英語で今回の巨大地震について俳句を寄せ、菅首相をえらく感動させたニュースが昨日あった。ネット・ニュースは数時間で消えるので、後でその記事を探すことに苦労し、結局探し当てられないままになることがほとんどだが、そういうところにネットの軽さがよく出ている。
それで、今朝グーグルでその記事を探すと、出ない代わりにその記事を読んだ人のブログがいくつか紹介されていた。そのうち最も上位にある人のブログを見ると、数行の文章で、その俳句を詠んだEUの大統領を誉め称える一方、「どこかの韓流首相にはわからない」などと文章を結んでいた。こういう文章を朝から読むと気分が悪くなる。韓流首相は日本の首相のことだが、なぜその英語の俳句の意味がわからないと決めつけるのだろう。首相でなくても子どもでも感動するもので、それがわからないだろうと揶揄するのはよほどその発言をする人物の馬鹿さ加減を示し、そういう悪意ある発言によって恥さらしをしている自覚がない。また、「韓流」とわざわざ形容している点もこの人物の偏見をよく示している。つまり、EUとは違って韓国ないし韓国好きの人間を嘲笑している様子が見て取れる。こういう文章を書く人物は、仮に大学の教授であっても筆者は最も嫌悪する。そしてもうひとつ気分が悪かったのは、「three disasters 英語 俳句」で検索して最上位にそんな投稿が表示されることだ。読まなくてもいいものを読ませられる苦痛は、筆者の年代になれば1日かそれ以上を左右するものであるだけに、これはクリックしてサイトを開く行為は地雷を踏むのと似たことに思える。それもあってか、筆者はほとんど全くと言っていいほど他人のブログは読まない。そうであるので、自分のブログの訪問者も少ないのだろうが、そんなことはどうでもいい。こうして書いていて、先の投稿者のように、筆者の文章を嫌悪する人はきっとあるはずで、そういう人は二度と訪れないであろうし、それはそれで仕方がない。また、先に偏見と書いたが、筆者の人物判断はすべてこれにかかっている。一昨日、山本太郎は偏見がないと書いた。実際に話したことがないのになぜそれがわかるかと言われると返答に窮するが、以前ある番組で彼を何度か見て、その時の態度が実に見上げたもので、全く偏見のかけらも表情や態度に出ていなかった。番組用の顔と言えばそれまでだが、そこまで悪意で見る気は筆者にはない。芸能人であっても人間であり、内面のちょっとした変化は表情や態度に出るし、それをカメラはすかさず写し取り、TV画面を通じて多くの人々が感じる。また、別の番組で山本太郎は派手に飾り立てた大型トラックでアメリカの砂漠地帯を旅するというのがあった。その時の山本の態度は完全にトラック野郎で、芸能人でなければそういう仕事にも充分携われることを示していた。それは『難波金融伝・ミナミの帝王』に出演している時から滲み出ていたが、今回の原発抗議行動で所属事務所を辞めても、また芸能人を辞めたとしても、充分別の職業で食べていけるはずで、そこが男らしくていい。男ひとり何をしてでも食って行くという覚悟があって自分の思いを貫き通すのが、本物の男だ。会社をくびになるかびくびくしながら、言いたいことも言わずに陰でこそこそ文句たらたらの連中とは格が違う。そして、そういう連中が会社が倒産したり、不況でリストラになると、途端に慌てふためく。
ついでに書いておこう。江名のことを調べていると、ある人のブログに行き着いた。いわき市の中学校の男の先生だが、子どもがふたりあって、福島原発の問題が生じてから奥さんと子どもを関東に疎開させた。見知らぬ人だったか、何かのつてを頼ったかで、とにかく切羽詰った思いから、わが子を放射能汚染から防ごうというのだ。そして自分は週1回程度奥さんと子どもに会いに行くのだが、その生活はいつまで続くかわからない。その人はいわき市の原発問題に関してたまにブログに書いているが、最も新しい投稿は今までになく大勢の人の反響がある状態となっていて、誹謗も含まれる。筆者が2週間ほど前、最初にこの人のブログを読んだ時に思ったことは、江名港の写真がいくつ載せてあって、それがありがたかったことと、小学校の給食のひどい状態がわかってよかった程度で、さほど関心もなかった。その人が児童たちの健康の心配をして文章を投稿しているのはいいとして、真っ先に自分の奥さんと子どもを放射能の影響のない場所に避難させた行為との辻褄が合っているのかどうか、そこが気になる。昨日書いたように、そうして安全な場所に避難出来る人はいいが、大多数の人は地元で生活するしかなく、放射能の心配をしながらも学校に通い、貧弱な給食を食べる。そういう現実と毎日接しながら、その先生は自分が家族を避難させたことが後ろめたくはないだろうか。放射能の責任を誰も取らないので、後々の被害を考えると自分で自分の家族のことを思って行動せねばならないというのはわかる。