困ったことになったと思った。それは今月11日にダウンロード用に画像つきメールがZAPPA COMから届いた時だ。

以前からザッパ・ファミリーはダウンロードで聴くことの出来る音源を売っているが、それらはLPやCDで発表済みのものであった。と、こう書きながら自信がないが、たぶんそうだろう。ところが今回は、初めて正式にファンに届けられる音であるにもかかわらずダウンロードのみだ。なぜ困ったかと言えば、筆者のパソコンではそんな芸当が出来ない。以前にも書いたが、数か月前、ヤフーのネット・オークションに入札するのに、ある夜急にそれが出来なくなった。筆者の使うパソコンは何度も書くようにWINDOWS 95という恐ろしく古いやつだ。それで早速ヤフーにメールで問い合せると、推奨するOSに適合していないとの素っ気ない返事が来た。同じ契約料を毎月払っているのに、古いパソコンを使う者はまともなサービスが受けられない。これは差別ではないか。裁判所に訴えるとおそらくヤフーは敗訴するだろう。利用者がどんなパソコンを使おうが、金を徴収している側は提供する基本的なサービスが誰に対しても受けられるようにすべきで、そんなシステムは簡単に出来るのではないだろうか。たとえばの話、筆者はヤフーの地図をよく利用するが、これもWINDOWS 95では使えない新方式の表示画面に変わった。だが、それ以前の地図の、ある場所のURLをお気に入りに保存していた筆者は、そこにアクセスすると以前のように地図が表示されることを知り、またその画面を起点にして日本中のどこでも以前のように地図を見ることが出来ることがわかった。つまり、表向きは推奨OSに合わせた新方式の新地図しか利用出来ないことになっているが、以前の方式が完全に削除されたのではなく、古いOSのパソコンでもそこにどうにか入り込むことが出来る。これはヤフーがあえてそうしているのか、また古い地図の削除が面倒なのでそのままにしているのか知らない。それはいいとして、ネット・オークションの入札にしても、以前の方式をそのまま使えるように、つまり利用者が選択出来るようにしておくのが、商売している者の義務ではないか。孫社長に会う機会は筆者にはないが、仮にあるとすればこのことを真っ先に言ってやろうと思っている。また、ヤフーの言い訳としては、マイクロソフトがすでにサービスの提供を打ち切って、勝手に利用すればどんな被害が出るか、その保証が出来ないOSに合せて自分たちがサービスを提供する義務はないということなのだろうが、古いOSの不便をあえてわかりながら、また危険があっても自己責任をよく知っている者が使うのであるし、そういう利用者のいる現実をヤフーが知るならば、そう無碍に古いOSの利用者を切り捨てることはないだろう。それにネット・オークションで入札出来るOSはどんどん更新され、10年前のパソコンではもう使えないことになって行くが、利用者はまだ使えるパソコンをみすみす処分せねばならない。パソコンくらい安いもので、筆者はその最新式がいっぺんに数台買える買い物を半年に一度ほどするが、昭和20年代生まれであることもあって、使えるものは使えなくなるまで使うという体質が染みついている。また、今うるさいエコ精神からすればそのようなもったいない主義こそが推奨されるべきであるのに、それどころか嘲笑の対象になっている。全く世間の流行にまともに付き合っていると馬鹿を見る。何がエコだ。エコを云々する企業ほどエゴ・ゴー・ゴーだ。
