ヒトラーが現代美術を頽廃とみなしたことで、カンディンスキーの抽象絵画はその例に洩れないものとなった。だが、カンディンスキーはどういうわけかアメリカに亡命せず、ナチスに占領されたフランスで1944年、78歳で亡くなる。
もう少し生きれば再評価もされ、新しい時代を見ることが出来たのに、さぞかし無念であったろう。26日の日曜日は兵庫県立近代美術館に行って、この最終日となったこの展覧会を見て来た。鳥博士さんからもらった招待券がいろいろあって、まだ半分ほどしか見ていないが、少しずつ感想を書いて行きたい。この展覧会はさほど期待していなかった。大きなカンディンスキー展は87年に京都国立近代美術館で開催され、当時その図録は買わなかったが、古書で何度も見るたびに買おうかと思いながら、そのままになっている。そのことからわかるように筆者はさほどファンではない。だが、今回はカンディンスキーだけではなく、グループの青騎士の作品も取り上げる内容で、その点では過去に開催されたいくつかのドイツ表現派やそれに関する展覧会に並んでようやくこのグループに光が当たる。今初めてチラシをしげしげと見ると、レンバッハハウス美術館所蔵と小さく記されている。この美術館は改装中で、来年に新装オープンするが、それまでの間、作品が海外に貸し出された。巨大地震の前に作品が日本に来ていたからよかったものの、そうでなければレンバッハハウス側は多少難色を示したかもしれない。この美術館はミュンヘン市にあるが、レンバッハは19世紀のドイツの肖像画家だ。たくさんの貴族の肖像画を描いて財をなし、大きな邸宅をかまえた。図録を買っていないので間違っているかもしれないが、レンバッハはさほどいい出ではない。絵の腕前によって上流社会に進出し、やがて侯爵になった。レンバッハと並んで当時ミュンヘンで有名であったのがフランツ・フォン・シュトゥックで、このふたりの作品は『序章』と題して、青騎士を生む土壌として紹介された。シュトゥックは象徴派であるのでレンバッハとは大いに作風は異なるが、このふたりの作品に青騎士を対比させると、ふたりともえらく古い時代の画家に見える。それほどの青騎士の作品は時代を先取りしていた。だが、そういう絵画の歴史を知らずに作品を見て、シュトゥックに新しさを認める人もあろう。シュトゥックは彫刻も1点展示されたが、アカデミックな雰囲気はあるものの、アマゾンという女性戦士を表現してやはり世紀末の趣味が濃厚だ。また技術的に素晴らしく卓越したものがある。これはレンバッハも同じで、画家や彫刻家になるのは、まず写実的な技法を身につけなければならなかった。カメラが登場して肖像画家の存在は危うくなったが、レンバッハはその点でまだ幸福な時代に生きた。貴族の顔や姿をせっせと描いて大邸宅に住めるというのは、よほど肖像画が高価であったかがわかる。それを見て画家を志すものはみな同じ道を目指しても不思議ではない。シュトゥックも出自はさほどよくなかったが、絵筆1本で身を立て、貴族になった。だが、貴族が没落に向かい、パトロンが小粒化すると、画家もそれに伴なって写実的な肖像画を描くのではなく、自分が描きたいものを描くという方向を目指すだろう。
レンバッハの邸宅を利用した美術館になぜ青騎士の作品がたくさん所蔵されることになったかだが、それが今回の展覧会で詳しく伝えられた。まずそこにはカンディンスキーと出会った女性ガブリエーレ・ミュンターの存在がある。ミュンターはカンディンスキーより11歳年少で、25歳の時にカンディンスキーに出会い、絵の教えを受ける。カンディンスキーはモスクワ生まれだが、19世紀の末頃、30歳ほどでミュンヘンに行き、シュトゥックに絵を学んだ。ミュンヘンの美術家協会に所属し、やがてその会長にまでなるが、ミュンターがそういうカンディンスキーに魅せられたのは当然かもしれない。それまでの間、ミュンターは一時期アメリカ南部に住んだこともあって、写真たくさん撮るなど、造形作家としての素質があった。だが、まだ女性差別が強い時代で、男に混じって本格的に絵を学ぶことは許されない。それでカンディンスキーに学ぶのは夏季講習会といった場で、そこで少しずつカンディンスキーとの間が親密になった。だが、カンディンスキーには一緒に10年も暮らす妻がいたし、離婚は宗教上認められず、カンディンスキーはミュンターと一緒にヨーロッパ各地を旅して絵画製作に勤しむ。