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●梅雨時の白花三題、その8
内の特集を昨夜NHKがやっていて、いつものようにラジカセで音だけ聴いた。功を遂げていないのに名ばかり知られる自分を嘆いていた源内だが、いろんなことをしてみな中途半端なところがあったので、評価は今なお必ずしも一致していない。



特に学者と呼ばれる人は否定的だろう。人気があるとすれば、そういう学者をあまり快く思わない在野の人で、熱狂的に賛美し、それなりに顕彰する団体もある。昨夜の番組で知ったが、源内は多くの借金を抱え、それが2億円に相当するほどであったという。大きな借金を抱えられるほど人望もあったということだ。普通の人間に人はお金を貸さない。筆者は隣家を去年買った時に妹からかなりまとまった金額を借りたが、まだ1円も返しておらず、さてどうしたものか。それはさておき、2億の借金に首が回らなくなりながらも、何か大きなヒットで一気挽回を狙った源内だが、そういう生き方は現在でも山っ気があると思われても仕方がなく、そこが学者にまともに扱われないところだろう。学問はもっと地道にやるもので、一般の人気を得て、金儲けをするなど、全く論外と言うべきだ。そして、そんな大方の見方を源内も感じていたし、番組でも強調されていたように、源内は結局人のためになることに懸命であったと贔屓目に見られる。だが、この「人のため」は、自分で言い始めると途端に胡散臭くなる。人間は人の間と書いて、人がいなければ生きて行けない存在で、どんな行動をしてもそれは他人に何らかの影響を及ぼすし、その影響は本人がよかれと思っていても、他人はそう受け取らないことがある。なので、「人のため」などと旗印を掲げると、「お前のためだろ?」と必ず反論が出るし、それはもっともなことだ。この「人のため」を最も言う人種が政治家と医者だが、今日はその話はしないでおこう。ともかく、人のためなど、筆者は全く一度も思ったことがないし、そういうことを口にする人物は正直なところ、大嫌いだ。みんな自分のために一生懸命になり、その姿が人に感銘を与えるし、その「自分のため」ということは、金儲けや売名行為はもちろん含む。ただし、そうして儲けた金を何かにぽんと全部使うとか、名が広まっていることの責任を感じて、それなりに鑑となるような行動をするという条件つきだ。それが結局人のためにもなるが、そのことをどこまでも本人は意識してはならない。源内に話を戻すと、目新しいものに人一倍関心があったのは讃岐の生まれが関係しているだろうか。日本全土をわたり歩いたが、江戸が本拠地で、そこで獄死するから、東京に憧れて上京する現在の田舎者の先端であったと言える。源内が上方にあまり馴染まなかった理由は、やはり伝統が強過ぎて、新しいものを拒むところを感じたからだろう。江戸の方が伝統に縛られない分、源内のような山っ気のある人間が一山当てられる確率は高かった。その源内の思いはそのまま現在も通用し、日本で有名になるには東京で住まねば話にならないことになっている。その意味で、東京は山師の最も集まる場所で、それは正しい。その山師はネット社会になってよく知られる者が次々と世間をにぎわしたのは周知のとおりだ。(今「しゅうち」と打つと「羞恥」が先に出た。)
 源内は伝統にしがみついている者をばっさばっさと切り捨てた。その歯に衣着せない言葉は人気があったらしい。つまり、功はないが、名はあった。それよりも筆者が面白いと思ったのは、源内のそうした批判の的になった人種は、みな今でもそのまま生き残っていることで、江戸後期の状況が、現在と人間の種類において全く同一であることに感心する。つまり、200年ほど経っても人間は全く変化しておらず、その意味で言えば、源内のような人間は今もいることになる。全人的に似た者となると、これは思い当たらないが、伝統主義者を嫌った点だけ取り上げれば、同調する人は大勢いる。また、民間の学者として、常に何か金儲けになるようなことをして生活を維持せねばならなかった状態に、自分の姿を見る人は少なくない。