。そういう作家は展覧会で過去の作品に出会うという場合も多いから、作品の見せ方が昔と同じという、つまり国立博物館の常設展示のようなものも意味がある。それはそれとして、今を生きているのであれば、今に直結したテーマの絞り方や見せ方があるだろうし、そういう展覧会は若者に古い作品の意外な面白さを伝えるのに効果がある。
 今日取り上げるこの展覧会、鳥博士さんからもらったチケットで大阪長堀にある市立近代美術館の心斎橋展示室で最終日に見て来た。大阪市立近代美術館の正式な建物は予定を2、30年遅らせてようやく中之島に規模をかなり縮小して出来るようになったが、竣工がいつになるやらまだ10年ほどかかるのではないだろうか。もうそんなものを建てずに、今のこの心斎橋展示室でいいのではないだろうか。おそらく中之島に出来ると、今以上に人は訪れないように思う。大阪は美術には冷淡と言おうか、美的文化を理解する人種が極端に少ないように思う。前にも二、三度書いたが、大阪は美術館の数個くらいいつでも建てられるだけの余裕がありながら、いつも後回しにし、気がついた時には大きな赤字を抱えていた。そのことからしても、美術を最も後回しにする体質が見えている。だが、一方では美術館の建設を夢見ながら、せっせと作品は買い込んでいたから、その点はまだましか。建物だけ立派で、中に飾るものが貧弱という美術館は多いだろうし、それを思えば大阪はやはり大阪らしく実利を重んじるということかもしれない。似た話を書いておくと、筆者は中学生の時に叔父にせがんでビートルズの1965年までのLPを全部買うだけのお金をもらったが、それから2,3年ほどはそれを聴く装置がなかった。それでもLPを買い続け、友人の家をわたり歩いて聴かせてもらった。そして驚くべきことに、友人の家にはLPがほとんど1枚もなかった。つまり、ステレオがあるのは自慢なのだが、肝心の聴くべきレコードがない。だがそれこそ日本の平均的かつ文化的貧困の姿であって、どの家でもたいていそうであったし、今もそれと大差ない。これは全く話が逆で、LPを1000枚や2000枚持っている人がステレオを持つべきであって、そうでなければ安物のポータブル・プレイヤーで充分なのだ。同じように、本棚は豪華だが、そこに入っているものは買って一度も開いたことのない百科事典だけであったりする。格好ばかりで中身のないそういう人でも経済の回転に貢献している点で存在価値はあるが、外見で人を判断しがちなそうした人は、たとえば筆者がろくなステレオや本棚を所有しないが、その何十倍もの費用をレコードや本に費やしていることを知ると、どういう顔をするだろう。話が逸れたが、大阪市はその点、ろくな美術館をいまだに所有しないのに、作品だけはかなりいいものをたくさん持っている点で、筆者に似ていると思わないでもない。やはり筆者は大阪人なのだ。本当の格好よさとは外見ではなく、中身であるはずだ。それに外見が伴なうとなお格好いいが、大阪はその点で中途半端だ。話を戻して、大阪市が中之島に美術館を建てたいのは、大阪が水の都で、それを中之島が象徴しているからでもある。長堀はその名のとおり、昔は水が流れた川であったが、大阪はせっせと堀を埋め続け、また頭上に高速道路を張り巡らして、すっかり水面を市内から見えなくした。それが見えるのは中之島だけと言ってよい。本町橋は今でもそのまま残る貴重な遺産となっているが、それでもその橋から見える川面は無残に淀み、また高速道路の橋脚がずぶずぶと何本も川面を塞いでいる。水の都の名前はとっくの昔に返上したも同然だが、淀川や大川がある限りはまだその昔ながらの宣伝文句が通用すると思うのは、ま、無理でもない。だが、ヴェネツィアと比較するのはあまりに図々しい。ヴェネツィア並みの水路を望むのであれば、市内を頭上で循環する高速道路を全部地下に移し、なおかつ道路を江戸時代のように河川に戻すべきだ。だがそれをするには20兆円では済まないだろう。一方で大阪は土地が低く、巨大地震があれば津波によって市の西側はほとんど水没してしまうので、水の都を誇るにふさわしい何らかの対策を二重、三重に施しておくべきだが、さっぱりそれは進んでいないようだ。大阪を副首都にすることで都知事とは話が合ったニュースが昨夜伝わったが、大阪も地震には弱い。湾岸の開発はいいが、大阪で一番丈夫で安全な土地は上町台地のはずで、そこをもっと整備出来ないものか。
