探していた本をもう一度別の本棚を調べるとあった。ガリマール版の「Le Petit Prince(星の王子さま)」で、扉を見ると1973年10月23日に買っている。
1190円だった。当時消費税はなし、筆者22歳で、その頃と今と老いただけで考えは少しも変わっておらず、興味を抱いたことが今でも引き継がれている。この本をなぜ買ったのか、さほど記憶にないが、下の妹がこの本の大ファンで、高校の文化祭に妹はこの本を原作に戯曲を書き、主役の王子を演じた。そういうことがあったので、原書も揃えておこうと考えたのだったと思う。その後、イタリアやイギリス版も買ったし、またスタンダールの『赤と黒』の映画化で主役を演じたジェラール・フィリップが朗読するLPも買った。おまけに一時期、NHKのラジオでフランス語講座を熱心に聴いて録音し続けたこともある。ガリマール版の「Le Petit Prince」はサン・テグジュペリ全集の1冊としてのもので、奥附を見ると1972年10月の印刷だ。イラストの印刷はオール・カラーではなく、カラー・ページの裏面に白黒のページが来るが、サン・テグジュペリは全部カラーで描いたはずで、この点現在の版はどうなっているのだろう。昨日書いた『サン・テグジュペリの星の王子さま展』ではこれらイラストのうち使用されなかったものや別ヴァージョンが紹介され、図録の表紙には未使用に終わった1点「豚肉のメニュー」が印刷される。『星の王子さま』のファンは日本にはことに多いようで、原画を1点所有する人もあり、また箱根には博物館もある。そうした人気を読んでこの展覧会は開かれたのだろう。昨夜のTVでは何のコマーシャルか忘れたが、子どもがこの本を開いている場面が映ったが、それは岩波の内藤濯が翻訳した本の表紙とはタイトル文字の書体が違った。岩波の版権所有は近年切れて、たくさんの邦訳が出ているので、それらのうちの1冊かもしれない。あるいは特定の本を使うことがまずかったので、わざわざ架空のものを作ったかだ。
それはいいとして、この本では薔薇が印象的で、惑星の上に一輪だけ赤いのが咲いているイラストがある。あまり薔薇には見えないが、かえってそれがこの本には似合っている。前述の展覧会ではその薔薇が取り上げられ、「美しいけれど、わがままな「花」のモデルは?」と題して説明がある。これはサン・テグジュペリの妻コンスエロであったとされる。激しい感情の持ち主の彼女とは喧嘩が絶えず、やがて別居に至る。同図録から引用する。コンスエロは1901年にエリサルバドルの裕福なコーヒー農園に生まれ、サンフランシスコに留学してメキシコ軍人と結婚、夫が亡くなった後、メキシコの文化大臣と恋に落ち、彼が渡仏する際について行くが、フランスではアルゼンチン領事で作家であった人物と結婚、社交界やファッション誌に紹介される。しかしまた夫に死なれ、遺産を受け取りにアルゼンチンに赴いた際にサン・テグジュペリと出会う。劇的な出会いから劇的な結婚であったという。奔放な女性に振り回されているサン・テグジュペリの姿が思い浮かぶが、そういう女性の最後の男になろうとする気持ちはわかる。自信のある男ほどそうで、『南方郵便機』には、男には女が振り向いてくれなくても尽くし続けるか、その反対に女の首を切るかの二種類があることが書かれる。サン・テグジュペリは前者であったが、かといって喧嘩が絶えない生活にも容易に戻れずといったところであったのだろう。女に悩まされたことが小説に反映した。あまりに幸福過ぎると人は頭がぼけるもので、煩わしい小説など書く気にならない。かといって不幸過ぎるとまた駄目で、その中間が難しいか。画家のココシュカはマーラーの未亡人のアルマにぞっこんに惚れ、全く振り回されっぱなしとなって、アルマに振り向いてもらえなくなってからはアルマそっくりの等身大の全裸の人形を作らせて愛撫するほどとなった。狂気に近いそういう思いは筆者にはわかる気がする。これが芸術家ならまだしも、一般人ならストーカーで訴えられ逮捕ものか、病院に送られるだろう。また、そうした芸術家を虜にする女性が一般人から見てどれほど美人かと言うとさほでもない場合が多いかもしれない。だが、マーラーの妻であったほどの女性であるから、芸術家がのぼせて当然とも言える。同じような例はココシュカ以前にあった。シューマンの妻クララは美人で有名なピアニスト、子だくさんであったが、そのクララに対し生涯独身を貫いて陰で愛を捧げたのがシューマンに作品を絶賛されたブラームスで、その気高さは作品が示している。ブラームスの写真は晩年の太ったものがよく知られるが、若い頃はスリムで男前、クララより10いくつか齢下であった。
