在宅時間が長ければパソコンに向かう時間も長くなって、ついこのブログへの投稿も長文になりがちだ。その内容はTV番組や、ネットで見かけた記事などをネタにすることが出来るので、一歩も外に出なくても書くべき内容には困らない。
そうそう、その書くべき内容は、展覧会や韓国ドラマについての感想がいくつか気になっているが、この「梅雨時の白花三題」の切りがよくなるまでお預け状態で、書こうと思えばそれこそ無限にある。だが、さきほど梅棹全集の1冊を拾い読みしていて、「自分史」についてのエッセイを読んだところ、筆者のこのブログもそれに近いように思えて、冷や水を浴びせられたような気分になった。梅棹は、ワープロが登場して誰でも自分についての歴史を簡単に本のような形でプリント出来る時代になったのはいいが、そういうものを子や孫が読むだろうかと懐疑的だ。最後を引用する。「自分史を印刷し、製本し、本の形にして世にだすことは、ある種の情報公害的側面をともなう可能性があることをわすれてはいけません。他人に関する生情報をきかされたり、よまされたりすることは、しばしば苦痛をともなうものです。」 思わず笑ってしまうが、こういう意見があっても、書く人は書く。また、ここには梅棹の学者としての、つまり意義のある文章を書いているという自負が見えている。「情報公害的側面」に梅棹はどのような意味を込めたのはわからないが、簡単に言えば、読んで楽しくないものが氾濫することだろう。あるいは美しくない、どうでもいいような情報だ。ところが、この梅棹の意見には、書き手の専門と非専門を分け隔てる思いが見え、梅棹が一方で主張している、女であっても情報を集めて知的な生活を送ることが出来るといったこととは相反する。「情報公害的側面」は、梅棹が予想した以上にネット社会になってモンスター化したと言ってよい。ブログやツイッターがそれで、毎日大量の文章と写真がネット上に蓄積される。その情報の混沌とした海から望みのものを得るのは、これも梅棹が昔から盛んに言っていた、整理の方法、つまりネット検索によって可能になっているが、情報があまりに巨大化し、その検索でも理想の情報に行き当たることは稀になっているところがある。また、学者や売文家は、ブログで無料で文章を載せることは死活問題であるから、たいてい梅棹と同じ「情報公害的側面」といった論理を持ち出し、ブログをひとまとめにして謗る。特に新聞にその傾向が強い。これは以前のブログに書いたが、3,4年前の新聞に、ある大衆小説家が、ブログを批判した。その女性がどの程度ブログに目を通したか知らないが、その意見に筆者は納得しかねた。結局のところ、自分は有名人であり、当の新聞社お抱えの論説委員のような提灯持ちをしていることを自慢し、無名の、また文章がへたな素人が書くブログを侮っているのだ。筆者はその小説家が大嫌いで、小説を読んだことはないが、最初から読む気にさせない顔をしているのであるから仕方がない。また、ヤン・ソギルとの対談でその女性の小説のプロットを知ったが、それはやはり読むまでもない偏見に満ちたもので、ヤン・ソギルもその点には疑問を抱いていた。だが、売文家にしろ、それで飯を食っている者はそれだけ存在価値のある文章を書くのは確かで、無名の者が書くブログを軽く思うのは仕方のないところがある。悔しかったら有名になって、印税をもらってみなさいというわけだ。

