らっきょうを今年も漬けたいと思いながら、土つきの1箱が思ったほど安くなく、またビニールを被せた蓋から丸見えのらっきょうを見ると、緑色の芽が5センチほども伸びており、しかも小蝿が箱の中で飛んでいる。
らっきょうを漬けるのは手間が多少かかる。苦味を抜くために塩をまぶして重しをして10日ほど置き、水気を抜く。去年は面倒くさくてこれを省いて酢漬けしたが、やはり苦かった。らっきょうはカレーライスによく合うので、袋入りを買うより自分で漬ける方がいいかと数年前に思った。その方が安心も出来る。去年は梅酒を漬けたが、ちょうど1年経って色づきもよく、数日前に少し飲んでみた。だが、砂糖が足りず、また日本酒と焼酎を半々に混ぜたのが、味が分離して変なカクテルだ。この日本酒と焼酎を混ぜる方法はNHKで放送していた。ところがそれは法律違反の酒の作り方らしく、レシピはネットから即座に消去された。それをうまくコピーしてブログに掲載している人がいたので、それを参考に漬けた。ところが、NHKで紹介していた日本酒は大吟醸を使うこととあって、いい酒なら1本1万円はするし、それにそのまま飲んだ方がいいに決まっている。梅酒は安い酒で漬けるところに庶民のささやかな楽しみがあるもので、大吟醸の高級品など、料亭が作る梅酒だろう。だが、大吟醸と言われると、それなりに遵守しないとまずいかと思い、いちおう吟醸と銘打つもので安いものを買った。だが、1年経っての試飲はさっぱりおいしくなく、もう1、2年寝かした方がいいのかと思っている。酒はなくても平気だが、あると知っていると気になるほどには好きだ。箱入りのらっきょうを売っているスーパーはよく行くムーギョ・モンガだ。ここは腐った野菜を半分混ぜて安価で売るほどの徹底した始末主義の安売り店で、庶民的でも最下層の人に人気のあるところと言ってよい。その向かい側にもっと大きなチェーン店のスーパー、そして5分ほど歩くところに京都では現在最も店数の多いスーパーがあるが、ここは2か月ほど前から立ち寄らなくなった。化粧の濃い、まだ10代後半の無愛想な女の子が何度かレジを打ち間違い、それを指摘してもすいませんの一言もないので、本店に抗議のはがきを出したところ、しばらくして彼女はいなくなった。クビになったのか、自分で辞めたのか。どっちでもいいが、客あっての商売であることをもって徹底して店員に教えるべきだ。急成長する店はそれを忘れがちになる。いやなことがあったので、筆者はとんとその足を向けなくなったが、人間関係でもそういうところがあって、いやな仕打ちに会うと、ぷつりと連絡を絶つ。それはいいとして、そのスーパーのすぐ近くに、コンクリートの割れ目から白いスミレが毎年かなり咲く。そのすぐかたわらを毎日大勢の人や車が通るが、誰か立ち止まって見つめる姿を見たことがない。せいぜい散歩に連れられた犬が小便をひっかける程度だ。その今年の花はとっくに枯れてないが、今日も昨日に続いて梅雨時の白い花の写真を掲げるのでふと思い出したのだ。思い出しついでに書いておくと、そこから100メートルほどの松尾橋東端から見る嵐山の今時の夕焼けは本当にきれいで、その勇壮とも言える景色を見るためにムーギョに買い物に行く理由もある。だがその夕焼けを見ていると、ムンクが「叫び」を描いた意味が少しわかると言おうか、何となく悲しくなる。巨大地震の後はなおさらだ。

筆者は木に咲く大きな花が好きだが、梅雨時は白い花なら何でもいいという思いもある。それが女性の白のパンティを連想させるからというのではなく、白いシャツを思わせるからで、夏はやっぱり白がいい。だが、白は色がついていないので清潔ではあるが、物足りなさもある。かと言って変な色がつくのもいやだなという気がする。また女の話になるが、筆者は白い肌の女性が好きだ。日焼けした小麦色肌の女性はどちらかと言うと苦手で、透き通るほどの白いのがいい。たまにそういう女性を見かけるが、もちろん肌が白いだけでは駄目で、筆者好みの美人でなければならない。そんな勝手なことを言っているが、先日も書いたように、TVを見ていてもめったにそういう好みの女性には出会わない。2、3人いることはいるが、そのうちのひとりは1961年生まれで、90年代半ば頃、ある実業家と結婚し、10年過ごして別れ、その後またTVに出るようになったが、変わり果てた顔つきで、苦労したことが滲み出ている。そういう女性は見ていて楽しくない。結婚当時、TVで旦那を褒めそやし、おのろけがかなりきつかったが、男を見る目がなかったのだ。芸能人の女はそういうケースが少なくないだろう。最初は清純派で登場した女性がそのうちにくたびれて、表情もどことなく下司になってしまう。そういう姿を見るのは本当につらい。これはその女のせいだけとは言えない。男がそうさせる。女性を見ていると、相手の男が思い浮かぶ。もうひとり好みの女性は1960年生まれで筆者より9歳下、ずっと独身で、健康的な笑顔がとてもいい。