鬼が学女子学生を膝に載せて小刀で腹を切っているイラストがジョン・レノンとヨーコ・オノの1972年のアルバム『サム・タイム・イン・ニューヨーク』の表ジャケット中央に印刷されている。
「女は世界の奴隷か」の歌詞の間にあるので、ちょうどこの曲にふさわしいと思われたのだろう。ところが、このイラストの描き手の名前がアルバムのどこにも記されていない。筆者は日本盤を買ったが、アメリカやイギリス盤ではどうなっているのだろう。イラストはこのアルバムではこれが唯一で、ほかはみんな写真であるから、かなり目立つ。当時欧米でも話題になったのではないだろうか。また、ジョンとヨーコがこのイラストを転載するに当たってイラストレーターから許可を得たのかどうか、それが気になる。だが、当時は今ほど著作権に関してうるさくなかったのかもしれない。このイラストをジョンとヨーコがどのようにして知ったか。数年前に筆者は同じ1972年の、1月31日号の『平凡パンチ』を手に入れた。その表紙がこのイラストの女子学生の顔のアップになっている。特集『佐伯俊男 血塗りのポルノ・グラフィー』と題する号で、当時の価格100円だ。筆者はこの週刊誌を読んでいなかったが、ジョンとヨーコはおそらく何かの形でこの週刊誌を見たか、あるいは、同号が特集する佐伯俊男の作品集を入手したに違いない。情報に敏感であったはずのふたりであるから、それは当然のことだろう。たぶんヨーコが知り、イラストをジャケットに使おうと提案した。そして、若い女が男の鬼から陵辱を受けている図が、女は世界の奴隷だという思いにつながると考えたのだとすれば、そこにヨーコの古い世代としてはごくまともな倫理感があらわになっている気がする。つまり、ヨーコは否定的にこのイラストを見て、女はいつの時代、どの国でも辱められていると思ったという想像だが、そう考える筆者が、古い世代特有の倫理感に縛られているのかもしれない。ともかく、このイラストは、女子学生が乳首をはだけているだけでも古い世代からすれば、「けしからん、とんでもない」と言うべきものだが、下半身は克明に描かれないものの、鬼の巨根が女子学生の陰部にはまっていることは誰でも想像出来るし、そこに露骨過ぎないことでかえって卑猥なポルノの面目があり、そういう見せ方はまず欧米にはないもので、このイラストに感心した人は多かったのではあるまいか。だが、鬼が女子の腹を切り裂き、血しぶきを飛ばせているのは、ポルノにヴァイオレンスがまさり、卑猥さよりも痛みや恐怖が強い。まじまじと見つめさせながら、言葉が出ない気にさせられる。ともかく、こういうイラストを生み出す才能が日本にあるということを、ジョンとヨーコのこのアルバムは大きく宣伝に寄与したであろう。

このイラストをどう見るかは個人に委ねられているから、女は男によって辱められ続けて来た奴隷という見方も間違いとは言えない。また、佐伯がそのように思って描いたか、逆に若い女性を同じようにして辱めたいと思っただが、そこは見る人の勝手で自分は確固とした思想があって描いたのではない答えるだろう。男としての妄想、本能にしたがい、またそこに絵を作るという創造的意識が重なり、自分でも意外なものが生まれたというのが実情と思える。筆者は佐伯の画集を4、5冊持っているが、それらを見て性的に興奮することはない。江戸時代の春画の歴史を遠くに見通しながら、それとも全く違う幻想的な世界を作り上げ、実にうまいなと思い、色合いも含めてその完成度の高さに舌を巻く。佐伯は筆者より6歳年長の1945年生まれで、しかも大阪出身だが、この大阪の生まれ育ちという点は、作品から何とはなしに伝わって来る。佐伯はひとりでペンで描き、印刷する際に綿密な色指定をする。それは江戸時代の版画の春画とは違って、かなり簡便な方法で、その分、うすっぺらい印象はあるが、現代は現代にふさわしい表現があるし、また佐伯の絵は江戸時代では生まれ得なかった。かといって現代的であることに徹しているというものでもない。佐伯の絵にはレトロなムードが色濃い。鬼に腹を切られる女子学生も、昭和初期、あるいは戦争直後のイメージがあって、今の若い世代が見ればなおのことそう感じるだろう。