机に椅子がつきものかと言えばそうではない。筆者の机は、畳1枚の広さがある厚さ2.5センチほどのベニヤ板だ。これを書いているパソコンはその上に置いている。
すぐ左手が床から天井近くまでのガラス窓と言うか、2枚の扉があって、ベランダにつながっている。机はそのガラス扉にほとんどくっつけているので、夏は南の太陽でとんでもない暑さになる。たぶんベランダは40度を越えているだろう。それに隣接する筆者が座る場所もそれとどっこいどっこいだが、クーラーを取りつけていない。今年もまたその暑い夏がやって来るが、今のところ夜は涼しく、昨夜少し風邪を引いたようで、くしゃみと水洟が止まらない。それはいいとして、このベニヤ机で手紙を書いたり、以前は切り絵をしたり、またキモノの下絵を描いたりなどして、ほとんど終日同じ場所に座っている。そう、筆者の机には椅子がない。椅子に座って仕事するのが本当は体にはいいのかもしれないが、今の形に慣れてしまった。このベニヤ板は手作りの木製の脚ふたつで両端で支えている。ベニヤ板とその脚とは釘などで打ちつけず、載せているだけだ。脚は昔筆者がとある染色工房に入った時、主宰者から命じられて自分で作った。その工房は半年ほどして筆者が主宰者になる羽目になったが、その話はやめておいて、その工房が閉鎖になる時、外注で使っていた職人に頼んでそのベニヤ机と、筆者手作りの脚ふたつを現在の場所に運んでもらった。どうせゴミとして処分されるものであった。ともかく、この机はもう30年ほど使っている。板は床から28センチの高さだ。これを3、4センチ越えると肩が凝ったりして仕事にならない。とても厳密な高さなのだ。これはもちろん脚の高さによって決まるが、その高さを決めたのが以前の主宰者であった。筆者以前に何人かが工房に入っていて、誰もが初日にその脚を作らされたようだ。その手際で器用さを確認していたのだろう。この主宰者の思い出はなかなか強烈で、書くべき内容はとてもたくさんあるが、今はどうしておられるかと思う。生きていれば80代だ。名古屋の江戸時代から続く医者の家柄で、文人画家に憧れている人であった。当時筆者はそのことに関心がなかったが、少しずつその人の気分がわかるようになって来た。ま、この話も今日はやめておこう。筆者が3階に置いている机はこのほかに友禅の彩色用のものと、同じ大きさの図案を写すために使うガラスが全面にはめ込むことの出来るものがある。昔はこれらふたつの机は使用しない時は押し入れなどにしまっておいたが、いちいち取り出すのが面倒で今は出しっぱなしにし、その上に本を積んだりしている。数年前まではそういうことはなかったが、とにかく階段からトイレまで、本のない部屋がない。足の踏み場もないという言葉そのままで、お客さんを呼びたくても恥ずかしくそれが出来ない。この本を全部本棚に分類して収めて、いつでも即座に取り出せる態勢にしたいが、もう使わないものが大半であろうし、また自分の寿命を考えると、お金を出して本棚を誂えるまでもないという気がする。それに隣家を去年買ったはいいが、まだ内部はほぼそのまま荒れた状態で、さらにそこにも本を移動して床に積んでいる始末だ。本の整理どころか、かえって本が隣家にまで散らかってしまった。そして先日、ある本をどうしても確認する必要が生じたが、どこを探しても出て来ない。こういうことがよくある。本の量を自慢しているのではない。量はさほどではないのだ。ただ筆者が整理下手で、すぐに散らかってしまうと言いたいのだが、整理下手というのもあまり当たっていない気がする。むしろ整理は人の数倍は得意と思っている。では何が原因かとなると、興味を抱いていることが多く、本以外にも場所を占めるモノがあり過ぎるのだ。それらを全部しかるべき場所に置く、あるいは飾るために隣家を買ったが、おそらくそれでも足りないだろう。それほどにモノが箱に入ったまま部屋のあちこちに積んである。まるで倉庫のようなので、家内が事あるごとにどうにかしてくれともう何年も言い続けているが、毎日のように増える始末で、逐一記憶してはいるが、それも怪しく、時々古い箱を開けて、こんなものがあったのかと驚くことがある。
