故人となっているザッパの未発表の音源が毎年発売され、それをあたりまえのように聴いているが、ザッパはこの世にいなく、また演奏を聴けばそこにザッパがいることの不思議を思う。

そして、改めてそのことを考えてみれば、こうして書いて過ごしている一刻一刻も同じように後で振り返れば、それなりに感慨深いものであるのだろう。今日は『PENGUIN IN BONDAGE』の解説の後半「The Little Known History of The Mothers of Invention」について書くが、昨日投稿した後に後半の紫色の文章をざっと斜め読みすると見ると、若冲のことに言及し、それがもう8年も前であることに気づいた。成長期の子どもにとって8年は大きいが、中年以降はあまり自分自身には変化がなく、平凡なままに時が流れて行くことを感ずるが、ザッパはその点どうであったかと思いを馳せれば、やはり同じことがあったのではなかったろうか。マザーズを結成したのが1964年の母の日で、ちょうどその10年後に録音したのが今回のダウンロード新譜だ。その後半の「The Little Known History ……」ではザッパは観客が退屈を感じるかもしれないことを気にしながら、あえて自分たちのバンドの歴史を面白く語っている。それは全くその場の思いつきの即興では決してなく、大半は予め文章にして練ったものだろう。それは昨日書いたように、ピートと呼んだ若い娘によがり声を発しさせてそれを録音したのと同じで、ザッパが録音する場合、必ずシナリオがあったと考えた方がよい。録音(Record)すなわち記録であって、そのままの形で長く伝わるからだ。吟味に吟味を重ねるべきで、そうしておいたうえで、なおかつ即興ならではの持ち味を加味し、それを重視する。これは芸を見せる人物であれば誰しものことで、ザッパが例外ではない。と、こう書いて自分のこの文章の芸のなさに思い至るが、毎日文章をこうして垂れ流ししていると、それもまた何かの役に立っているのは事実であろうし、そうでも考えねばこうした恥のかき捨ては出来ない。ま、それはおいて、話を戻す。ザッパがバンド・デビュー10周年を記念してツアーでたくさん喋ったのは、それだけデビュー当時は面白い出来事が多かったという実感があってのことだ。アルバム『ROXY & ELSEWHERE』に収録される曲は発売当時の書き下ろしの新曲が大半であったが、その内容は語りで触れられる過去に因んだものが目立つ。つまり、作曲のアイデアさえもデビュー当時かそれ以前の出来事や生活から引っ張って来ている。そしてザッパのその態度は最晩年まで変わらず、人生の濃かった時期はほとんど20代前半で終わっていたと自覚していたようなところがあった。これは、先に書いたように、若い年代ほど数年という期間は濃密で、中年以降は感激も減少するのか、数年はとても短く感じることによる。そう考えると、少しでも若いうちにさまざまな人と出会っておくべきで、仮にそれがいやな経験であっても後々役立つ。今回の新譜を聴きながら、そういうことを感じ、ザッパの曲は何歳になってもそれなりに響いて来るものがある。こうした筆者の思いは、アルバムの解説では書くスペースがなく、文章量の制限のない個人的なこうしたブログであるからこそで、また筆者にしか書けないこともあるはずだ。どこでどう演奏したかといったデータ的なことはネットで簡単に見つけられるし、筆者が書きたいのは、自分の生活に照らして何を考えさせくれるか、どういう意味を持っているかだ。音楽に限らず、作品にはそのように接しながら楽しんでいる。
マザーズというバンド名は母の日に誕生したことに因むが、最初はMUTHERSと綴った。これはザッパが住んだ地域ではMOTHERFUCKERの略で、これは侮蔑語でも最たるものだ。そういうバンド名をつけるところにザッパの社会を斜めに見る態度がありそうだが、当然この名前ではレコードを出せるはずもなく、それでMOTHERSに変え、それでもMUTHERSを連想させかねないので、必要は発明の母とばかりに頭をひねって「OF INVENTION」を加えたが、数年後には縮めてMORTHERSと記す場合が多くなった。社会を斜めに見ると書いたが、それは今でもロック音楽ではごく当然の姿勢で、また60年代の若者には反体制こそが基本という意識があった。それがなくなる頃にはロックは大手レコード会社の操り道具と化し、ミュージシャンは金儲けと女に不自由しないことを夢見る存在とみなされるようになった。そういう道を敷いたのがザッパらの草創期のロック・ミュージシャンだが、ザッパにはその自負が常にあり、そのために新しく登場するバンドを、自分がやって来たことや態度と比較する癖があった。簡単に言えば何を目的に活動しているかだ。音楽をやりたいのは当然のこととして、金儲けに関してはどうかという思いだ。「The Little Known History ……」の最後あたりで語られるように、ザッパは数字の記憶が得意であったようで、特にどれだけの金が自分に支払われたかには敏感であった。