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●『欲望という名の電車』
という字を見ると、欲情や貪欲など、どことなくえげつない剥き出しの本能を感じるが、連日の猛暑で筆者は毎日2,3リットルの氷水を飲むことを欲望し、今朝はついに下痢を起こした。昨晩は気温がかなり下がったからであろう。



今はまた3階でこれを書いているが、気温は33度で、どうにかまだ涼しい。昨夜はビールのジョッキで氷水を飲み干しながら、3階のベランダで育てているサボテンや観葉植物に水をやらねばならないことを思い出し、大きなやかんに水を汲んで、順番に水を飲ませてやった。日中の炎天下ではよくないはずで、気温が下がった夜がいい。週に1回そうして水をやる。水は急速に砂に染み込み、底から流れ出てベランダを広く濡らす。あたりは寝静まっているうえ、また新月の1日前でもあって、あたりは真っ暗だ。そこで一句思い浮かんだのが、「サボテンも 水ぐびぐびと 深き夜」だ。さきほど「つぶろぐ」に投稿したが、不思議なことに深夜はいつも決まってその投稿画面がうまく作動しない。だが、一晩寝ての投稿は、かえって推敲にはいい効果をもたらす。さて、蒸し暑い夏になると、よく思い出す映画がある。それは同じような蒸し暑い夜を描いているからだが、今日はほとんど1年ぶりに映画のカテゴリーに投稿する『欲望という名の電車』も、アメリカ南部のニューオリンズの下町を舞台にするため、それに属すと言ってよい。この映画は家内が見たいというので先週KBS京都で録画した。そう言えば、昨日迷いながら取り上げなかったボブ・ディランの「ハリケーン」が収録されるアルバムは、『欲望(Disire)』というタイトルだ。U2の曲にも同じ題名のものがあった。そういう関連からではないが、今日は記憶が新しい間にこの映画について書いておこう。家内に5回ほど頼まれながら、いつもの馬耳東風であるため、放送時間をすっかり忘れ、思い出した時には最初の15分が済んでいた。家内の般若のような表情を思い浮かべながらも、ともかく最後まで録画したが、それでもどうにか内容はわかった。この映画の原題は「A Streetcar Named Desire」で、邦題は直訳だ。だが、「Streetcar」を「電車」と訳すと、日本ではイメージがやや違って来る。「路面電車」が正しいが、それでは邦題は間延びする。「市電」と短く言ってもいいが、これも物語のイメージからはずれる。映画ではこの電車は一度も映らなかったが、音だけは何度か大きく聞こえた。それは蒸気機関車で、やはり「市電」と言ってしまうと無理がある。蒸気機関車の蒸気の音は、先に書いたように、この映画に漂う蒸し蒸しした暑さにはよく似合っている。ウィキペディアによると、ニューオリンズには「欲望」という名前の通りがあって、そこを路面電車が走っていたそうだ。現実に即したタイトルだが、映画の中で「欲望」という言葉が主人公によって象徴的に語られる場面がある。その意味からも実によく出来た題名で、一度耳にすれば忘れ得ないところがある。もとは戯曲で、家内はそのことをよく知っていて、日本では杉村春子の代表作となっていたことを話してくれた。映画化は何度かあって、カラー映像のものを昔見た記憶がある。最初の映画化は筆者が生まれた1951年で白黒だが、それがKBS京都創立60周年記念として先週放送された。こうした往年の名画は500円のDVDでよく売られていて、この映画もその例にもれないだろうが、わざわざ買う、あるいはレンタルする手間を思うと、ついいつまで経っても見ないことになり、TVで放送はありがたい。