ネットで昨日調べると、かなりひどいことを書かれていて、賛否に落差があり過ぎる。もちろん筆者は大好きだが、ま、名前は書かないでおこう。この女性とはいつか会えるかなと夢想しているが、その機会がゼロではないような気がしている。今気づいたが、筆者が好む女性は白が似合うかもしれない。白ははかないが、強靭さも同じほどかそれ以上に持ち合わせていて、その強靭さは、変わらぬ愛とでもいった言葉に代表される一途さだ。そんな女、今ではどこにもいないと笑われるかもしれないが、女は男によって変わる。男がつまらなければ女もつまらなくなるし、女が初めて出会ったと思えるような男であれば、男もその思いを受けてますます磨きがかかる。そして、どんな女が好み、あるいは理想かは、誰もが勝手に思い描けばよく、そう思っている間に、その思いどおりの女に出会う。女がらっきょうの皮を剥くように男に合わせて脱皮すると言おうか、とにかくお互い惚れ合うことは、お互いが以前の自分から刷新されることだ。そういうイメージに一番ぴったりするのはやはり白で、白の清潔な半袖の綿のシャツを着る美人を思い描くとくらくらとして来る。下着ももちろん白だな。

ムーギョ・モンガには最近2、3日に1回行くことにしている。雨の日が多く、また買い物を両手いっぱいにするから、毎日行く必要はないのだ。松尾橋をわたっている姿が車からよく見られているようで、ここ数か月に3人から言われ、また別のひとりは車を停めて声をかけて来た。ムーギョ・モンガまで往復する間に俳句を考えることが多いが、それだけ花をよく見かけるからだ。花は季節の推移を最もよく伝えてくれる。そしてその季節の推移ごとにこっちは老いて行くが、道端の誰も立ち止まって見ないような花はそういう筆者には全くふさわしく、せめて俳句に取り上げて記録しておいてやろうと思う。その俳句は出来たその尻からエキサイト・ブログが提供する「つぶろぐ」に投稿しているが、ここ10日ほど前に始めたTWITTERは、花とはセットになる鳥についてなるべく投稿しようと考えている。だが俳句ではない。その分、書くのはとても気楽で、TWITTER程度の長さの文章は割合に合うように感じている。そして、そこに書く内容はこのブログとは違う傾向のものにする自信が何となくある。ということは、TWITTERを始めたことは、筆者の別の能力が開発されることでもある。その分忙しくなるが、そのようにしてでも毎日1回は何か書くことを義務づけたい。このTWITTERについてはわからないことが多い。昨夜エキサイト・ブログの設定で、TWITTERに投稿した文章をこのブログに表示出来ることを知って、設定を変えた。また昨夜初めてTWITTERのフォロワーというのがひとり現われたが、これがどういうふうにしてそうなっているのか、まだシステムがよくわからない。そのフォロワーのTWITTER画面に行くと、フォローしている人、されている人がともに2桁の数字になっていて、なかなか熱心と言おうか、ちょっと驚いた。何年か前、筆者はMIXIに誘われて始めたことがあったが、システムが今ひとつ馴染まず、結局友人はひとりも出来ず、またこっちからもどこへも行かずで、放置したままになっている。TWITTERのフォロワーの仕組みはこのMIXIの友人を増やすことに似ている。昨日も書いたが、筆者は顔を知らない人とはあまり親しくなれず、フォロワーの数が増えても、あまりぴんと来ないだろう。だが、それは古い人間の考えで、たいていの若者は、仮想空間だけの大勢の知り合いがあってもいいと思っているし、そういう仮想フレンドの存在から励まされもするのだろう。現実の友人の重さとは違う、もっと軽い知り合いという見方だ。ところで、昨夜TWITTERの使い方をざっと見ていると、有名人は特別扱いされていることを知った。どういう有名人が含まれるのか知らないが、TWITTER社にすれば有名人とつながることが出来ますよという大きな宣伝材料にもなるとの思いだろう。そこで思うことは、有名人と無名人の絶対的な差で、ちょっとだけ有名人というのもやはり有名人なのかどうか。有名人と聞くと、芸能界を連想してしまうが、浮き沈みの激しい世界であるから、以前は有名であっても今はさほでないという場合が往々にしてあって、この有名人という名前にはどこか悲壮感が漂っている。みんな有名人になりたいのだが、それが無理とわかっているから、せめてTWITTERで有名人をフォローしようというわけだ。そして、フォローされる数を増やすには、する数を増やすことが効果的であるし、そのようにして他者とのつながりが増えると、若干の有名人になった気分も味わえると思っているのだろう。MIXIにはそんなところがあって、有名人や仮想フレンドなどどうでもいい筆者には向かなかった。それで言えばTWITTERもそうなりそうだが、先に書いたように、「つぶろぐ」の俳句とセットになるような短文なら毎日書けそうなので、当分は続けるかもしれない。