さて、以上まで書いて今日はどのカテゴリーに投稿しようかと思いながら、やはり昨日みんぱくで見て来た『ウメサオタダオ展』について書くことにしよう。この展覧会、巨大地震の前日に始まり、またそれ以前に招待券を入手していながら、ようやく昨日小雨の中、家内と出かけた。梅棹忠夫が国立民族学博物館の初代館長であることは、みんぱくが出来た当時から知っているが、膨大な著作があるにもかかわらず、まともに読んだことがない。三条寺町に平安画廊があった頃、中島さんは梅棹の話題を何度かしたことがあった。きっとファンだったのだろう。中島さんは海外旅行をよくしたし、その点で梅棹の世界を股にかけたフィールド・ワークに関する著作に関心があったのだと思う。また、何と言っても梅棹が京都生まれであったことも大きな理由ではなかったろうか。千本中立売の生まれで、これは西陣の職人が大勢住む地域で、筆者の叔父も長年そこに住んでいたことがある。だが、梅棹の実家は西陣織とは関係がなかったようだ。梅棹という苗字は珍しいが、今回の展覧会で説明されていて、現在の長浜市の出身だ。近江の人が京都に出て商売をすることは、若冲以前の時代からごくあたりまえにあったので、この話は驚かないどころかなるほどと納得させられる。また、梅棹が権威を嫌い、独特の学問で生涯半ばで万博に出会い、またそれをきっかけに民族学博物館の設立まで実現出来たのは、日本の戦後から高度成長という、歴史的にもめったにないいい機会に遭遇出来た幸運があるが、もちろん梅棹の稀に見る行動力と、何でも徹底して記録するという、研究家にとっての資質を並み外れて持っていたからだ。そして、関西が梅棹のような人物を輩出するのは、200年前の大阪の木村蒹葭堂と同じで、上方が現在もなお、東京、関東とは違って、学問や人材で特筆すべき逸材を生む土壌を持っていることを証明するし、今回の展覧会は去年亡くなった梅棹を顕彰し、またこれからさらなる幅広い世代に対する認知と評価を促すもので、じわじわと影響が広がって行くだろう。梅棹は90で死んだが、失明したのは65歳で、それ以降は口述筆記して奥さんが原稿を書いた。失明するほど学問に勤しんだのだろう。これは上田秋成も同じで、学者たるもの、それくらいに文字を書いたり読んだりしなければ一流にはなれない。梅棹の全集は22巻あり、また単行本も多。筆者は対談などでその考えを何度か触れたことがあるが、梅棹の著作にさほど関心がなかったのは、その学問の領域がよくわからないことにもよる。民族学かと言えばそう割り切れるものでもなく、WIKIPEDIAによると、「文化人類学のパイオニアで梅棹文明学とも称されるユニークな文明論を展開した」とある。梅棹の探検の最初は今は北朝鮮にあって踏み込めない白頭山を登ったことだ。その時の朝鮮人の老人の写生が展示されていたが、そのまま絵の勉強をすれば画家にもなれたような腕前で、そこにも蒹葭堂と似た資質を思う。旅行がなかなか困難であった時代、現地で記録した地図などを日本に持ち帰ることが許可されない恐れがたぶんにあり、検閲で引っかからないように記録したものの表紙に動物の絵を描いたりして偽装するなど、今では考えにくい苦労をいろいろとしたようで、そのように現地で自分が入手して来た資料を研究の根本に置いているため、研究には説得力が出るし、また独創的なものにした。梅棹は、他人の論文の権威によりすがることで自分の考えの脆弱性を糊塗する論文を嫌ったというが、そこには権利を嫌い、独創性を重視した態度、また京都の学者らしさが現われている。世界各地を見ることに熱心で、最初は日本にあまり興味がなかったのが、やがて日本文化に関心が芽生えるが、これは京都生まれからしても当然であった。
