新聞にこの映画についての記事が載ったのは去年10月のことだ。それ以降も2、3度紹介されたが、これは絶対に観ようと決めた。
その後たまに思い出したが、話題になっていないようなので、ひょっとすればもう上映が終わったのかなと心配していたところ、つい最近新聞に2日続けて宣伝が載った。それで早速前売券を買おうとしていたところ、封切りより5日前の試写会の券を入手することが出来た。上映前の講演つきだ。映画が155分もあるので、講演を入れると3時間になる。観終わってさきほど帰宅したばかりだ。前宣伝ぶりはドイツ映画としては異例中の異例とも思えることで、力作ぶりが伝わった。ポスターやチラシに大写しになったブルーノ・ガンツ扮するヒトラーは、びっくりするほど真に迫っていて、その点だけでも観る価値があると思わせるに充分であった。ブルーノ・ガンツはヘルツォークやヴェンダースの映画によって世界的に知られるようになった俳優だが、ついにここまで来たかと思わせるに充分な出演がこの大作映画だ。メーキャップをしてそれなりに顔を加工はしているが、それでもヒトラーに瓜ふたつで、猫背や左手の痙攣など、身体的特徴は可能な限り研究されていることがわかった。ヒトラーを実写したカラー・フィルムはある程度は残されていて、それらはたまにドキュメンタリー作品で観ることが出来るが、こうした最先端の技術を駆使した映画で、姿形だけではなく真に迫る演技を伴っての鮮明なヒトラー像の描写は、その人間的な内面への食い込み方に圧倒的なものが生まれ、実物を越えた実物が俳優によってもたらされるという不思議な事実が改めて感得される。ブルーノ・ガンツ独特の目とわかる場面がほんの少しはあったが、全体的にはヒトラーの魂が乗り移ったような演技で違和感はなかったと言ってよい。50年以上前に撮影された古いフィルムを観る時、人はどうしてもそこに画面の改像度、鮮明度の低さによって時代の古さを認識してしまうが、そのフィルムが撮影された時は今と変わらぬ空気が流れていたはずで、改像度が落ちるのは単に当時の撮影や映写技術を反映しているからに過ぎない。人はこのことを知ってはいながらも、そうした昔のフィルムから汲み採ることの出来る不鮮明さのようなものがその時代を代表する特徴であると思ってしまいがちだ。そのために、たとえばこの映画でヒトラーの姿や隠れ住んだ地下室などがきわめて鮮明にスクリーンに映し出されると妙な気分になる。その鮮明さは「今」のものであるからだ。通常知っているヒトラーはそのような鮮明な画面では絶対に見ることは出来ない。つまり半世紀以上も前の「古い」時代に閉じ込められた格好で脳裏にヒトラーの映像が刻み込まれている。そしてそのことに人は幾分かは安心している。戦争の忌まわしい映像はみなそうした過去の不鮮明な映像の枠の中に押し込められた格好で記憶されているため、酷いこととは知りつつもそれを日常はあまり意識しなくて済んでいる。だが、そうした出来事は今をそのまま遡った、現在とつながったところに確実に存在していたもので、もし当時に現在のようなデジタル映像の技術があれば、全く今あるような出来事として鮮明に撮影することは出来る。こうした考えは映像に携わらない人でもよく思うことであろうし、ましてや映画人であれば、ドキュメンター的な内容をリアルに今に再現してみたいと考えるのはごくあたりまえのことだろう。その思いが行き過ぎるとコンピュータ・グラフィックスを駆使した過剰な絵空事映像の氾濫になり、そしてそのことが現実感を削ぐあまり、リアルな映像であるにもかかわらず全然リアルでない映画が生まれてしまう。『グラディエイター』というアメリカ映画はその代表で、まるで子どもだましのつまらぬ作品であったが、今やどのようなリアルな映像でも加工可能になってしまい、そのリアル感をどの程度まで何によって表現するかのバランス感覚の取り方は難しい。
このことでもうひとつ思い出すのは『戦場のピアニスト』でのワルシャワの廃墟のシーンだ。ワルシャワの廃墟の写真がどの程度存在するのかは知らないが、映画ではいかにもコンピュータで合成した、ちょっとやり過ぎな街路沿いの崩壊した建物群が何度も見え、それがかなり白けた印象を与えた。実際に爆撃で徹底して破壊し尽くされた街角をカメラで撮影すること出来ないから、コンピュータの画像処理でそれ風に見えるように作るしかないのはわかるが、それでもそこに当時のリアル感を忠実に再現する考えは必要だ。もちろん映画に携わる人はそれを念頭に置いているはずだが、時としてやり過ぎるのだ。ワルシャワの街が映画で描かれた以上には破壊されていないはずと言いたいのでない。その破壊され具合がどうも単調でへたな絵を観ているような感じにさせたのだ。そうした街路の廃墟具合がどのようにフィルムに定着されているかという関心が、このヒトラーの最期の12日間を描いた映画を見る前に少なからずあった。結果的には抑制が利いていてリアル感は非常に高かった。爆撃シーンやそれに伴う人体の破壊、あるいはその後の手術の場面などもみな玩具のような感覚から離れてリアルさに迫っていた。画面上での処理というより、それらは大体みな模型を使った撮影によると思うが、画面をどのようにでも加工してしまえるコンピュータ・グラフィックスよりも、むしろ小道具係が丹念に作った模型の方がリアル感を与えるのは、手作り感覚のより大きいものほどリアルさを与えるのにはよいという逆説めいた事実を改めて伝えてくれる。この映画ではそうした手作り感覚が全編を通じてよく統一が取れていた。それはブルーノ・ガンツを初め、役者がみな実在した人物のそっくりさんを使うというところにも表われている。