話を戻して、薔薇は『南方郵便機』にも登場し、それを育てる趣味のある老人の退屈な日常が描かれる。いわば平凡な象徴としての扱いだ。筆者も薔薇は好きだが、庭にあった3種をいつの間にか枯らしてしまった。風通しをよくすし、また虫食いに注意する必要があり、手間がかかる。大きな庭があるとたくさんの薔薇を植えたいとは昔から考えるが、ずぼらな筆者には無理だろう。それで今はあちこちの家の庭で薔薇が咲いているのを見て、散歩が楽しい。わが家のある向かい側の棟の壁には、昔なら青薔薇と呼んだ藤色の大輪の直植えが満開になっている。これと同じものをわが家にも植えていたことがある。一昨日全く知らない人が車で通りがかって、挿し木にしたいので分けてくれないかと、たまたまそこにいた家内に言った。家内はきっぱり断ったそうだが、挿し木でうまく育つなら筆者がやってみようかと思わないでもない。だが、また枯らしてしまうのは目に見えており、そのままにしておこう。ともかく、この青い薔薇がなかなか目立つので、18日に写真に撮った。手入れを全くしていないのに、年々大きくなってここまで育った。風通しや日当たりがちょうどいいのだろう。だが、この薔薇はいいのはいいが、一番好きな色ではない。白がいいかなと思うが、さびしいので、やはり真っ赤がいい。以前筆者は真っ赤な口紅をつけて似合っている女性が好きと書いたが、赤い薔薇はそれを思い出させる。赤の色目にもよるが、そんな女性はめったにいない。いたとしてもやけにけばく、頭があまりよくは見えない。そのため、赤い薔薇は理想ではあっても、非現実的に思える。そこが『星の王子さま』でも描かれた理由ではないか。コンスエロのような女性はまさに赤い薔薇そのもので、サン・テグジュペリがのめり込んだのもわかる気がする。また、赤い薔薇が似合う女性が思いつかなくても、赤い薔薇を女性に贈りたいとい男心はわかる。誰しもそういう格好いいことを一生のうちに1回はしておきたいものだろう。ネットで調べると、大輪のものでは1本600円はするが、そうした品種では100本はなかなか揃えられないようだ。また、大輪100本はひとりの男が抱えて持ち運べないかもしれない。格好いいことには筋力と金力が必要なのだ。それを間違うと、薔薇の花束を抱えたまま石ころに毛躓き、全身薔薇の刺だらけになったりする。薔薇はそれほどに気難しく、気品がある。気品を持って気品のある女性に贈らねばならない。
「薔薇三題」としたからにはもうひとつ残っている。若冲の「薔薇小禽図」の訪問着だが、仕立てに出す段階になっている。着用者から2年以上前に依頼されながら、1年ほど仕事を中断した。結果的には1年は要さずに染めたが、それでも例外的に長い日数を要した。これを着用する女性は背が高く、また足が身長の半分かそれ以上もあるスタイルのよすぎる美人で、何と来月ふたり目の子どもを出産する。仕立て上がったキモノを着用して、モデルとなって写真館で撮影してもらうことになっているが、このキモノ用の帯を探さねばならず、また長襦袢をどうしようかと迷っている。それも本当は染めたいが、制作時間がない。染めるとすれば若冲の同図から最も小さな白薔薇を独立させ、それを全体にまばらに散らそうと考えている。それでも1か月近く要するだろう。2、3万円で充分染めた反物が売られているので、それを買えばいいようなものだが、せっかく上に着用するものが凝りに凝っているからには下に着るものも凝りたい。ただし、そんなことをしても染価はそれ相応のものを請求しにくい。だいたい1年近くかかって作ったものをいくら請求していいのか筆者にはわからない。相場では高級呉服は車1台分とよく言われるが、車は高級外車からその10分の1もしないものまでいろいろだ。最近自治会のある人と話をしていて、あるキモノ作家が百貨店で1点500万円で売ったが、取り分は半分であったそうだ。高級なものほど百貨店の取り分は多くなる。かといって個人でいい客をつかむことは困難で、百貨店のネーム・ヴァリューに頼ることになる。そしてたいていその500万円のキモノはつまらないものが多いのが現実だが、買い手はそんなことがわからない。金持ちは高ければいいものと思う。であるので、筆者も「薔薇小禽図」のキモノを、着用者の体の寸法に合わせて下絵を描き直して染めるので、仕立て込み、長襦袢つきでひとまず500万円と言っておこう。ほしい方はどうぞ。もちろん共八掛だが、完成には最低でも1年は要する。この「薔薇小禽図」に若冲は3種の薔薇を描いている。つまり薔薇三題。赤の八重と白の一重の大輪、それに白の小薔薇だ。もちろんそのとおりに染めたが、今日掲げる下の写真は右前袖の大部分だ。これは若冲の「薔薇小禽図」にはないもので、筆者が下絵を構成した。また、右前袖は両袖の前と後ろの4部分のうち、柄は最も少なくていいのだが、それでこの写真のような具合だ。全体がいかに薔薇だらけか想像出来るだろう。