 昨日「LIKE A ROLLING STONE」を取り上げたのは、この映画を前日に見ていたことも影響している。ボブ・ディランがこの曲の歌詞を書いた背景には、遠いところでこの映画も何らかの影響を与えている気がする。たとえば第2番の歌詞に出て来るミス・ロンリーがそうで、そのさびしい独身女を主人公にした映画がこの『欲望という名の電車』と思うことも出来る。主役を演ずるのは『風とともに去りぬ』のヴィヴィアン・リーで、アメリカ南部を舞台にしたその映画の後に、同じ南部を舞台にしながら、没落した大農園の娘役を演ずるのは、年齢から言ってもふさわしく、この映画を見る者はいやでも『風とともに去りぬ』での彼女を姿を思い浮かべながら、その美貌が確実に加齢とともに崩れかかっている様子を実感する。つまり、この映画はヴィヴィアンを起用することで、よりリアリティを高める効果を狙っている。もちろんこの映画で初めてヴィヴィアンを見知る人もたくさんいるだろうが、後になってもいいので、『風とともに去りぬ』を見ると、『欲望という名の電車』で彼女が抜擢された理由がわかるし、またそこに現実と映画がごっちゃになった不思議な感覚も抱くだろう。これもウィキペディアに詳しいが、ヴィヴィアンは野心家で、また夢を実現させて行ったが、私生活はかなり乱れていて、この映画の主人公に近い面もあった。そのこともまた主役になった理由かもしれず、俳優というものは、それほどに私生活を作品に反映し、また作品で演じた役が私生活に影響を及ぼすのであろう。そうでない限り、名演技は出来ないのではないか。その意味で、この映画でのヴィヴィアンは完璧な演技を見せ、彼女の代表作として『風とともに去りぬ』とともに永遠に記憶されることを誰しも思うだろう。ヴィヴィアンがこの映画に出演したのは38歳だ。これは映画での設定とうまく合致している。そして、38歳の女性が女としてどういう美貌の衰えの段階にあるかを、この映画は残酷に示している。ヴィヴィアンはブランチという名前で登場し、妹がひとりいる。この姉妹は対照的な人生を歩み、そこに脚本家のテネシー・ウィアムズは新旧の時代対比の意味を込めた。妹は早くから家を出て、粗野な男と暮らしている。ブランチは実家の農園に留まりながら、高校の国語の教師をしていたが、家を切り盛りする才能が欠如し、知らない間に家と墓を含む20エーカー、つまり2500坪しか手元にない状態に陥る。また、16歳の時に初恋をするが、半ばからかいのつもりで発した言葉によってボーイ・フレンドは銃で自殺してしまい、そのことで精神に大きな傷を負う。そして、高校の先生をしながら17歳の少年を誘惑するなどの結果、放校処分になり、食う困って町に出て売春婦になるが、安ホテルの主も困るほどの男の出入りが激しく、町では大統領以上に有名になってしまう。そして町にはいられなくなり、妹を頼ってニューオリンズにやって来てアパートに転がり込む。筆者が見始めたのはその場面からだ。またブランチの以上の行状は映画の後半に暴かれる。
 大きな農園を経営していても、子孫は女ふたり、そしてひとりは家出となれば、残された長女はいくら勉強が出来ても、世情に疎く、資産を食い潰す、あるいは人に騙されることは何の不思議でもない。よい伴侶に恵まれれば別だが、教養が高ければ、望む相手も同じような家柄を期待するであろうし、そうなればすぐに30を越えてしまい、婚期を逃しもする。今なら話はまた違うだろうが、これは戦後直後の話だ。それにブランチが語るように16歳で生涯忘れ得ない恋愛をしたのであるから、やはり今は10歳ほど加算してちょうどいい加減で、ブランチの38歳は48歳くらいを思えばいい。そして、常識的に考えて48の独身女と結婚したいと思う若い男がいるかどうかだ。少なくても戦後すぐのアメリカ南部では、30代半ば過ぎの女はもう結婚は不可能とみなされるほどに充分老いていた。資産があればまた話は別だが、それは皆無であるし、また育ちのよさと教養にいくら恵まれていても、生活と孤独を紛らわすために売春をしていたことが明るみになれば、どんな独身男も逃げ出す。そして当のブランチ自身がそれをよく知るあまり、なおのこと妄想に浸り、徐々に精神に異常を来たす。そこには男とは違う女性特有の、誰かから、何か強い存在から、保護してもらいたいという思いがあるのかもしれない。これは家内から聞いた話だが、大阪に住んでいた子ども時代、同級生の女の子がブランチと同じような虚言癖で、自分の家は大金持ちで、こんな素晴らしいものがあるとよく言っていたらしい。ところが絶対に家には誰も呼ばない。そのうち明らかになったことは、一部屋だけのみすぼらしいアパートに住んでいたことだ。