この映画は、ヒトラーが最期を過ごしたベルリン市内の地下指令室、そしてその地上の戦闘シーンとに分かれるが、前者の問題は実際の地下室にあった諸施設や軍人などの服装やまた小道具の再現で、後者は街角の廃墟をどのように撮影するかだ。前者では無線機室の機器類や軍服などがみな時代の埃を被らないピカピカの新しいもので、これは最初に述べた昔の映像に慣れた感覚からすれば一瞬拒否の感情を湧き起こさせるものだが、そのすぐ後で「当時はきっとそう見るようにピカピカの物であったはずだ」という修正の気持ちにすり変わる。そしてその違和感を与えそうなピカピカさが逆にリアル感を増す存在として注目させるものに目に映って来る。これは、映画のどこかにわずかでも絵空事と思わせるものがあれば全体がそうなってしまうから、こういったドキュメンタリー的な映画ではリアル感をどうするかはかなり重要なことだ。ましてやヒトラーがテーマであるのでなおさらリアル感の描写に関しては細心の注意が支払われなければならない。そこがほとんど満点に近いほど成功しているあまり、今後この内容を越えるヒトラー映画は作られないに違いない。次に、後者のベルリン市街の戦闘シーンだが、これはもはや現在のベルリンで撮影することは出来ない。そこでロシアのセント・ペテルスブルグで撮影したというが、地下室の映像との対照は見事でよく釣合いが取れていた。爆発や崩壊した建物、あるいは炎上シーンなど、どこまでをコンピュータ・グラフィックスに頼っているのかどうかは知らないが、過剰表現がなく、実際そうであったに違いないと思わせるに充分な街角の荒れた光景は、ブルーノ・ガンツらのそっくりさん使用による地下室シーンとは別の苦労が伝わった。
地下室と地上のこれらふたつの別世界をつなぐ人物が軍人以外に何人か必要なのは映画としては当然で、ドキュメンタリーに忠実ではない作り事をどのように全体に織り込むかという脚本上の問題がある。ヒトラーやその側近たちが地下室でどのように行動したかもかなりの部分は想像に頼るしかないが、それでも最期がどうなったかはわかっているで、その条件に当てはめて考えればそうした創作はさほど難しくはない。そうした事実に準拠する出来事だけで映画をまとめることも出来たはずだが、それではすでに詳細に描かれている側近たちのドキュメンタリー作品を出るものにはならないし、また新たに映画として描く意義も減少する。ここでは戦後60年という節目に応じた、それ相応の映画を作るに当たっての願いといったものが用意される必要がある。それを映画にどのように描くかで、映画全体が妙に教訓的過ぎるものになってしまいかねず、観客もそれを敏感に感じ取るから、この映画の見所のひとつとして、そうした有名な実在の軍人以外の登場人物にどの程度の役割を負わせて、映画全体を通じて別のドラマとして描き込むかという問題がある。それはヒトラー・ユーゲントの少年たちの行動という形でうまく挿入されていたが、ヒトラーに心酔し切った青少年男女がベルリン市街に攻め込んで来るロシア兵相手に戦闘をし、やがてひとりの少年だけを残して全部死んでしまうというストーリーに仕立て上げつつ、最後はその少年がこの映画のもうひとりの主人公であるヒトラーの女性秘書と手を携えてベルリンを脱出するという筋立てによって、うまく地下と地上のドラマを結び、しかも未来に希望が持てるような内容に仕立て上げていた。この少年はほとんどセリフがなく、無言で砲弾飛び交うベルリン市街をネズミのように走り回ったり、また自宅では両親が惨殺されているシーンを目撃するなど、当時のベルリンの一市民の代表的な目として位置づけられていたが、このような無名の少年を登場させなければ、映画の地上シーンは全体的に人間ドラマとして感動的なものにはなり得なかったので、「作りモノ」としての感情が観る者に湧き上がることは否めないとしてもある程度は仕方のない方法と言える。また地上と地下を結ぶ者としては、前線に出ていたのにヒトラーの命令に背いたことで銃殺刑に処せられるために地下指令室に呼ばれる将校がいた。この人物は地上の生々しい戦闘状況を地下に持ち込む役目として重要な役割を演じていた。つまり、それだけベルリンの地下指令室は爆撃で振動はしても隔離された別世界で、この地下シーンだけでは戦争映画には思えないほどと言ってよい。