そういう経済観念のしっかりしているところがなければバンドのリーダーになれるはずがない。創作と統率と管理の三つを同じほどにこなす能力のある者だけが、激しい音楽ビジネスの世界を生き抜き、歴史に名を留める。そしてザッパは若手ミュージシャンを見る時、その三つがどうであるかを認知のための条件と思っていたであろう。その認知に当てはまらない、統率・管理される才能は、自分がバンドのメンバーとして雇い、マザーズはザッパの独裁体制が敷かれることになった。才能があるほどに飢えるというのは、どの表現世界でも同じで、ザッパはそこをどう切り抜けるかが、マザーズのデビュー前に録音機器をポール・バフから譲り受けた時からの大きな課題であった。その課題を予想以上に短期間でクリア出来たのは、マネージャーやプロデューサーとの出会いで、そこ陰には女もいて、後の音楽の大きな素材を提供したことを昨日書いた。女はほとんど表に出ない存在なのでいいとして、問題は直接音楽の売れ行きに関わる人物との出会いだ。ビートルズのマネージャーのブライアン・エプスタインのように、ザッパには同じユダヤ人のハーブ・コーエンという、昨年亡くなった人物に見初められる幸運があった。マザーズの売り込みはこの人物にかかっていた。それをザッパは独特のユーモアで「The Little Known History……」で語っているが、ハーブは音楽にはさして関心がなかったのに、人に売り込むことにかけては天才的で、ザッパの演奏する姿に接した時、閃くものがあった。つまり根っからの商売人で、それでこそよきマネージャーと言える。これがなまじっかザッパの曲に理解があり過ぎると、文句やアドヴァイスのひとつも言いたくなり、そこですぐにザッパとは大喧嘩に発展したはずだ。売り込み手は、とにかく表現者を信じ、その名前を広めることだけに専念すればよい。そういう存在があるからこそ表現者は創作に専念出来る。マネージャーとの二人三脚の態勢がないことには、まず世に大きく出る存在にはなりようがない。だが、74年のこの録音の段階では語っていないが、ザッパはまもなくハーブとは別れ、しかもそのハーブのやり方を皮肉って作品化するほどになる。ザッパは恩人であっても、許せない部分を見ると徹底して嫌ったようだ。そういう明確な態度があればこそ、作品も独特で完成度に厳しいものになる。
ここで「The Little Known History ……」を訳してもいいが、英文が
ここに載っている。しかもさほど難しくない文章なので、ざっと読んでもらうのがよい。また、文章を読めより、語りを実際に聴く方がわかりやすいところがあって、何度か聴くとそのリズムに慣れ、また内容の大半も理解出来る。筆者はザッパがポール・バフの格好について語る下りで「ペガー」と発音され、それがどういう黒い着衣かが理解出来ず、頭をひねったが、上記のURLを見るとPeggersとある。これを見ても正確には何かわからないが、釘打ち職人が着る作業着なのだろう。このように聞き取りが完全でも全部理解出来るとは限らず、やはり書かれたものが欠かせない。ネット時代になってその点、即座にサイトに載せる人がいて助かる。「The Little Known History ……」は随所にユーモアがあって、人物の姿が的確に描かれる。パール・バフはまだ生きているが、ザッパに録音についてのノウハウを伝授した人物として、ザッパに影響を与えた最大の人物としていいだろう。10代の女の子が使うような家具に5チャンネルの録音機器を装備していたのは、手づくりの感覚と時代性を伝え、またポールの身なりとあいまって印象深い。その身なりは赤い靴下に黒のペガー、白靴に麦藁帽子で、これは当時ロサンゼルス近郊の小都市では格好よかったという。この色をよく記憶しているのはザッパの画家としての才能を示すものとも言える。それと同じこととして、ハーブに最初に会った時、ハーブは緑色のナイロン製のシャツを着ていたとザッパは語る。次に言及されるのがMGMのレコード・プロデューサーのトム・ウィルソンだ。おそらく女を求める意図でクラブに入って来て、そこでマザーズの演奏に接し、これまた閃きがあって契約を交わし、気前よく25000ドルの前金をくれる。だが小切手であったため、金がなかったザッパらは、デビュー・アルバムの録音時には死にそうなほど空腹を抱え、スタジオにいる会社の人物にわずかな金をもらってハンバーガーをぱくつき、また録音に戻ったことなどを面白く語る。そしてMGMはとにかく金にはシヴィアで、売れないと見るとさっさと切り、売れると踏むと次のアルバムを格安で録音させようとしたが、これは74年にはMGMとは切れていたから言えることでもあった。だが、代わって契約したワーナーも似たりよったりで、音楽が売れる売れないはラジオでかかるかどうかの宣伝にもかかっていて、ザッパはそこが配給元の大手レコード会社にえらく不満であり続けた。それがデビューから10年を経て、自分の音楽をどのようにでも演奏出来る自信がつき、駆け出しの頃を懐かしむ余裕も出ていたと感慨が、アルバム『ROXY……』には溢れている。