ムーギョ・モンガに話を戻すと、両手いっぱいの買い物袋の重そうな姿は、松尾橋を車でわたる人からすればちょっとは哀れに見えているかもしれない。車なら雨に濡れずにもっと大量の食材を買うことが出来る。大型冷蔵庫が普及し、車を持つことがあたりまえになったので、そういうライフ・スタイルは京都の端の嵐山でもごく普通になっている。だが、冷蔵庫は電気で、車はガソリンで動き、エネルギーを消費している。まさかそういう理由で筆者が徒歩徒歩トトホと往復8500歩のスーパーまで歩いているわけではないが、自転車があるのにそれに乗らず、わざわざ歩くのは、花を眺めたり、夕焼けを見つめたり出来るからで、また往復する間にずっと俳句のことを考え、ようやく寝る直前に一句まとまったりすることが楽しいるからだ。何でも思いようで、それこそがその人を特徴づける、つまり個性的にする。何が言いたいかと言えば、筆者なりのこのブログやTWITTERの使い方があるはずで、その標準的な使い方を真似る思いはないということだ。そうそう、MIXIで気に食わないのは、画面のデザインが画一的で、自分が個性のない人間として強いられることだ。このエキサイト・ブログは画面のデザインをかなりの部分、自分で変えることが出来る。そうでなければエキサイトでブログは使わなかった。TWITTERで気に入らないのは、MIXIと同じく、画面に大きな制限があることだ。またエキサイト・ブログ側から設定するTWITTER表示画面は2種しかなく、これももっとどうにかならないものかと思う。自分でHTMLやCSSを書ける人は大勢いるし、そういう人はおしきせの画面にはいつも不満を抱いているはずだ。確かに投稿内容こそが創造性の主幹ではあるが、その文章を見るのは常に画面であって、その画面を投稿者の思うデザインに作り変えられるようにしてほしい。だが、おそらくケータイで見たり投稿したりする人が圧倒的に多く、パソコンとの互換性の問題もあって、利用者の自由に任せられない部分が大きいのだろう。筆者はケータイを持っていないので、このブログにしてもTWITTERにしてもその画面でどう見えているのかわからない。このブログに関して言えば、デザインは筆者のパソコンに合わせて作ったもので、ケータイでは全くそれが反映されていないと想像する。ああ、何だかこの調子では「ブログ作成歩録」向きの内容になっていて、今日のタイトルとは離れて行くばかりだな。それでまた話を元に戻すと、ムーギョへの往復で、今時に咲く白い花がいろいろとある。今日は昨日に続いてまた3種3枚の写真を掲げる。

まず白のアジサイだ。アジサイは「紫陽花」と書くように、紫、あるいはその元となる赤や青が普通だが、白もたまに見かける。そして、この白のアジサイは間近で見るほどに味わいがよい。松尾橋に向かう途中の住宅道路沿いに、夕暮れ間近になると数人の近所の老人がたむろする場所がある。鉢植えに水をやったりしながら雑談に興じているのだが、その道路際に白のポリバケツで育てられている白アジサイがある。それがちょうど満開で身頃になっている。白のバケツというのがいかにも庶民的だが、偶然かどうか白のアジサイを邪魔しておらず、ちょうど白シャツの若い女性の白いパンティのようでいい。2枚目の写真は花と言うには地味過ぎるが、これは南天の花だ。これが数か月後には真っ赤な実をつける。白の花が真っ赤な実とはいかにも合っている。南天はお洒落心をちゃんと知っているのだ。だが、南天と言えばやはり真っ赤な実であって、白の花を誰も立ち止まって鑑賞しようとはしない。南天はどの家にも必ずあるほど普通の植物で、わが家も表にも裏にも植わっている。また、成長が早く、毎年今頃になると一気に背丈が伸びるので、剪定が欠かせない。と書きながら、今年はまだそのまま放置している。3枚目の写真はホタルブクロだ。これがたくさん生えている場所が近くにある。淡い茶紫の花もあるが、やはり白がいい。この花の内部にホタルを入れて昔は遊んだそうだが、嵐山にホタルが飛ばなくなって久しい。昔はわが家の裏庭でも飛んでいたが、捕まえてこの花の中に閉じ込め、夕暮れにその光を花の外から眺めたいものだ。提灯か行灯のように見えるのだろうか。そんな遊びをしようと思えば、今は山奥の川沿いにでも行かねばならない。車があれば都会からでも1、2時間で行けるよと言う人があるだろうな。車を運転出来ない筆者にはそれは無理なので、せめてホタルブクロの写真を撮って、ホタルを花の内部に閉じこめることを想像するだけだ。ホタルは迷惑かな。花の中心には匂う場所があり、周囲全体が色鮮やかなカプセルのような防護壁であれば、それはそれで楽しい空間ではないだろうか。筆者が虫なら、喜んでそんな花の中で埋まっていたい。ま、これを書いている仕事部屋は、かぐわしい匂いのするものはないが、その花の内部の空間に似たものだ。らっきょうの枕に関係のない話に終始してしまったので、最後にイメージして作った一句を。「売れ残る らっきょう求め 今日も暮れ」