その女の子はあまりの貧困にいつも大げさな夢を描き、それを他人に現実であるかのように言いふらすことで悲しみを否定していたのだろう。その話を聞きながら、筆者はその女の子が今どういう大人になって、どういう人生を歩んで来たことかと思う。案外発奮して金持ちになっているかもしれないが、ブランチのようにぼろぼろの売春婦になって精神異常になっているかもしれない。これは数か月前に書いたが、資産家の50代の女性ふたりが電気代も払えず、餓死したというニュースがあった。父は確か銀行の頭取で、数十億の資産を残したが、姉妹ふたりは離婚もして一緒に暮らし、やがて食べるものもなくなって死んだ。これこそボブ・ディランの「ライク・ア・ローリング・ストーン」の2番目の歌詞を思い出させるが、いくら世間知に疎くても、数十億が全部消えるまで何も出来なかったのかと思う。表向きは投資で失敗したとされるが、あまりにも純粋で、人を疑うことを知らず、弁護士や不動産業者、銀行員などに寄ってたかってむしり取られたに違いない。これはあまり詳しく書いてはまずいが、筆者の家内の身内に同じような莫大な資産がありながら、数年のうちに全部なくなった人物がいた。根っからの真面目な商売人であったが、やはりうまみを嗅ぎつけて寄って来るいかがわいい人物が多かったようだ。しっかりした男ですらそうであるから、箱入り娘であれば騙すのは簡単といったレベルの話ではなく、どうぞみんな持って行ってくださいといった感じで周囲には思われていたのだろう。そのことをこの映画のブランチにも思う。
 国語の教師という設定はなかなかうまく、映画では近寄って来たとある真面目な男性の銀のシガレット・ケースに刻印されている詩をたちどころにブラウニングのものだと言う場面がある。それは持ち主さえも知らないことで、世間ではそういう文学の才能など、何の役にも立たないどころか、下町ではかえって浮いた存在で、いぶかしがられるものでしかないことをこの映画は示している。だが、この戯曲ないし映画が名作と評されるのは、そういう文学性をさりげなく織り込むところだ。杉本春子の文学座はおそらく文学の素養がないような人は見ないだろう。この映画もある意味では同じだ。だが、文学を主張し過ぎると、観客動員の観点からはマイナスに作用する。映画はとにかく稼ぐことがまず絶対条件で、それには文学に何の興味もない人にも面白いと思わせる必要がある。そしてその部分をこの映画はマーロン・ブランドが演じるブランチの妹の旦那で粗野なスタンリーに負わせることで、見事に実現しているが、粗野だけでは今度は文学通はそっぽを向く。つまり、ブランチとスタンリーという全く生まれも育ちも正反対な人物を登場させることで、どのような境遇の人物が見ても面白いように仕組んでいる。だが、脚本家はブランチを亡び行く過去の象徴として描きながら、やはり生まれよさを信じているところがあって、ブランチにこういうようなセリフを言わせる箇所がある。つまり、妹はスタンリーに肉体的に魅せられ、また妊娠しているが、そのことを知ったブランチは、自分たちの血筋にはああいう男の血が混じることもかえってよいと言う。ここは冷静でごくまともなブランチを思わせて印象深い。良家は血が濃くなって、数百年の間にすっかり没落に向かうことが、歴史的に見ても真実と言ってよく、であるから天皇も民間から結婚相手を選びもする。そういうことをブランチはよく知っており、子種としては、粗野で無教養であっても逞しい肉体の男がいいと考えるのは生物学的にもごくまともだ。そして、脚本家の主眼もそこにあったようで、妹はブランチがアパートに滞在した5か月後に出産するが、それと同時にブランチは発狂して施設送りになり、それを見届けた妹は赤ん坊を抱いて2階の親しいおばさんのもとに身を寄せ、スタンリーとは別の人生を歩もうと決心するところで物語が終わる。相変わらず、スタンリーに暴力を振るわれながらも肉体的に離れられないといった描き方も出来たはずで、また現実にはそういう事例の方が圧倒的に多いと思うが、この映画では暴力的な男は妻から見放されるという描き方をしており、ブランチの良家としての血筋は妹によって更新され、次の代に引き継がれる。その点はやはりこの脚本が文学を理解する者のために書かれたことを強く思わせる。