今回の展示は、中央に梅棹が使った机と椅子があった。最初に筆者の机について書いたのはその記憶がまだ生々しいからだ。梅棹のその椅子には誰でも座っていいので、筆者も座り、背後から家内に写真を撮ってもらった。それを今日は掲げるが、机の上には中央に梅棹特注の200字詰め縦書き用の原稿用紙があって、万年筆は硯や筆、献本用の名刺の束、それにその名刺や本に捺印する大きな落款用にハンコや朱肉が周囲を取り巻いていた。印章は朱肉がつけらて、今すぐにどこかに捺印出来る状態の生々しさであったが、本の扉に直接サインとそれを捺す場合と、「献呈」と印刷された名刺サイズの紙に捺印される場合があって、いかに著作が多く、またたくさんの人に献呈していたかがわかる。その机の椅子は深深としてとても座り心地がよく、筆者ならすぐに眠ってしまいそうで、やはり今こうして書いているベニヤ机が似合っている。それはともかく、建物の1階は、その机から周囲をぐるりと見わたす形で、梅棹の初期から晩年までの、主に海外での探検や日本での登山などのフィールド・ワークの仕事が紹介されていた。2階は年譜順に各時代を象徴する言葉や写真を掲げ、そして全集を読めるコーナー、さらには記録に用いたカメラや、趣味としてやった大工仕事のための道具などを展示し、個人的な生活を示す内容に絞られていた。梅棹は若い頃から探検家になりたかったようで、マナスルの登頂を目指したり、また南極に行きたかったが、病気やその他の理由で、実現しなかった。そのため自分を挫折者と思っていたが、南極以外の世界の大陸は研究で踏破したし、南極の昭和基地から送ってもらった手紙には昭和基地郵便局にしかない風景印があって、そういうものまで梅棹は集めた。切手収集が趣味で、みんぱくが出来てからは、世界各地に調査に行く研究員に、梅棹は自分宛ての封筒を手わたし、必ず現地の切手を買って貼って出してもらうことを命じた。そのようにして居ながらにして世界中の切手を収集しもしたが、ますます木村蒹葭堂に近いと言える。また、政治には関心がなく、距離を置いていたが、その点も蒹葭堂に似る。だが、本人が意識していたのはレオナルド・ダ・ヴィンチらしい。そこには梅棹が最初海外に憧れたことを示しそうだ。梅棹が日本に取り組むのは、戦争中や戦争直後、海外に研究で出ることが不可能であった時代だ。ともかく、目につくものは手当たり次第にメモを取り、また可能ならば現物を持ち帰る態度が、みんぱくの資料収集の原点になった。メモの量の膨大さやそこに見られる細かい写生、また音はテープ・レコーダーがない時代は音符に書いて記録するなど、今ならデジカメやビデオに頼ってしまうところを、自分の目と耳と手足でこなし、そのことがかえって研究に深みをもたらせたと思える。また、ノートへの記録とは別に、カードに書いて物事を整理する癖を身につけ、それは60年代の終わりに『知的生産の技術』と題する本でも紹介されて、一躍有名になる。このカードは筆者の世代なら誰でも知っているが、京大式カードと呼ばれて市販されていた。今もあるのかどうか知らないが、筆者が最初に入社した大阪の建設コンサルタンツ会社では、上司がこのカードを気に入って使用を始めたのを目の当たりにした。筆者はそれを見習わなかったが、ここ10年ほどは同じような小さな紙片を持ち歩き、図書館で書き写したりしてそれが何百枚もあったりするので、結局は同じことをしていると言える。だが、梅棹のカード式の整理は、1枚のカードにたくさん書き込む場合もあればそうでない場合もあって、カードは頻繁に順序を入れ換えることで思考を整理するためのもので、カードにただ順にメモるというのとは違う。メモはメモした段階で安心してしまい、もうそれを読み返すことがない場合が多い。梅棹のカードはそういうメモではなく、その後の思考を深めるためのもので、創造性を前提にしている。筆者はそういう意味でのカードやメモの使い方をしていないが、これは人さまざまで、またさまざまであるからこそ、多様な研究もあるのではないか。