いきなり腹立ちまぎれに書いたが、つまり、ザッパ・ファミリーもついにダウンロードに重点を置き始めたわけで、それで困ったと書いた。ゲイルはこのダウンロードに関しては音質の点で問題があるので乗り気でない発言をしていたのに、それはどうなったのだろう。ダウンロードで提供する音源はCDよりも音質が劣るというのだろうか。あるいは今後のCDは高音質のものを出し、それで提供出来ない音源はダウンロードということにして分けるのだろうか。ま、それは今後を見守ればいいが、筆者の予感では、ダウンロードはまずファンの動きを把握する意味合いが大きいのではないか。CDを通販で売ることはもう長年経ているし、平均してどの程度の枚数がさばけるかわかっているはずで、それに照らしてダウンロードではどうかを知りたい思いもあるだろう。仮に後者の利用者がかなり少なくても、通販会社に支払う手間賃などを考えると、ダウンロードで売った方が利幅があるかもしれない。おそらくそうした商売上の考えが大きく関与しているだろう。もうひとつの理由は、ザッパ本人が生前から自曲をダウンロードで売ることを考えていて、今回の『PENGUIN IN BONDAGE―The Little Known History of The Mothers of Invention』はその最初の試みとなって、ザッパの思いをついに果たしたという感慨を得たかったからと思える。11日に届いたメールの画像は、ボタンが3つあって、Art Credit、つまりLPで言えば表ジャケットのイラストと裏ジャケットの演奏家などの情報に関しては無料で入手出来るようだ。それもザッパが『自伝』に書いていたように、遺志を継いだとの思いだろう。で、この画像つきメールをアメリカの大西さんに早速転送し、また大西さんもこの母の日に合せた新譜を早速注文しようと考えていて、それを実行した。だが、大西さんにもわからないことがあったらしく、仕事場(ニューヨークにある建築設計会社)の仲間に手助けを頼んだようだ。それで困難しながらもどうにか先週入手し、火曜日の朝に筆者に向けてコピーを発送してくれた。それが昨日の投稿の2時間後に届き、それで今日はこれを書いているが、明日と明後日を費やしてこの新譜に関して書きたい。簡単に言えば、2枚組LP『ロキシー・アンド・エルスウエア』のアウトテイクで、26分長さの1曲表示、最初に『拘束ペンギン』が5分ほど演奏され、その後、『ロキシー・アンド・エルスウエア』では曲間にあった「前置き」としての語りが続く。その語り部分が今回の副題「マザーズ・オブ・インヴェンションの少しは知られた物語」に相当する。結論から言えば、この音源は同アルバムの片面をそっくり占めてよかったもので、もう少し曲を増して『ロキシー・アンド・エルスウエア』はLP3枚組で出してもよかった。また、今回のザッパの語りは今ではファンによく知られた情報だが、それを当時ザッパが語ったことは、マザーズのデビューからちょうど10年を経て、それを記念する意味合いの理由があった。そして、ゲイルは今年の母の日にはその音源を発売したいと思っていたのだろう。また、これは想像だが、この新譜と関連して年内に今までどおりの新譜CDが通販されるのではないか。つまり、このダウンロード新譜は来るべきものの「前置き」に思える。また、評判がよければ今回の音源をCDにして発売することもあるだろう。26分という中途半端な長さでもCDでは関係ないし、また1,2曲追加すればダウンロードで買った人もまた買う。筆者としてはやはりCDの形で出してほしい。これは大西さんも同様だ。古い人間はどうしても古い形が懐かしい。それはゲイルも同じはずなのだが。最後に付け足しておくと、以下の文章はこのカテゴリー用に毎回掲載しているもので、筆者の古い日記だ。ザッパとはあまり関係のないことを書いているが、以前からの続きなのでこうして掲載する。だが、それももう残り数回分しかなく、全部掲載し終われば、このカテゴリーは終了するし、そうなるとザッパの新譜紹介は別のカテゴリーを作ってそこに載せるつもりでいる。
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●2003年4月8日(火)午後 その3
