疲れやすくなっているのは梅雨のせいかと思うが、それに加齢も重なって、だんだんと動くのが面倒になるように人間の体は出来ている。花でもしわくちゃになれば誰も目もくれず、目をつけてもらったと思えばせいぜいむしり取られる場合だ。
そう思えば人間も華やいでいる20代からせいぜい30代前半までがいい時期だなと今さらわかり切ったことをこうして書くと、全く平凡な書き出しで面白くなく、やはり疲れが出ているのかと思う。さきほど古文書を扱うある専門業者に会って2時間ほど話して来た。自転車で20分ほどのところで、会うのはこの数年で3回目、それとは別に電話で一度話したことがある。とてもよくしゃべる人で、ついつい話を聞いていると、裏話が次々と出て来て、いくらでも時間が経つ。その家の玄関前の片隅に鉄砲百合が咲いているのを最初に気づき、帰りがけにその写真を撮り、そして今日も昨日に続いて梅雨時の白い花の写真を掲げることにした。写真を撮ってすぐに門の外に出ようとしたところ、40歳ほどの見知らぬ美女が通りがかり、筆者の方を向いてなぜか口元をニッと引き上げて微笑んだ。こっちも微笑み返せばよかったが、一瞬のことでドギマギし、自転車に乗っていざ出発しようと周囲を見わたすと、もう姿がない。また女の話を書いてしまいそうだ。その理由が何かと自問すると、思い当たることがあった。筆者は梅雨時の今頃になると、毎年決まって思い出す出来事がある。その記憶は艶かしさに直結している。そして梅雨を知らせる花を見かけると自動的にその記憶が蘇る。誰しも特定の季節に結びついた特定の記憶を持っているが、人生とはつまるところ、そのことの蓄積で、またその記憶は完全に個人のもので、親や友人、恋人と結びついてはいても、全く同じものとしては共有されない。であるので、筆者が今の季節には毎年思い出すその記憶は、それに関係している人は、筆者が思い出すようには思い出すことは出来ないし、またそもそももう忘れてしまったかもしれない。そしてその人の心になり代わってその記憶のことを考えてみることも出来るが、それは筆者の想像力であって、現実のその人の思いとは無関係だ。だが、そもそも筆者は他人にはなれないから、そうした想像がその人の抱くものとどれだけずれがあるのかないのかがわからない。つまり、勝手に想像することが、ひょっとすればまさにその人の思いと同じであることもあり得る。そしてそういう他人の思いになり代わる思いは、小説を書く人には欠かせない才能だろう。小説は嘘を並べ立てるが、登場人物の思いになり切って書く点ではあながちそうとばかりは言えない。自分の想像から発していることは、自分が真実であると思い込む立場からは真実でしかあり得ない。それでもう少し話を進めると、筆者のその梅雨時にまつわるある記憶は、微妙に修正が加わって来ている。現実にあったことをそのまま思い出すのではなく、現実にはなかったが、あってもよかった出来事、あり得た行為を想像する場合が多い。これは現実と非現実をごっちゃにしていて、あまり精神的にはいいことではないだろうが、自分では実際の出来事と想像部分をはっきりと認識しているので、問題が生じることはない。それはいいとして、過去の思い出深い出来事をそのように修正しつつ反芻することは、よほどその経験が決定的であったこととは別に、そのとっくの昔に過ぎ去った遠い過去が、今もなおそのまま生きていることであって、これは悲しくもあるが、精神に落ち着きももたらす。また、その記憶の元となっている人が今この瞬間に眼前に現われても、お互い年齢を重ねていることもあって、昔のようには接することは出来ないだろうから、全く筆者個人内部の、大切かどうかは知らないが、ともかくよく思い出す記憶となっている。