だが、それは佐伯があえてそう描いているのであって、性というものがもっと世間から隠されていた時代の、隠微な性を表現しようとしている。隠されているものをどうにか見つけて、乏しい情報の中で想像をふくらますというのが性のひそかな楽しみという時期が、男女ともに若い頃にはあると思うが、今はあまりに情報が氾濫し、また一方で道徳感や倫理感の崩壊もあって、女性が裸を晒すことに抵抗がなくなったのではないか。もちろんそういう女性はごく一部で、それは昔から同じほどの割合あったのだろうが、それでも昔に比べると女の裸の写真は価値が暴落した。先に書いた『平凡パンチ』の表紙を開くと、巻頭グラビアは若い女性のすっぽんぽんの裸写真が数ページ続く。だいたい健康的に撮っているが、大股を開きながら局部はぎりぎり手で押さえている写真もある。だが、昨今のポルノとは天地の開きがあり、今では陰毛は誰も驚かないどころか、その奥のものも半分以上は見えている。この40年ですっかり時代が変わったのだ。今ではネットで若い女性が自分で局部の中身を広げて見せる鮮明な動画が無料で見放題になっているし、そうなると妄想をかき立てるエロ・イラストを描く人たちが商売上がったりかといえば、それはそうではなく、全く反対だろう。女性が裸を街中に晒し、また犬のようにそこらの誰とでも性交するような動画がネットで見ることが出来るようになっても、男の妄想はそれだけで満たされることはない。想像を逞しくし、それを創造的な作品にしたいと考える。だが、それは簡単なことではない。その意味で佐伯俊男の作品は、時代遅れにはならない何かを持っている。

佐伯の画集をたいていの女性は気味が悪い変態と思うかもしれない。また、女がいつも陵辱されている絵ばかりかと言うと、そうではない。男にすれば女を自由に出来るのが理想だが、その反対に女からおもちゃにされるマゾヒスティックな男性もいるから、佐伯はそういう部分も見逃さずに画題にする。その意味では、男の側に立ったばかりとは言えず、性に関しては男女平等、お互いスケベエ大好きということを前提にしている。また、男からそういう見方をされること自体、女性にすれば「けしからん、とんでもない」という思いもなるかもしれないが、そういう女性は死ぬまで処女でいればいいし、男は相手にしない。そのため、子孫繁栄もなく、かえってそういう女性が不健康と見られても仕方がない。また、元来女性にはマゾヒスティックなところがあると言われるが、それはかなりの部分、あたりまえに思える。昨日も書いたが、性器は凹と凸のふたつで、凸が凹にはまることはネジを見ていてもわかるし、凹が受身になる、そしてそれゆえに、マゾに傾斜するのは当然に思える。だが、このことについてヨーコ・オノは反論を書いていた。ヨーコが思い浮かべる光景は、凸がじっとしていて、そこに凹が帽子のように空から降って来てあちこちの凸にすっぽり覆いかぶさるというものだ。これはボルトを左手に持ち、そこにいろいろとナットを変えてボルトにはめてみる光景を思えばいい。であるから、女がよりマゾ的であり得るというのは偏見になるが、長い歴史の影響を考えねばならない気がする。女性学がここ40年とすれば、その100倍、あるいは1000倍ほどの長い歴史の間、女は男から奴隷のように扱われて来たことになるし、その間に遺伝子的にマゾが組み込まれているのではないか。それもまた偏見で、そんな遺伝子はなく、誰でも生まれた瞬間は何もかもみんなまっさらで、育てられる過程でマゾになったりサドになったりするという意見が今は大勢を占めているだろう。また、マゾやサドも程度の差が大きく、どこを基準としてマゾやサドと言うかは難しい問題でもあろう。それに、最初はそれほでもなかったのに、どんどんエスカレートして、変態なセックスでないと感じないという人もままあるはずだが、その変態も、本人が勝手にそう思っているだけで、他人から見れば案外普通ということがあったりするので、セックスには基準がなく、お互いがよければいい。また、誰もやったことのないセックスを創造することは、ほとんど不可能でもあるだろう。アダルト・ビデオにはさまざまなジャンル、カテゴリーはキー・ワードで検索出来るようになっていたりするが、そのキー・ワードを見ると、いかに新しいセックスが不可能であるかがわかる。ま、現代は現代の新しいもの、たとえば車や新幹線や東京タワーといったものがあるから、そういう場所で露出したりセックスしたりすることで新鮮味を出す程度で、後は永遠に変わらないことをするだけだ。そこに早々に気づく人は創造性を重視する人で、また同性愛になりやすいのではないか。ロラン・バルトを見るとそう思う。