また四条河原町に向かって雑踏の中を歩き始めたが、若冲がいた当時と現在とでは祇園や円山公園はほとんど変化はないだろうとふと思った。道行く人々が全員キモノを着ているように想像し、次に江戸時代の京都の花見の季節、若冲はどんな気分で人込みの中を歩いたことだろう。またなぜ梅はよく描いたのに桜は描かなかったか。これは筆者も花はよく写生するのでよくわかるが、梅より桜はごちゃごちゃしているし、咲いてすぐ散るので写生する気持ちを起こさせない。若冲の若い頃の絵は友禅染に似て、花でも鳥でも輪郭があって、その中に色が埋まっている。つまり線が根本にある。輪郭を引かずに描く没骨法もあるが、若冲はその技法は体質に合わなかったようだ。晩年の水墨画には当然著色画にあるような輪郭線はないが、それでも絵の骨組みは線の勢いが中心となっている。嵐山に住んだ日本画家の冨田渓仙に桜を描いた有名な作品があるが、それには輪郭線がない。輪郭線を使用して桜を描こうとすると、桜を間近で見て克明に写生することが必要だ。だがそうして描いた絵は本物の桜とはかけ離れた印象を保ちやすい。「花より団子」のたとえのように、桜はビールでも飲みながらぼんやり雰囲気を楽しむものだ。そしてそんな花の景色というものを若冲は描かなかった。これはなぜだろう。自分の描きたいものだけを描くとした若冲は、京都に住みながら嵐山や祇園の名所の桜には心を動かされることはなかったのだろうか。若冲の絵には京都ならではのものは伏見人形以外には存在しない。京都の市中を嫌っていたのかもしれないし、京都以外の土地をあまり知らないために、ことさら京都らしさを打ち出した絵を意識することもなかったのかもしれない。40代の若冲が「心遠館」と名づけたアトリエは洛西にあったとされるが、この正確な場所は特定されていない。だが名前からして市中から離れた辺鄙なところが想像される。現在の洛西は範囲が広いが、江戸時代は今のJR山陰線が南北に通る西側は点在する農家以外は田畑ばかりの地であった。八百屋問屋をしていた若冲の家は当然野菜を仕入れるために農家とは知り合い筋も多かったはずだが、洛西のどこかに鶏を放し飼いにして画家三昧の生活を送れる場所があった。その場所は今の右京区や西京区の洛西ではなく、もっと市中に近いぎりぎりのところではなかったかと思う。そして寺に近いあたりならば人家は比較的多いから、生活上の利便性も享受できる。四条坊城あたりは壬生寺に近い場所で、古い下町の雰囲気が今も濃厚に残っているが、おそらくこの寺の付近のどこかに「心遠館」はあったろう。この寺から若冲の八百屋のあった大丸百貨店裏手の錦通りまでは徒歩で40分ほどあれば充分だが、江戸時代の壬生寺界隈は広々とした田畑が目立ち、そこからは市中の家並みが遠くに眺められる状態であったに違いない。その市中のちょっとはずれのアトリエは「心遠館」というにはやや大袈裟としても、ひとまずの喧騒からは逃れられるし、またいざとなればすぐに八百屋の実家に駆けつけられる距離にあって便利でもあった。若冲本人はもっと不便な田舎に引っ込む思いもあったかもしれないが、野菜問屋の主としてはそうも行くまい。また、若冲は完全なる隠遁指向の画家ではなく、流行にも敏感であるし、最新の情報にも貪欲な都会人であった。これはザッパにも共通しているが、市の中心からはやや外れた場所に位置していたいとの思いがあったのではないか。芋銭の絵は空が高い広々とした空間がよく描かれ、それは茨城の牛久沼近くに居をかまえたことが理由としてもあろう。そんな芋銭の仙人的なたたずまいと若冲は違う。「心遠館」が当時ではあまりにも辺鄙であった現在の西京区などでは決してなく、せいぜい壬生あたりであったと思う。また壬生寺は狂言で有名だが、寺には若冲作とする仮面がひとつ伝わっているという。絵だけではなく立体的造形にも興味があった若冲に仮面制作の依頼があってもおかしくはない。伏見人形を40代から愛好して最晩年までほとんど同じ構図で繰り返して描いた若冲のことであり、もしかすれば伏見人形の布袋像そのものの型をも若冲が作ったこともあり得ると考えるのは、的外れの憶測に過ぎなくはないだろう。ここでひとまず休憩。TVが先ほどの地震は震度2であったと伝えた。