話題を変える。鉄砲百合で思い出すことがある。10代半ば、母が鉄砲百合をどこで入手したのか、切り花を持ち帰った。それを間近でじっくりと見たのはそれが初めてだった。長いめしべの先端が三つの丸みを帯びでふっくらとして、しかも蜜のような透明な粘液でべっとりと濡れていた。それを見て筆者は6本のおしべの花粉を塗りたくってやったが、切り花であるので受精することはない。そう思うと切り花は何と残酷で哀れかとさびしくなった。もうひとつ思ったことは、めしべは1本で太くて中央にあるが、おしべは6本でめしべを取り囲み、雌に比べて雄はあまり価値がなく、人間もきっとそうなのだろうなということだ。これはアダルト・ビデオでもよくあるように、男は束になってひとりの女に挑みかかるが、その逆はほとんどない。つまり、男はひとりの女を多数の男で犯すという願望があり、女もそれを当然として受け入れ、そうあってほしいという夢を抱いているのではないか。それが真実とすれば、その根本には植物や動物の本能を引きずった部分があるだろう。人間は獣とは違うという考えを、どんな場合にでも強調することはよくない。そういう考えが時には生物の共存の無視につながる。せいぜい人間は猿よりちょっと脳ミソが多いだけで、ほとんど獣から脱していないというのが事実だ。そう思えば、アダルト・ビデオでひとりの女性が多数の男から精子をぶちまけられる光景も自然なものに見える。だが、反対に、獣は決してそんな無駄な遊びのような性行為はせず、人間の方がえげつなく、獣以下という声もあろう。それは案外正しく、人間は暇を持てあまし、性行為においてもどうすればより興奮するかを常に考えている。それは、表現はふさわしくないかもしれないが、一種の創造的行為でもあって、今までに誰も見たことのない、また経験したことのないセックスが待望されている。だが、結局のところ、最も楽しいのは、他人のそういう行為を見ることではあり得ず、自分が好きな相手と実際に行なうものであって、アダルト・ビデオはさびしき人々のものだ。開高健はそういうものを大人の童話と呼んだが、童話が現実の辛さを一時でも忘れさせてくれる、あるいはそうでなくても楽しい夢を見させてくれるものであるとすれば、それは正しい表現だ。鉄砲百合のめしべの粘液から妙なところに話が来た。ま、筆者のブログは未成年は読まないだろうから、こんな話もいいだろう。
さて、最初に書いた古文書の専門家と話をした後、土手沿いを自転車で走っていると、たくさんの植物を育てている家があって、そこにカラーの花が少し咲いていた。この花はとても女性らしく、セクシーだ。ジョージア・オキーフが描いていたと思うが、オキーフが花を画面いっぱいに描く絵は性的な印象を与えると当時から非難気味に言われていた。花は植物の生殖器であるからそれは当然で、そんなわかり切ったことをなぜ言うのか不思議な気がしたが、オキーフが女性であったことがレズを連想させて問題視された部分があったのかもしれない。だが、男が同じように描けばどうなるのか、それはその人の持っているものによって大きく差が出るはずで、男女差の方がそれより小さいのでないだろうか。先日グループ展の会場を覗いたことを書いたが、筆者の自治会の住民が出品していて、以前から楽しみにしていた。その女性は筆者より10歳ほど年下で、中学3年の娘がひとりいるが、油絵をずっと描き続けていることを2年前に知った。その時は知らなかったが、京都市芸を出ている。予想していた作品とは色合いは似ていたが画題が違い、またそれは筆者があまり関心のない分野で、そこが興味深かった。古事記の埴土の話などを聞かされたが、古い民話に関心があるとのことだ。色調はルドンに近い。つまり、幻想的な作品だ。学生時代は黒とわずかな赤の全く暗い画面ばかり描いていたのが、結婚して交際も広がり、少しずつ華やかな色を使うことが出来るようになったそうだ。小品ばかりだが、主婦であるので、それも無理はないし、また緻密に描き込むので大画面は無理とのことであった。絵を描く女性は珍しくないが、絵を描くとにどういう意味や思いを抱いているかを質問してみた。