 さて、『海と水のものがたり』は巨大地震の前から企画されていたものだろう。いわき市の海辺がひどい状態となっている今、この展覧会は当初企画した時とは別の感慨をもたらしているように思うが、ちょうど夏に向かって美術展で涼んでもらおうという配慮と、大阪が水の都であることの再確認をしてもらおうということで、いい企画だ。また、大阪市が買い集めた作品は、その水の都にふさわしいことを一本の柱にしていたところもあるのだろう。それはそれでいいこだ。市が税金でどういう作品を系統立てて買うかは、重要な、そして長期にわたっての計画と意思決定であり、それがこの心斎橋展示室のこれまでの企画展で示されて来たと思っていいが、その意味で筆者はここで開催される展覧会はそれなりに毎回楽しみにしている。すでに大方の作品は知っていると思うが、テーマが変われば隣に並ぶ作品が変わるし、またテーマからはみ出た作品も時には飾られ、その意外性が面白い。そうした作品として、今回はアルチンボルドの酒樽やジョッキ、グラスなどでまとめられた油彩画「ウェイター」が特別出品されていて驚いた。こういう作品まで大阪市が買っているとは、視野が広くていい。アルチンボルドは子どもでも楽しめるし、その冗談半分の絵は大阪市民へのサービスとなって、誰も文句を言わないどころか、歓迎するだろう。ちなみにこの作品は「なにわの海の時空館」の所蔵となっている。この施設は今は閉鎖中の天保山のサントリー・ミュージアムから遠くに見えていたが、気になりながらも交通の便が悪く、訪れていない。そして確かもう閉鎖になったと思うが、せっかく大金を費やして建てても、大阪は湾岸に建てる施設はみな空振りに終わるジンクスがあって、何とももったいない話だ。湾にはたくさんの土地があって、そこにしかもうこうした施設を建てるための場所がないのはわかるが、そこに行くまでに小1時間も要し、しかも交通費もかかるとなれば、せっかちで始末家の大阪人が行くはずがない。その意味からも中之島に市立美術館を建てずに今の心斎橋展示室で充分と思う。このことは、当初さほど人気が出ず、10年ほど運営出来ればいいと考えていた京都文化博物館に例がある。同館は市立美術館や近代美術館のある岡崎に比べて行くのがとても便利で、予想に反して毎回の展覧会は大人気で、昨年から今も館はリニューアル中だ。このことからわかるように、人は街中の便利なところに集まる。百貨店での展覧会はそれを狙ったもので、中之島の外れや大阪湾の外れでは、大きな入場者数は期待出来ない。「なにわの海の時空館」は大阪の住民でもその存在をほとんど知らないのではないだろうか。水の都の大阪を紹介することが目的で建てられたのはいいが、財政的に苦しいとなれば背に腹は変えられず、閉鎖の憂き目を見ても仕方がない。だが、なぜ同館がアルチンボルドの「ウェイター」を購入したのか、これはどう考えてもあまりに不思議で、その何ともわけのわからないところがまた大阪らしい。
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 話が横道に入りっぱなしだ。海や水辺を描いた作品をまとめて見せるというこの企画展、全部で60点で、この数はちょうどいい。都路華香の「波千鳥」や福田平八郎の「漣」といった名作から、大阪という郷土に因む画家として佐伯祐三や吉原治良を初め、あまり知られない画家が並ぶのは他県の人が見ることも考慮していてのことだろう。また女性として生田花朝や木谷千種の作品も並んだのはよい。生田は実力のある画家でもっと知られてよい。杉本博司は大阪には関係ないが、海を撮影する有名な連作は本人が売り込んだのか、大阪市がほしいと言ったのかは知らないが、やや小さめのプリントで6点が並んでいた。外国の作品はシニャック、デュフィ、ドラン、マルケ、そしてあまり知られないルイ・フィリップ・クレパン、ジェームズ・バード、そしてアメリカリチャード・エステスで、これらの大半は「なにわの海の時空館」所蔵で、また同館の所蔵であることには納得が行く。この外国の作品のうち、いや、今回の60点のうち、筆者が最も長い間立ち止まって見つめたのはエステスの一点「スタッテン・アイランド・フェリーの桟橋」だ。