だが、普通の人とは違って同じ子どもを抱える学校の先生が真っ先にそれでは、教えられる子やその親たちにどう顔向け出来るだろう。これはとても微妙な問題なので、ここでこれ以上無責任なことを書くのは問題もあろう。だが、本当に教え子がかわいいのであれば、ブログで原発問題に対するいわきの教育委員会やあるいは国の施策に疑問を呈する一方で、自分の家族も教え子と同じ立場に置いておかねば、その発言は軽いものと思われても仕方がない。つまり、教師として教え子を体を張って守りたいのであれば、自分の家族も同じ境遇にということだ。それが現実にはそうなっていないとすれば、義務教育の先生もサラリーマン化し、気楽な商売と思っているからだ。
さて、今朝は5時に目覚めた。睡眠4時間で、これでは痩せてもあたりまえか。と言いながら、その後また3時間ほど眠ったが、以前より睡眠が少なくなっているのは確かで、あまり痩せ過ぎると元に戻らなくなるかもしれず、今度はその心配をする。急に痩せ始めると、よく癌の疑いがあると言うが、筆者はその心配はしていないものの、痩せることによって体力がなくなり、それで癌を誘発することはあるかもしれないとは思う。早朝に目覚めた理由は、台風の風があまりに強く、建物が転がって飛ばされるのではないかと思ったからだ。裏庭の植木鉢だろうが、何かが吹き飛ばされてゴボッと割れた音を立てたが、こんな強い風が吹くことはこの10数年か20数年なかった。寝床の中でこの台風が被災地まで吹き進み、江名のTさんの家の屋根にまで影響を及ぼすことを想像した。先日の電話では、シートをいくつもの15キロの砂袋をぶら下げて固定しているので、雨でも大丈夫とのことであったが、これほど強い風なら、それを吹き飛ばすかもしれない。そう思うとまた胸が痛み始め、そしてそのうち眠りに落ちたが、こうして書いていてまた思いが過る。そして、思うだけで全く何もしてあげられないことにまた胸が痛み始めるが、社会で苦しめられるのはいつの時代も弱者だ。その弱者はたいてい発言力を持たず、発言力のある強引な人にいいように扱われてしまう。今朝消費税を10パーセントにする方針であることを伝えるニュースがあって、今回のような地震があればそれもやむを得ないとは思うが、そうした増税で、弱者がより困窮するのは目に見えている。10年ほど前、京都のある有名な花鳥画家が、消費税ほど公平な税はないとコラムに書いていた。その画家は名声も含めて親譲りの大きなな資産があり、また教授でもあるから、生活の困窮とは全く無縁で、弱者の生活に思いが馳せられないのだろう。そんな画家の絵が多くの人に感動を与えられるはずがないと筆者は思う。美の心も大切だが、その前に人の心ではないか。消費税がなぜ公平なのか。大金持ちでも貧しい人でも、同じように食事はせねばならないが、その食費が金持ちでは財産のごくわずかでも、貧乏人にはほぼ全部を占める場合がある。つまり、貧乏人は栄養不足になって病気や餓死してもよく、金持ちは毎日栄養価の高いものを食卓に並べ、あまったものは捨ててもいいということだ。食費にかかる消費税が誰も同じというのはどう考えてもおかしい。金持ちしか必要のないものに大きな税をかけることこそ公平で、生存に必要な最低限の食費にも同じ税率がかかるのは、貧しい者は口をつぐむかさっさと死ねということだ。そして、現実は実際にそのとおりになっている。筆者の家族の食材にかける費用は、おそらく誰にも信じられないほど少ない。いつもスーパーで誰も買わずに売れ残った2束50円の半分腐ったものが混じる野菜を買って来るほどで、その晩のうちに食べるならそれでも充分と考える。そうして食費を始末しながら、一方で本やCDその他、同じ経済状態の人ではまず考えられないほど費やすが、そういう心の贅沢も消費税10パーセントになれば削減することになるだろうし、またそれでもいいかと思う。心の贅沢はほかでもどうにかなる。今日の投稿あれこれ迷いながら、「日月明庵の無心戀態思惑感想」と適当に題してみた。「日月明庵」は「日月明暗」の洒落だが、この雅号はなかなかいいではないか。早速印章を彫ろうか。このブログは「六味感想戀態思惑歩録」の副題を持つが、「六味感想」は「無味乾燥」の洒落でありながら、「感想戀態思惑」の六字が全部下心がつく漢字であることを指している。これは最初に書いた英語の俳句とは違って、英語には置き換えられない漢字独自の面白い感覚を思ってのことだ。また「戀態」はあえて「変態」と読み間違いする変態好きか変態に偏見のある人間を予想しているが、これはもちろん「恋態」だ。そして、「恋態」などと書くと、どんな下心の連帯があるのかと思われるが、はははは、それはあります。下心の思惑を込めて、この歩録を決して読んでくれない遠い人に捧げます。