すると、趣味ではなく、生きて行くうえで欠かせない作業との返事で、これはなかなか立派と思った。売れる売れないにかかわらず、とにかく少しずつでも描いていなければ生きている実感がないというのが本物であって、公募展用に100号以上の大作を年に2回描くことだけで精いっぱいという人が大勢いて、そうした人の絵はほとんど中身がうすい。オキーフもその女性も根源的なものに関心が強いようで、それは女性特有なのかどうか、筆者は女性でないのでわからないが、物づくりをする、つまり創作をする女性は筆者にとっては謎めいている。そういう女性と恋愛したことがないので、なおさらかもしれない。その女性はある染みを見て、そこから画想を膨らませることが少ないと語ってもいて、自分でも少し危ないかなと思うほどのめり込む時があるそうだ。だいたい創造に携わる女性はそういうタイプが多いと思うが、筆者にはあまりその傾向はないので、話をしていても微妙に噛み合わないところがあったりする。それは筆者の友禅の仕事が、最初から完全に最後まで計画を立てて作業に入る必要があるのに対し、その女性の作画は、偶然の染みを利用しながら、最後はどうまとまるかわからいまま描き進むという差にも現われている。だが、こうして書いている文章は、まさにその女性の作画と同じで、最後はどうなるかさっぱりわからないまま書いているから、筆者にも同じような側面はあるのだろう。
次の白い花はゼラニウムだ。これをさきほど自転車で走りながら2か所で見つけた。どちらの写真も撮った。双方は全く開花状況や場所が違い、どちらも捨てがたいが、白の多い方の写真を掲げる。ゼラニウムはどこにでも咲いていて、わが家にも朱色のものが3、4鉢ある。あまりに増えるので、放ったらかしにしていつ枯れてもいいわいと思っているのに、どんどん成長する。この花は真っ赤が本当で、白はあまり見かけない。昨日は南天の花が白で、その実が真っ赤なることと釣り合っているといったことを書いたが、ゼラニウムの花もそうだ。真っ赤に対して白がちゃんとある。これはつつじやサルビアも同じで、赤い花にはだいたい白の品種があるものと見える。白に赤が最も似合うことを女性はよく知っていて、それで口紅が生まれたのではないだろうか。だが、この口紅の赤は色白の女性が似合う。筆者は真っ赤な口紅をつけて似合う女性が好きだと以前に書いたが、それはきっと男とは無縁の姿であるからだ。男が女装することは珍しくなくなったが、全くそれは見たくない。また、女の男装が嫌いかと言えばそうではなく、TVに以前よく出ていた若い女性の指揮者はとてもセクシーで格好いいと思う。梅棹忠夫の借りて来た1冊を読んでいると、男が力仕事する一方で、女は情報をたくさん得るとあった。そして時代は力仕事本位ではなくなり、情報化に向かって来たが、その点で言えば時代は女性化して来た。そして、情報収集が女性の得意とするところであれば、梅棹のような学者は、みな女性っぽいということになるが、梅棹はそのことをどう思っていたのだろう。そして、筆者が思うのはそこで、こうして毎日長文を書く行為は、女性的であって、そういう姿は女性からは好感が持たれないのではないか。筋肉隆々の男が好きという女性は案外多く、その意味でも筆者はさっぱり女性的で駄目だが、女性が情報好きである点において、話だけはいくらでも出来るかもしれない。おしゃべりな男は魅力がないとさんざん言われて育った世代であるので、筆者は今でも自分が人前で話すことをあまりいいこととは思っていない。寡黙な男が格好いいと思う女性が今は多いのか少ないのか知らないが、情報や知識が豊富であれば、女性を話術で楽しませることは出来るし、それが男の魅力と歓迎されるほどに時代が変わって来たことが、梅棹の女性すなわち情報集めが得意という考えからは導かれる気がする。だが、情報もさまざまで、若い女性が熱心な事柄に筆者は関心がないであろうし、こんな長文を書いても疲れるだけ、読む人も同じか。