佐伯の絵に「血」の要素が多いのは、実写のポルノでは不可能なので、その点では永遠性がある。だが、そういう血を性を合わせた趣味は戦争中では肥大化するし、『愛の嵐』はそういうことを描いていた部分がある。またパゾリーニの『ソドムの市』も、若い女性が目玉をくり抜かれたりする光景を見ないことには勃起しない男が出て来たりした。それも血を見て、つまり他者の痛みを通じて性的に興奮する性格が人間にあることを示し、佐伯の絵が完全な絵空事ではないことをほのめかすが、先の鬼が女性学生の腹を切る絵を思い出しながら、筆者は何とも言えない気分になる。そういう趣味が筆者にはわからないからで、その点で筆者はセックスはごくノーマルなのだろう。話を戻すと、女はそのように男に刃物で切られることは絶対にいやであるから、男がそういう妄想を抱くことは女性蔑視につながって、犯罪のにおいも漂うが、実際に切ることにはならなくても、暴力を振るわれることがいつしか快感になってしまう女性もいるので、やはりセックスにおける男女の関係は、ふたりがよければどんなことでもOK、つまり秘め事としておくべきだろう。ちょっと前に事件だったが、ホテトル嬢を呼んだ男が、女にいきなりキスして口の中に舌を入れたところ、女は怒ってそれを噛み切ったというのがあった。男は慌てて病院に行って縫ってもらったが、いくら商売女でも思いを大切にしてやらなけれなそういう仕打ちに遭う。また、舌でよかったが、これがもっと大事なところであればどうであったか。女性が強くなっている時代であるから、それは起こらない事件ではないだろう。いきなり女の口に突っ込んだために、フランクフルトをかじるように食いちぎられたというニュースがそのうち伝わるかもしれない。数日前は、21歳の男が若い女性に自分の指をなめてほしいと言ったことで逮捕されていた。これはどんなアダルト・ビデオにもない変わった趣味で、指くらい自分でなめておけばいいものを、どこでそんな変なことを覚えたのか。ライナスのように毛布をしゃぶる癖がそのまま成長したのか、あるいは赤ん坊でも指しゃぶりはするから、まだその男は幼児性が抜けないのだろう。それを思うと哀れで、それを理解して指くらいしゃぶってやる女がいてもいいが、それを言えば、「自分でやぶっておけ」と反論されるし、実際そのとおりだ。自分でしゃぶれないものだけ女にしゃぶってもらうべきで、正しいセックスをしなければならない。で、この40年で女性の地位が上がり、自覚も芽生えたところと思えなくもないが、ケータイ代ほしさに簡単におじさんに体を売る女子高校生が出現したことは、女は自分の若い性が金になることをよく知っていて、自分の体をどう扱おうがそれは自分の勝手という、自立、独立の心があると主張するのだろう。だが、その理屈が通るほど年配の男がちょろい存在か、また世間が甘いか、それはその女性がもう少し年齢を重ねるとわかるだろう。つまり、やがて誰も相手にしなくなるということだが、それを高校生はよく知っているだけに、売れる間に売っておこうという思いでもあるようだ。十代の女が性を知り、体がうずいてどうしようもないというのは、自然の摂理であるから仕方のないところがあるが、昔から多数の男を交わる若い女がどういう末路をたどるかはだいたい目に見えていて、それを『サン・ミケーレ物語』でアクセル・ムンテが書いていた。女の悲しい末路をいやというほど見て来たためにムンテは独身を通したのかもしれない。その悲しい末路は、やはり女性が世界の奴隷になりやすいことを示している。自分の体は自分のものだから、高値で売るのも勝手と女子高校生が思っているのだとすれば、それはまだまだ女が世界の奴隷であると言えるだろうし、また永遠にそれは変わらない気もする。女は奴隷のようでいて、結局男をうまく操っている部分もある。