これが最初の出会いの1902年から8年ほど続く。そして1909年にカンディンスキーは属していたアカデミックな美術協会から脱退し、仲間を集めて新しい協会を発足させる。それがやがて青騎士となる。それと同時に、カンディンスキーとミュンターは旅の途中で気に入ったアルプスの麓のムルナウという風光明媚な町に居を定めることにし、ミュンターは家を購入、そこにヤウレンスキーなど、ロシアの画家が集まって製作をともにするようにもなる。何年間も旅をしたり、また家を買うなどの様子を見ると、カンディンスキーとミュンターの間の経済はどうなっていたのかと思うが、ミュンターは割合裕福な商人の出で、カンディンスキーを経済的に支えたのであろう。もうひとつ疑問に思うのは、カンディンスキーの最初の妻だ。ミュンターに伴侶の座を奪われた形だが、カンディンスキーの評価にとってそれは何の影響も与えていないどころか、ミュンターと出会ったことが、人類の歴史にとって幸運であったさえ言われる。カンディンスキーがミュンターと出会ったのは36歳であるから、最初の妻と25で結婚したことになるが、一緒にミュンヘンにまで来たのであるから、まだ夫婦生活はどうにか保たれていたのだろう。それなのに、カンディンスキーは11歳も若い女性にのぼせて駆け落ちしてしまった。残された妻がその後どうしたのかわからない。姉さん女房であったようだが、結婚生活はうまく行っていなかったのだろう。
カンディンスキーは画風を次々へと変えた。その意味では何度も新しい人生を歩んだ。そしてそういう男にありがちなように、カンディンスキーはミュンターとは生涯暮らすことはなく、第1次世界大戦の勃発を機にドイツにいられなくなってロシアに戻り、そして2年後にはミュンターの尽力でスウェーデンに行って再開、そこで数か月ともに暮らすが、その後カンディンスキーはロシアに戻ったままミュンターの待つ北欧には戻って来なかった。何とミュンターとのつかの間の面会の翌年にはロシアで若い女性ニーナと結婚している。つまり、カンディンスキーの生涯には3人の妻がいた。ニーナと結婚したことを知ったミュンターは失意に沈み、鬱病になり、絵もあまり描かなくなってしまう。何とも哀れなことだ。こうしたことについては今回はさほど詳しくパネル説明がなかったが、ネットのウィキペディアには詳しい。ムルナウでミュンターがカンディンスキーとともに暮らしていた時、旗上げした青騎士に所属する他の画家たちの絵もミュンターは一括で手元に置いていた。そのうち、カンディンスキーの作品は油彩が80あまり、水彩画は数百点に及ぶほどで、初期作として欠かせないものだ。ロシアでカンディンスキーは芸術家として要職に就き、国家のために働くが、一方でミュンターに自作の変換を迫り、裁判沙汰になりながら、結局ミュンターの手元に残った。ミュンターは、ナチスにそれが見つかると没収破棄は免れないから、ムルナウの自宅の地下に隠し続け、80歳になった時に他の青騎士のメンバーの作品とともにレンバッハ美術館に寄贈した。それはカンディンスキーが亡くなって10数年後のことだ。ミュンターは、カンディンスキーがスターリンが政権を握ったことによってロシアを出てフランスにいることは知っていたであろうが、戦時中でもあり、ふたりは会うことは出来なかった。またそれより前、20年代半ばにミュンターはアイヒナーという哲学者と親密になり、後半生をともにムルナウで暮らすことになり、また前向きに生きるすべを見出させた。ミュンターは戦後すぐにドイツで青騎士展を開催するなど、青騎士が歴史に名を留めたのはミュンターの功績が大きい。青騎士は代1次世界大戦で亡くなったマルクやマッケ、また現代音楽のシェーンベルクも絵を描いて参加するなど、特徴づけられる要素が多く、後の世に及ぼした影響は他のドイツ表現主義以上のものがあるだろう。ウィキペディアによると、ミュンターはムルナウで慎ましく暮らしながら、かなりの貧困に耐え、カンディンスキーの絵を守り通したとある。それは、ミュンターの青春時代とその後の全人生が収斂する存在であり、またかつての自分の夫であるといった個人的な理由からではなく、カンディンスキーという大画家の才能を見通した冷静な眼差しにも支えられていたはずで、カンディンスキーにしてもよい伴侶に出会ったと言うべきだ。