そこで筆者は自分のブログを振り返ってみないでもない。どうせ無料であるから、気楽に自分の生情報を毎日こうして垂れ流すという軽い気分で書いているというのではないが、他人からそう思われると弁解のしようがないという思いはしている。また、こうしたブログは、たまたま検索で見つけて斜め読みし、文章や内容に何かピンと来るものがあれば、「お気に入り」に加えておいて、たまに訪れて読むという程度で、それもいつの間にかやめてしまう場合が多いだろう。筆者がそうであるからだ。じっくりと読ませ、スリルのある内容を常に投稿し続けるというブログにはまずお目にかかったことがないし、また今後も無理だろう。そういう書き手は自ずと人の目に留まって、有名になって本を書く。ブログはお金を支払っていない分、読み手に緊張感がないのは当然で、しかも本とは違ってどうせ内容はうすいと決め込んでいるところがある。実際筆者がたまにいろんなブログを見ても、1時間もあれば全部の内容が読めてしまうし、また全部を読む前に飽きてしまう。つまり、全部を読ませる熱いものがない。これは梅棹の言う「情報公害的側面」がブログの大きな特徴となっていることを証明しそうだが、その言葉はさておいて筆者が毎日こうして書いているのは、何度も書くように、思ったことを瞬時に文字にしながら、どうにか全体をまとまったものにするという一種の訓練と思っている側面と、それとは別に、味のあるエッセイとでも言おうか、もっと言えば、無料ではあるが、お金を払ってでも読みたいと思わせる内容にしたいという、大それた思いがある。もっと言い換えれば、こうして書いているのとあまり変わらない調子で、たとえば雑誌などに連載する機会があればいいなという思いだ。だが、それは無理であることがわかっているし、またそうならなくても、書くことが楽しいので、その楽しみくらいはこのブログの読者に伝えたいという思いが一番大きい。だが、そのことがどこまでそうなり得ているかどうかは、意見の書き込みが皆無なので、筆者にはわからない。それでも昨日の訪問者は109という今までで最高を記録し、ここ1か月ほどは訪問者がかなり増えている。これを素直に喜んでいいとは筆者は思っていない。斜め読みしてすぐに別の画面を見る人もその中には含まれるはずで、無料という気軽さは、読み手の心理にどうしても影響を強く及ぼすからだ。だが、それは筆者のような旧世代の考えで、これからの世代は、本であろうが、ブログであろうが、楽しいものは楽しいと素直を反応するかもしれない。そうなった時に最も困るのは売文家だろう。それはいいとして、以前ヤフー・ブログに人気ブログからいくつか紹介しているページがあった。1日数千や数万の訪問者のあるブログだが、そのどれも筆者にはさっぱり面白くなかった。ヤフー・ブログはお仕着せの画面デザインを使わねばならず、それがいやで筆者は利用していないが、その画面のいかにも田舎じみたセンスの最悪さもあって、せっかくの人気ブログがさっぱり面白くなかった部分もあるが、それを差し引いても筆者が興味を抱けなかったのは、いかにも典型的な軽い内容のブログで、所詮こういう軽いブログが大人気を得るという現実を知って、改めてブログがどうでもいい情報の掃き溜めのような気がした。だが、そういたブログが歓迎されていることは、専門家が書く本とは違って、その軽い感覚こそがよいと若い世代が思っているからで、その現実を知っておくことは無駄ではない。また、そういう芸当は筆者には出来ないから、結局ブログは書き手と読み手の対応があって、住み分けている。これは本や雑誌でも同じだ。そして世の中の一番の購読層は若者であるから、若者向きのいかにも軽い、それでいて洒落たようなものが、人気ブログとなる。筆者のブログはその意味では反時代的で、文字を読むことが好きな老人向きだ。それでは圧倒的な人気を得る可能性はゼロに等しい。ま、別段圧倒的人気がほしくもない。