筆者はあまり学者のことをこのブログでよく書かないが、それは大学という場所で生活が保証され、研究だけに没頭出来る立場がうらやましいというのではなく、生活の心配から遠い状態で、どんな有益な学問が出来るのかという疑問だ。そのいい例が今回の地震でTVに盛んに顔を出した地震学者だ。彼らの無能と無恥ぶりを見ていると、よくもまあこんあ連中に国家が金を出しているなという気がする。「想定外でした」を言うのであれば、即刻学者をやめるべきだろう。それを想定して国民に少しでも被害がないことを最大の課題として受け止めねばならないのに、大学や研究機関で給料だけ人一倍もらって、一般人の労働の観念から乖離しているからそういうとんちんかんな研究をしてしまう。これこそ「人のため」と本人は思ってやっているのだろうが、全くその反対、「人殺し」ではないか。であるので、学者は「人のため」などど口が裂けても言うべきでない。むしろ、自分は高給をもらって遊ばせてもらっていますと言うべきなのだ。学問は遊びであり、遊びは大学でなくても出来るから、源内のような人物が在野で生活費に事欠きながら、どうにかして一発当てたいとあれこれに手を出したことは、筆者にはよく理解出来る。そして、それがなかなかうまく行かず、次第に追い詰められて行ったこともまたわかる。だが、番組を見ながら思ったことは、歴史は結局正しい評価を下すということだ。大学の教授であろうと、民間の学者であろうと、その成果だけが問われるし、またその成果は、不思議なことに、その人物の全人生と不即不離の関係にあって、学問をする一方でどういう考えでどういう生活を送っていたかが大きく影響する。
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 数か月前に銅版画家の門坂流さんと話をした時、美大芸大の先生になればもうそれでおしまいといった考えを耳にした。それは芸術家が大学で教えて生活が安定すれば作品にそれが表われてしまい、面白い作品を作り得ないという意味だが、このことに真っ先に反論するのは、当の先生たちだろう。だが、そういう先生が仮に、「生活のため」などど口走ると、それこそなおさら物笑いになる。それはみな同じであるし、あえて大学で教えずに在野で生活して作品を作る者からすれば、「何と情けない」と言われる。在野の作家で生きて行こうとすると、作品を売るために自己宣伝する必要がある。その点が美大芸大の先生からは源内的と思われるだろうが、これを在野から見れば、美大芸大の先生をしていますということが最も大きな自己宣伝の道具になっていて、なおさらずるいということになる。筆者は門坂さんのように芸大を出ていないので、なおさら在野の中でも最も片隅の吹き溜まりにいる。そういう場所で生活しながら作品を作ることにどれほどの意味があって、どれほどの人が注目すのか、ほとんどそうしたことを考えずにこの年齢になるまでやって来たが、そういう世間から忘れ去られた片隅にいる者はいつの時代でもいるはずで、そういう存在にふさわしいことをやればいいと腹をくくっている。今日も梅雨時の白花の写真を3枚載せる。散歩する人は大勢いても、みんな見るものが違う。人間と犬とでもまた違うし、存在ごとに注目するものが異なる。あたりまえのことだが、これが面白い。それに普段何気なく見ているものでも、改めて探すつもりで見つめると、浮かび上がって来るものが多い。意識しなければ人は本当に物事が見えない。見えると見つめるの間には大きな差がある。白い花をここ数日探しながら歩いていると、とにかくよく目につく。中にはもう季節が終わってしまった花もあるが、これから本番というものもあって、今という時間が過去と未来の中央にあってつながっていることを実感する。花は誰に見られようが、また無視されようが、勝手に咲いて散って行く。それは人間も同じで、花として目立つ間にせいぜい自己を誇ることだ。その意味で、筆者はもう還暦で、とっくに花は終わったが、実を大きくする番だと思えばいい。その実はほとんど誰も注目しなくてもいい。実の中に種子があれば、それはいつか何かの形でどこかで開花するのではないか。筆者はそんな開花を誰かの心の中に与えられるといいと思っているが、漠然とした不特定多数の人ではない。その前に筆者が知る個人の存在がある。