作品の帰属を巡ってやり取りをしたことは、カンディンスキーにすれば有名になったので、初期作を手元に置き、それを売って生活の糧にするつもりもあったのだろう。だが、新しい妻をめとってまた新しい画風につき進み、カンディンスキーの眼中には遠いムルナウ時代はもはやなかったのではないか。カンディンスキーはなぜミュンターの待つ北欧に行き、そこからふたりで新たな生活をしなかったのだろう。それはムルナウ時代で見出した即興的な絵画をさらに押し進めるには、ムルナウに留まる必要がなかったことと、そのムルナウに結びついているミュンターももはや不要であったからかもしれない。ピカソもそうだが、新しい女との出会いが新しい画風を生むことに必要な画家がいる。捨てられた形になったミュンターだが、カンディンスキーの原点はムルナウ、そして自分にあると主張し、それを歴史的にも証明する思いもあって、何が何でも作品を守り抜き、後世に伝えようと思ったのではないか。
青騎士の画家の作品はある思想のもとで同じ方向を向いていたというものではなく、個々の画家で作風はまちまちだ。そしてやはりカンディンスキーが最もエネルギッシュで先鋭さが目立つ。それはレンバッハから続く写実とはすっかり縁を切っているからだ。ミュンターとカンディンスキーは一時期かなり似たタッチで描き、どちらが描いたのかわからないものもあるほどだが、カンディンスキーはひとつの画風を見つけていつまでもそこに留まることをしなかった。具象はやがて完全に抽象になり、その大きな変換的に立ち会ったミュンターは、絵筆のタッチは摸倣出来ても、絵の内容は自分からは遠いと思ったのではないか。そういうカンディンスキーの絵をミュンターはすごいものであると見抜く力は持っていて、ミュンターが青騎士への参加を呼びかけることもあった。カンディンスキーが描いたミュンターの写実的な肖像画が伝わっていて、それを見るとカンディンスキーがシュトゥックから学んだことがわかる。だが、そういう写真のような絵にカンディンスキーは関心がなく、写真では撮れないもの、絵画は写真以上のものであることを実証したかっかところがある。何か現実に存在するものを画面上に再現するのではなく、音楽のように意味から解き放たれたものを目指したが、そこにシェーンベルクの音楽との出会いがあったことはもっと吟味されてよい。だが、カンディンスキーの絵を見るのは一瞬だが、シェーンベルクの音楽は耳に馴染みにくく、それを聴いてカンディンスキーの絵画とどう関連するのかわからない人の方がはるかに多いだろう。また、今回は展示されなかったが、シェーンベルクの絵画をたくさん紹介する機会があってよい。またミュンター個人に光を当てた展覧会はいずれ開催されると思うが、カンディンスキーとの一種逃避行した間にふたりが描いた絵画は、前述のように、タッチがそっくりで、これはカンディンスキーがミュンターに感化を及ぼしたとしても、その反面ミュンターがカンディンスキーにとっての霊感の源になった部分もあるのではないか。カンディンスキーはそれを否定したいようだが、ムルナウはガラス工芸で有名な土地で、ミュンターがそうしたいわば民芸に興味を示し、画題的にもまた筆致としても活用したことを、カンディンスキーは横で見つめながら、一方でロシアの民族性を思い出だすことにもなって、それらが初期作には濃厚に出ている。それがやがて何を描いたわからない完全な抽象に至り、それがカンディンスキーの代名詞となるが、その一歩手前までの画業が今回は堪能出来た。ロシアでカンディンスキーは法律と政治経済を学び、絵を始めたのはミュンヘンに行ってからだが、そういう才能が世界的な名声を獲得する、あるいはロシア人がドイツやフランスで生活して描くということからは、ロシアや北欧を含め、ヨーロッパの豊かさとひとつの一体化した文化圏を思う。同じことは日本や韓国、中国ではまず起こり得ないだろう。ヨーロッパにも人種偏見はもちろんあろうが、ドイツ人女性がロシアのカンディンスキーと暮らし、そういう生活の中で描いた絵画が人類の財産と呼ばれるほどには、日本や中国は心がまだ豊かではないだろう。それをよく知っていたから藤田嗣治は戦後パリに行って永住したのだろう。最後に書いておくと、筆者が最初にカンディンスキーの絵を知ったのは中学1年の時の美術の教科書で、そこに小さなカラー図版が1点載っていた。それを最後に掲げておく。