梅棹はエスペラント語にも関心があったが、それは学問を世界の人々に示すことを考えた場合、必然的に生ずる考えだ。梅棹は外国でフィールド・ワークした時、人の語りを書き留めることがあって、その時に音声をそのまま文字にする必要もあって、独特の文体を生み出すようになる。これは漢字を使わずにローマ字で書いた方が早いとの考えにつながり、カードもローマ字で書くようになった。これは慣れない者からすれば非常に読みにくいが、ローマ字であれば意味はわからずとも、世界中の人が同じ発音で読むことが出来る。また、筆者がこうして書いている文章はローマで打ったものを平仮名と漢字に変換しているが、やっていることの前半部分は梅棹のローマ字記述と同じだ。ただ、ローマ字では後で読むのが面倒で、漢字が混じっていると、全体をぱっと見ただけで内容がわかる部分が大きく、本の速読技術は漢字のそういう面を利用してのことだろう。だが、梅棹は日本語の将来を考えると、漢字が足かせになると考えていたようだ。この態度はハングルと同じだ。ハングルは、今はまた漢字を多少導入しているが、20年かそこら前は、漢字を学校でほとんど教えず、文章はハングルのみであった。これは日本語のローマ字表記と同じで、字面が音が一致し、その点できわめて合理的で、書き手と読み手との間に断絶めいたことが生じない。漢字も中国で使われる場合はそうなのだが、日本では訓読みする場合があるから、それがややこしく、またよけいな労力を費やさねば覚えられないという面倒が生じている。そういう不合理を梅棹は排除したかったのだろう。だが、それは先のカード式整理法と同じで、全面的に賛同する人もあればそうでない人もあって、実際ローマ字表記は一般化していないが、ワープロにローマ字入力として残っていることは、今後またそれを提唱する人物が出ないとも限らない。ワープロの話になったが、梅棹の指導で1970年に日本語の縦書きの仮名文字ワープロが製品化されかかり、試作器のみで終わった。こうした先駆的な着眼は、後のワープロやパソコンの登場をどう見ていたかと思うが、もちろんそれは視野に入っていたはず、梅棹の予言どおりに時代が動いて来たところがある。カードへの整理は、それをいつでも取り出して並べ換えられることを思っていたからで、そうした情報の整理への強い思いは、パソコンが登場して大幅に進歩そて誰もがその便利さを享受出来るようになったが、インターネット時代になって情報が氾濫したのはいいが、そこから自分が必要とするものを選び、新しい物事の見方がどう育まれるかは、取捨選択の目と、一方、未知への関心、またどう自分の考えをまとめるかという、研究の論点を見定める能力、さらには文章力も欠かせない。誰でも知的になれる、また学者になれる時代は確かに梅棹の言うように到来したが、パソコンやインターネットがない時代でも、知的なことに関心を抱いて何か面白いことをやってやろうとする人はある一定の割合いたはずで、そうした研究のための道具が今は増えた分、その一定の割合が増えたのかどうか、これはもう少し年月が経ってみないことにはわからないだろう。また、会場の最後近い場所では、雑誌や新聞で紹介された今回の展覧会の寸評のコピーがたくさん貼られ、その中に、梅棹のような巨人はもう21世紀の日本には出現しないだろうが、その代わりに100人の小粒な梅棹がいればいいではないかという意見があった。それは学問を、学者と呼ばれるごく一部の人のものだけにしてはならないと言う思いから『知的生産の技術』を書いた梅棹にとっては正しい意見だろう。だがそれは、梅棹のような型に収まらない学者をもはや輩出出来なくなった日本を証明するようでもあって、悲観論とは裏腹である気にさせられる。そして、その悲観論は、人類の遠い将来について考えていた梅棹が未完のままに残しながら、思いとしては人類が滅亡する方に傾いていたことの反響でもあるように思える。その終末へ不可避的に向かう世界、あるいは日本と狭めて言えば、3月11日の巨大地震とその後の収束が見えない原発事故を思わざるを得ない。この展覧会に関連して明日もう1日書きたいと思っている。