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 さて、最初の1枚はあまりにも月並みな花だが、とあるスナックの前にあった白のヴィオラだ。ヴィオラは紫の語源にもなっているので、紫色が正統だが、紫の花には白で咲くものが多い。紫色を引き立てるには白がいいと植物はきっと知っているのだ。そう思うと、紫のジャケットに白のスラックスという姿もいいか。「そんなに目だってどうするの?」ときっと家内に言われるから、これは思うだけにしよう。ヴィオラ・スミレは多くの花色と斑紋の種類がある。筆者はそのことに注目して30年ほど前に盛んにキモノを染めた。パンジーより小振りで、また日本のスミレより大きなこの花の形が好きで、それは今も変わらないが、あまりにもどこでも見かけるので、さっぱりありがたみがなくなった。スナックはかなりさびれた様子で、まだ営業してはいるが、どういう女性が経営しているのか、白い鉢に白のヴィオラを植えて店の前に置いているところ、女性らしい心を持ち合わせていると見え、好感が持てる。2枚目はニワナナカマドだ。ムーギョ・モンガを往復する途中、田に引く水を流す小川があって、それに沿って多くの花が咲くが、そのひとつに珍しくも数日前からこの花が咲き始めた。ほかでは全く見かけないので、その家人の花の趣味が豊かであることがわかりそうだ。3枚目は小さなパン屋の店先で見かけた。エンゼルス・トランペットことアメリカ・チョウセン・アサガオで、これと同じ白の花がわが家の裏庭もあったが、毎年勢いよく葉を繁らせるのを家内がいやがり、いつも根から切り取っていた。そのようにしてもまた葉を出していたが、それが数年続いてついに根気負けし、すっかり枯れてしまった。前にも書いたが、この植物は高槻に住む染色を趣味とするある老人からもらったもので、それなりに大事にして写生も何度もした。その老人は高槻から千里に引っ越してから音信が途絶えた。今生きておられれば100歳を越える。高槻のお宅に一度お邪魔し、そこで初めて奥さんにお会いしたが、80代であるにもかかわらず、とても楚々としたかわいさがあって、世の中にこんな素敵な女性がいるのかとつくづく感心した。その時の記憶は今なお鮮やかで、女性は年齢に全く関係なく、心がそのまま顔や態度に出て、人を感動させると思った。帰りがけに玄関にかかっていた木彫りのレリーフを見ると、それがとてもいいので、作家の名前を訊ねた。すると、「家内が彫りました」と言われ、また驚いた。作品は人なりという言葉をその時ほど真実であると思ったことはない。その木彫りがほしくて、その時も半ば冗談交じりにそれを言ったが、今となれば本当に譲ってもらっておけばよかった。その奥さんは道ばたに誰にも注目されずにひっそりと咲く白い花にたとえていい。だが、そういう花でも存在を知る人や感銘を受ける人がある。エンゼルス・トランペットは夜になると白い花が暗い庭に映え、そしてあたり一面にむっとする匂いを強烈に発散した。それが懐かしいが、直植えせずに鉢植えしていれば場所が移動出来て、家内もうっとうしく思わなかったはずなのに、惜しいことをした。だが、どこにでもある植物なので、また育ててもいい。筆者はすぐに植物を直植えする。それは鉢植えでは植物が不安に思うのではないかとの心配りと、筆者自身が根なし草のような生活をしていることにもよる。映画『レオン』では、最後にひとり残された女の子がレオンが大切に育てていた観葉植物を形見として広い場所に直植えする場面がある。その象徴的な場面を見るより前に筆者は植物を直植えしていたが、在野の全く取るに足らない無学な筆者でも、どこかの片隅でしっかりと根を張って、源につながっていたいと思っているのだろう。
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by uuuzen | 2011-06-23 12:54 | ●新・嵐山だより
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