地下でどのように炊事をして、また排泄も行なわれていたのかといった生活上の興味に関してもよく描かれていたが、そうした点も普通のドキュメンタリー映画ではあり得ないリアル感をかもしていた。そのリアル感の中でもちょっとやり過ぎと思えたのはゲッベルス婦人が6人のかわいい子どもたちを睡眠薬で眠らせた後、ひとりずつ順に毒薬カプセルを無理やり噛み砕かせて殺すシーンだ。ゲッベルスの子どもたちが薬殺されたのは事実で、ヒトラー関連のことに多少なりとも興味のある人は大抵知っていることだが、そのことがここまで細かく描写されていることには驚いた。普通ならばひとりかふたりの子どもに毒薬カプセルを噛ませる場面で全体を代用すると思うが、そこはやはり徹底したドイツ人気質のなせるわざか、ご丁寧に6人全部に順に同じ行為をしていた婦人の演技には正直ぞっとさせるものがあった。この6回の繰り返し行為がなぜ必要なのかを少し考えると、この映画では一切描かれなかったナチによるユダヤ人虐殺行為の暗示かもしれないということだ。ユダヤ人が600万人も殺されたことと、たかだか自分の子を6人殺すことと一緒にするなと言われそうだが、冷静に整然と行為を果たす婦人の姿は、徹底してユダヤ人虐殺を実行したヒムラー長官の内面とだぶるものがあるのではないだろうか。つまり、ヒトラーの下にいた長官クラスの人物はみな同じように冷徹に義務を遂行したのだという事実を感じ取らせるためには、ゲッベルス婦人による子ども殺しのシーンがくど過ぎる必要がある。ユダヤ人虐殺を描写しない点で、この映画がイスラエルからはヒトラーらを美化していると評されているが、ユダヤ人虐殺はまた別の映画という形にしなければ、この映画はここまで完成度は高くならなかった。映画の完成度よりももっと大切な人道主義があるという意見もあろうが、この映画がそもそもヒトラーの秘書が書いた本に沿ったものであることを考えると、ユダヤ人虐殺問題は織り込みようがほとんどないと言える。ただし、映画の最後で秘書であった実在の人物であるトラドゥル・ユングのインタヴューが少し流れ、彼女が当時全くユダヤ人虐殺問題は知らなかったと語り、それでも知らなかったでは済まされないと続けていることで、少なくともユダヤ人問題には橋わたしをしている。
もう5年以上経ったと思うが、NHKがドイツが作った『ヒトラーの部下たち』とかいうタイトルの5、6本のドキュメンタリー番組を放送したことがある。全部録画して2度ほど観たが、その後続編があって新たに3人ほど紹介された。確かその3人の中には今日の映画にも登場したシュペーアが採り上げられていた。彼はヒトラーの希望であるベルリンを理想的な大都市にする計画を模型や設計図などを作って側面から支持した人物だが、建築家らしく、映画でも真面目な雰囲気のそっくりさんが演じていた。映画の中ではそのヒトラーの野望である都市ゲルマニアの大きな模型が映し出され、それはちょっとした見物であったが、いつまたそうした野望を成就させようと思う政治家が登場するかわからないという不気味な気にさせた。模型にしろ一旦作られた理想都市はそれだけでひとつの夢として永遠に人々の心には宿るからだ。ある政治家がヒトラーのように建築マニアで、そして自分の夢をかなえるためにとんでもないことをしでかし、それに呼応する側近や建築家がいれば、ヒトラーの夢が実現する時が来ないとも限らない。この映画ではゲッベルスもヒトラーも、結局自分たちを選んだのは国民であるので、その国民たちがどうなろうとそれは自業自得であって知ったことではないという無責任もはなはだしいことを語っていたが、この発言は捉え方によっては先のイスラエルの人々の感情のように、ヒトラーは悪くないという論理に発展しかねない。同じような問題は戦後の日本でもあるように思う。日本のTVでは今やどうどうとかつての戦争は日本は悪くはなく、またこれからも戦争をすればよいと言い放つ政治家がいるが、そうした人物を国政に送り込んでいるのは国民であり、戦争が起こるとしてもそれは回り回って国民が望んだからとする見方は正しい。この映画でも描かれていたように、ヒトラーの側近たちはみな自分勝手で、当時のナチの醜悪さを代表しているように見える。実際これら側近たちをひとりひとり詳細に描いた前述のドキュメンタリー番組では、実写映像であり、さらにこの映画で観る何十倍もの長さで各側近のさまざまな姿が映し出されるため、彼らのもっと真実の様子がわかる。それは到底この映画で描かれる比ではない醜悪な姿を伝える。これは観ていただくほかは伝えようがないが、フィルムは白黒でしかも鮮明さにはかなり欠けてはいても、紛れもない毒気が観る者に伝わる。そこで改めて思うのが、ドキュメンタリー映像がたくさん伝わる現在、こうした映画を作ることの困難さだ。リアルさの点では評価を高くつけたいが、醜悪さの表現においては忠実とは言えないのだ。だが、絵空事を軽く越えた世紀の最も醜悪な連中をそもそも作り事の映画でリアルに再現することなど最初から不可能と言ってよい。