「The Little Known History ……」で語られる内容は、当時はまだあまり知られていなかったのだろう。その後ザッパは『自伝』を書き、またインタヴューも豊富にあるので、もう古い情報になっているが、それでも独特の間やユーモアがあって、その意味では曲として楽しむことが出来るし、ザッパもそれをもくろんだはずだ。ザッパは饒舌で、会話を録音することは60年代末期から70年代初頭にかけて頻繁に行なった。その延長上にこの語りの曲はある。「語りの曲」と書いているが、今はMCと表現するのだろう。筆者にはそれが何の略かはわからない。ま、今回の新譜は『ROXY……』とセットに聴くべきで、そうした後では『ROXY……』が多くのテイクの中から選んで切りつなぎしたものであることが改めてわかる。ザッパの記念日としては、春の母の日と、うまい具合にそれからおよそ半年後のハロウィーンがある。もう数か月すると、また新譜が出るだろう。それがまたダウンロードのみであればさらにアメリカの大西さんの手を煩わせることになる。大西さんとの付き合いはもう10年経つが、適宜ザッパ情報をメールしてもらい、それを順次このブログの「ザッパ関連ニュース」のカテゴリーに載せているので、ザッパ・ファンにはちょっとは知られた歴史になってほしいと思う。
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●2003年4月8日(火)夕方 その2
ここで思い出したが、昨日の夕刊に、アンドレ・ブルトンの書斎の所蔵品の大部分が競売にかけられるという記事があった。それはシュルレアリストの記念碑的な城のような様相を呈している空間で、ブルトンの集めた絵や博物学的なあらゆるオブジェなどの散逸を危惧する意見もあるが、遺産相続の問題などで遺族としては競売を決断せざるを得なかった。その珍奇なモノでびっしりと埋まったものものしい部屋は、何もフランスだけに存在し得る特有のものではない。いつの時代でも珍しいモノで部屋を埋めたくなる人間はいる。それらはコレクターの脳の中で整理され、そしてコレクターの心を遠くまで自在に運ぶ。散る桜の花の保存がかなわなくとも、それを克明に観察して描いた絵ならばいくらでも花を楽しめるし、またドクロを身近に置けば満開の桜への連想も働く。モノ集めをするのは、現実以上にその向こうにあるものを見るためだ。シュルレアリスト同様に見たことのない珍しいモノを可能な限り見て描きたいという若冲の欲求は、当時の彼だけのものではなかったが、京都のしかも八百屋という家業にあって、自然のヴァラエティ富む造形から出発して、その他あらゆる形あるものの妙といったものに魅せられて行くのはごく自然なことであったろう。大典和尚は大阪の酒造業者の木村蒹葭堂とは仲がよく、若冲を伴っての大阪への旅もこの蒹葭堂と会うためだとされている。蒹葭堂は今年が没後200年で、若冲と同時代を生きた。博物学的興味が旺盛で、それに関連した珍しい書籍や事物を収集していたことは、富裕な商人ならではの資力を活用しての趣味と言えばそれまでだが、人柄がよかったのか、また本人も六曲一双に描くほどに絵もうまく、文化人とのつながりは広かった。この蒹葭堂を紹介する展覧会が今年1月下旬から1か月、大阪の歴史博物館で開催された。その期間中、来客があって同館にも連れて行ったが、残念ながら常設展示しか見る時間がなかった。同展のポスターは笑顔の蒹葭堂で、その原画は江戸にいた谷文晁が蒹葭堂の死を聞いて弔いのために描いたものだ。文晁の実力が並み外れていたことをよく示す絵となっている。その絵における蒹葭堂の顔だけからも、堂々とした大きな人柄が伝わる。昨日図書館で明治から昭和にかけて売り立てに出た屏風を収録した本のことを書いた。その中に蒹葭堂の作品もあった。若冲も隠居していたとはいえ八百屋商人の旦那であったから、大阪の蒹葭堂が絵を描いていても何の不思議もない。資力があって、しかも絵が好きであるならば、どうにか時間を見つけて描くようになる。蒹葭堂は若冲とはウマが合ったかもしれない。また博物学的収集品は若冲をいろいろと感化したであろう。「蒹葭」とは植物の芦の意味で、「蒹葭堂」は本名ではない。彼の家ないし書斎を意味し、自宅の自分の部屋をそのように名づけていた。「堂」は平たく土を盛った場所やそこに建つ建物を指し、「蒹葭堂」の言葉からは芦が生い茂る中の小さな家が思い浮かぶ。それは若冲の「心遠館」とは共通した文人の理想郷を示す寓居といった住処にはふさわしい名称だ。「ケンカドウ」とは何だか威勢がとてもよい響きで、印象にも強い。筆者もここらで改名しようか。「大山甲日堂」で「オオヤマコウカドウ」と読ませる。何だか金ピカの仏具を商う店のような名前だが、こうすれば金運の好転に効果動々か。だが反対に降下することも考えられる。どうしよう。堂しようか。今日はずっと雨模様のため、寺町三条上がるの矢田寺の花祭りは見に行かなかった。それで想像して一句創造。「堂内の誕生仏に濡れ桜」山甲日(さんこうか)