悪く言えば文学臭だが、そうでもしないと、哀れなブランチは浮かばれない。映画で妹が語るように、姉をそのように追い込んだのは夫のような男が多いからで、ブランチは人に嘘をついたことがなく、16歳のままの純真さを持ち合わせていた。それがいいか悪いかは別にして、そういう存在が世の中から弾かれ、人の食い物にされる時代は世の激動期にはたくさんあるということだろう。そして同じことは今この瞬間にも生じている。ブランチは自分が教養があって、生まれ育ちがよいことを自覚していたのはいいが、そのことがそうでない妹の旦那のようなポーランド系のアメリカ人にとっては癪に障ることをもっと知るべきであった。ブランチが食い物にされたとすれば、そういう育ちのよさが高慢に見えたからでもあろう。これは現在もいくらでも同じような話がある。ブランチが蔑んだ庶民の中でさえ、あっちは家柄がよくない、親の職業が悪いなどと言っては優越感に浸る人は無数にいる。
 ブランチのセリフの中に、死の反対が「欲望」だというがあった。死の反対は「生」だが、そう言わずに「欲望」と言うのは、生すなわち欲望ということで、欲望がなくなれば死と同じという考えもまた当時のアメリカらしい。ブランチはさまざまな衣裳や飾り物を所有しているが、この映画ではそういった物が案外大きな役割をしている。そしてそういう物質をたくさん持つことが裕福でもあるとされる時代を描いているが、もちろん安物と高価の区別はあり、そういう現実もさりげなく描いて、ブランチの哀れな姿を増幅する効果を担っている。かつては高価なものばかりに囲まれて生活していたブランチだが、今ではイミテーションばかりで、その安っぽさはスタンリーにさえ嘲笑される始末だ。高校の教師を真面目に勤めていれば身を落とすこともなかったであろうに、初恋の男性を死なせた思いと、そして初恋の男性に近い17歳の学生に手を出してしまったことで、落ちるところまで落ちてしまったブランチは、それでも自分と結婚してくれる男を求める。ブランチのつかの間の恋人が登場する場面は切ない。スタンリーの同僚で、しかも技術畑にいて出世頭だが、老いた母に自分が結婚した姿を見せることを願っている時に、ブランチが現われた。ブランチは自分の過去がばれないと思っていたが、スタンリーが嗅ぎつけてそれをばらしてしまう。またブランチはいつもその恋人とは暗い場所で会って実年齢を悟られないようにしているが、スタンリーからブランチの秘密を聞かされた恋人はブランチに詰めよって明るみでその顔を見て、愕然とする。ヴィヴィアン・リーの美貌でも30代半ばを越えると顔の皺が深くなり、もはや若さは見る影もないという描き方で、これはヴィヴィアンがよくぞ出演したと思うが、人気の戯曲でもあって、映画は大ヒット間違いなしと目されたのであろう。実際そのとおりとなった。ブランチの美貌に比べて妹役はごく普通のしっかり者の女性に見えるが、それはブランチの生き方が妹から見て前時代的に映るには欠かせない設定でもあった。その女の生き方のふたとおりの対照は、現在や将来にもそのまま通ずるものと思える。男に寄りかからねば生きて行けない女と、子どもが出来れば逞しくなって、夫は不要と考える女だ。この不要には死別もあれば協議離婚もあるし、暴力から逃れて身を隠すなどいくつも理由がある。男と女がいる限り、この物語は人にさまざま思いを抱かせ続ける。監督のエリア・カザンはこの映画の後、当局の赤狩りの活発な動きに脅されて、同じハリウッドの映画仲間の共産主義者の情報を知らせ、業界から追放させたことは有名な話だが、マーロン・ブランドはそのことを快く思わず、やがてカザンとは袂を分かつ。そして、今ではどちらが有名になって記憶されているかと言えば、マーロン・ブランドではないだろうか。70年代以降の華々しい復活以前のマーロンの作品では、筆者は『波止場』が最もよいと思う。これは『欲望という名の電車』から3年後のカザンの作品だ。
by uuuzen | 2011-07-01 14:59 | ●その他の映画など
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