さて、自分の生情報を誰も歓迎していないことを念頭に、なおかつ他人が読んでこれは面白いと思わせるのに必要なものは何か。これは内容にもよるが、文体が大きいだろう。何かよくわからないが読んでいて味のある文章というものがある。小説家にはさすがそういう文章は多いが、そういう文体を獲得するのに、数万枚以上の原稿を書き続けて来た修練が背景にある。筆者はそれを思う。こうして毎日原稿10数枚分書いていると、数年で数万枚に到達するが、それは分量としてはあまり誰も真似の出来ないもので、その部分においては誇っていい気がしている。何でも練習であって、絶えざる練習を重ねて獲得したものに対抗するには、同じ時間かそれ以上の練習が前提になる。あるいは、そう信じている者だけが獲得出来る何かがあるはずで、ぐずぐず考えるだけで一向に何もしない連中ことなど気にせず、どんどん書き続けるのがよい。そのような猛烈な修練の積み重ねの中から自ずとその人らしい何かが立ち上って来るはずで、それは誰も真似の出来ないものと筆者は信じたい。そうしたものがそれでもなお「情報公害的側面」があることを否定はしないが、人生が時間で測られるものとすれば、その時間の幾ばくかを文章を書くことに費やした者には、それなりの与えられるべきものがあるはずで、そこには学者も小説家もあるいは筆者のような市井の一庶民もないと思いたい。とはいえ、毎日こうして書くからには、何か常に新しい情報といったものを盛りたいし、そうでなければ筆者も読み手も退屈する。そしてそういう情報は他のどこにもないものに限るが、専門家であれば専門について何かに発表するであろうし、そうした貴重な情報を無料のブログに載せるアホなことはしない。筆者にもそれなりの専門はあるが、それを書いてもほとんど誰も喜ばないことを知っているし、そのためもあって、こうした日々の雑感でお茶を濁しているところがある。さて、今日もまた「梅雨時の白花三題」として、3枚の写真を掲げる。最初のものは白いつつじだ。つつじは5月にとっくに咲き終わったが、町を歩いていると、白のものがまだぽつぽつ咲いている。写真のものは垣根の下方、日陰に咲いていたものだ。日当たりがきつくないのでかえって枯れるのが遅くなっているのだろう。季節外れの花のようで、梅雨時とするにはふさわしくないが、散歩中にところどころ見かけるので、あえて採用しておく。2枚目はムーギョ・モンガへ往復する間に最近毎日花屋の店頭で見ている。撮影したのは、閉店後だ。道行く人には丸見えの形でこの花が置かれているので、無断撮影もいいかと考えた。ニューギニア産のインパチェンスと札が取りつけられている。インパチェンスは花色も形も豊富だが、白はすっきりとして、またいかにも熱帯の花らしく、どこかペロンとして襞のようなものを感じさせない。そこがいいと言う人と、そこが気に食わないと言う人で意見が分れる。筆者は好みではないが、あまりに真っ白な様子が、蒸し暑くなって来た今時分にはよく似合う。3枚目は松尾駅近くの土手で撮影した。数年前に地元の自治会が整備したのか、数十メートルの長さにわたって花壇がある。しっかりと整備されているとは言い難いところがあるが、多くの花が咲いている。宿根草が多く、放ったらかしでも毎年咲くのだろう。その中に白い小花が絨毯のようになっている部分がある。花の名前がわからず、帰宅して朝日園芸百科で調べると、ヴァーベナ・テネラという名前であることがわかった。どんな小さな花にも名前があるが、やはりみんなが記憶するのは、大きな花で、これは人間で言えば有名人か。名前がほとんど知られない小花は市井の庶民ということで、筆者にすればそういう花を積極的に紹介すべきかもしれない。ところが、そういう花は名前を調べるのに苦労する。植物百科に載っていないことが多いのだ。これは出版社も商売であるから、誰もがよく知る花をまず紹介し、その空いた場所に申し訳程度にさほど知られぬ花をという考えからして仕方のないところがある。ほとんど知られない花を列挙すると、それこそ「情報公害的側面」と言われる。世の中は常に有名人がリードしていて、無名の人々はブログでひっそりと情報を発信するしかない。であるから、なおさら独特の文体の獲得を目指して書き続けるしかない。もちろん文体以外に、中身の問題も忘れてはならないが、在宅時間が長いとあまり面白いことに出会わない。なるべくパソコンから離れることも大事だ。