これは1990年に開催されたエステス展で見たが、その後大阪市が購入したことは知らなかった。バブル期であったので、当時は作品を盛んに買うことが出来たのだろう。以前に何度か書いたが、エステスはスーパー・リアリズムの画家のひとりとして知られ、その中でも最大の才能と言ってよい。そして今後その価値はますます高まるだろう。写真を画布にスライドで映写し、その上を絵具でなぞると思われているようだが、写真を何枚か合成し、また実際の光景に思わせながら、建物の位置や角度など構図を考慮してかなり変更を加えている。にもかかわらず、誰にでも場所がわかるのは、実際は誰しもよく知ると思っている場所でもさほど正確に記憶していないからだ。エステスは日本各地の名所を見ながら、広島の原爆ドームや東京の新宿を描いた。そこからもこの画家の現代的な眼差しがわかるだろう。1932年生まれでもう80歳になろうとしているが、1990年頃が絶頂であったのだろう。18世紀ヴェネツィアのカナレットなど、先駆となる画家はいるが、エステスの描く対象がほとんど現在のありふれた建物であるところ、何でも画題になることを思わせ、そこがうらやましい。
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 たとえば何を写しても写真作品にはなるが、それに感動を覚えるとは限らない。写真はあまりにも絵画に比べて簡単な行為であるからだ。だが、写真と同じほどに緻密に描くと、そのことだけで人は驚く。この傾向は写真が登場してかえって強くなったが、一方ではそうしたリアルさは写真が代用するので、たとえばカンディンスキーの抽象絵画のように、絵画は写真では撮影不可能な分野に進むべきという意見がある。エステスはとにかく緻密に描き込むことが好きで、そのことに絶対的な信頼を置いている。写真をそのまま絵に描いても、それは写真とは違う何かになることを信じている。絵具の色合いや質感、また微妙に写真からはずれる人間の手技に、画家特有の味わいが出るのは確かであるし、そのことがエステスの絵画の特徴であり、また見る時の安心感となっている。その安心感はフェルエールの絵を見るのと似たものと言ってよい。実際写真のように緻密でありながら、写真が遠目のものが潰れて色の塊に見えるのと同じ、つまりフェルメールのタッチと同じように描いている部分が目立ち、その意味ではやはり人間味が濃厚なのだ。だが、それを安心感と断言するのは問題で、エステスが現代に生きているのであれば、現代の、そしてアメリカ特有の危うさも必然的に表現され、絵をじっと見ていると、心が落ち着く、あるいは絵の中に入り込んで旅の気分が味わえるといったこととは別の、何か狂気に似た思いが湧いて来る気もする。それほどにリアルであり、そのリアルさは画集では伝わらない。手元に1990年のエステス展の図録を広げながら思うことは、心斎橋展示室で見た絵はもっと生々しく、また色合いが豊かで美しかった。正確な直線を油絵で引くには骨の折れる作業であろうが、どの細部も同じ神経を張り詰めて描き、一作ずつ丹念に完成させて行くことを生甲斐とする画家の思いが伝わる。人間には目と手を使って丹念に何かを生み出す本能があり、またそれに従事することは労働ではあっても楽しみと感じることが出来る。ネット時代には逆行するような地道な作画の仕事だが、エステスは幸福なのだろう。その思いがこの絵を見ていると分けてもらえそうな気がする。画面中央の海の彼方には、この絵が描かれて14年後、2004年の9月11日のテロで破壊された世界貿易センター・ビルの2棟が見え、それはフェリーの窓ガラスにも映っている。その意味でこの絵は早くもカナレットの絵画と同じように歴史的なものとなった感があるし、今後も同じような超リアリズムの絵を描く才能は途切れないだろう。
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by uuuzen | 2011-07-02 15:55 | ●展覧会SOON評SO ON
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