翼を持って天を駆け巡るイメージがサン・テグジュペリにはあったのだろう。現代の天使は飛行機乗りだ。
昨日隣家の本を調べに入ったところ、すぐに目的のものを見つけたのはいいが、もう1冊がいくら探しても出て来ず、また探してはいなかったが、そう言えば買っておいたなと記憶が蘇った展覧会図録があった。『サン・テグシュペリの星の王子さま展』で、造本がなかなかよい。4年前の展覧会だ。写真が多く、サン・テグジュペリについての資料本としても役立つ。これに彼の作家としての活動に大きな存在を持ったふたりの女性について書かれている。ひとりは妻となった女性だが、情熱的で激しい気質で、やがてふたりは別居する。もうひとりはサン・テグジュペリのファンで、翻訳家として彼に接近したアメリカ人だが、彼女の存在があって『星の王子さま』は生まれた。もう1冊、サン・テグシュペリ全集の1冊で『手帖』という本も見つけたが、これはまだ読んでいない。さて、ここ1週間ほどは毎日ステレオで今日取り上げる曲をリピートで終日聴いている。今もそうだ。もう1000回は聴いたかもしれない。この曲について何年も前から書く思いがありながら、今日がふさわしいと考えた。もう説明の必要はないほど有名な曲で、しかも年々その価値が高まり、20世紀半ばのロックの名曲として今後数百年は忘れ去られることがないだろう。この曲「リトル・ウィング」は、スティングが80年代後半にカヴァーして大いにヒットさせたが、同時期にギリ・エヴァンスのオーケストラも盛んに演奏し、それもまた筆者の愛聴するところだが、このカテゴリーではギルの演奏はほかの曲をいずれ取り上げたい。スティングも同様だ。また、オリジナルのジミ・ヘンドリックスの演奏は、筆者はCDを所有しないので、ステレオでリピート演奏するのは不便だ。仕方がないという理由からではないが、10年ほど前に買ったスティーヴ・サラスの日本でのライヴ演奏がなかなかよく、それが目下のところ、筆者にとってはこの曲のベスト演奏となっている。ユー・チューブでは他の演奏家のものがいろいろと聴くことが出来るし、その中でもスティーヴ・ヴァイのものは、珍しくヴォーカルも担当して秀逸だが、ヴァイの華麗な演奏よりも筆者はサラスのワイルドな方を好む。それはヴァイが白人であるため、この曲を書いたジミとは、サラスに比べると開きがあるように感じるからだ。サラスは黒人だが、インディアンの血を引くようで、顔つきはエアロスミスのスティーヴン・タイラーに少し似て、いかにもロック野郎だ。それを言えばヴァイもそうだが、この曲は素朴で力強い演奏をする方が元来いいように思う。ジミはエレキ・ギターを奏でながら歌ったが、この曲に関してはフォーク調を思わせるところがあって、あまり装飾音で飾り立てない方がいい。もちろんサラスのギターが装飾音を使わないというのではない。エフェクターに凝り、ギターは充分過ぎるほど主旋律を装飾しながらのた打ち回るが、それでも全体としては何が重要かをよく心得ている。それは簡単に言えば、内面の思いの吐露で、心の底からの叫びと言い換えてよい。まさにこの一点こそがこの曲の演奏に求められるべきもので、ギターの早弾きがどうのといった時点のことはいわばどうでもよい。
この曲はジミが1967年に発売した「AXIS:BOLD AS LOVE」に収録される。アルバム・タイトルは直訳すれば「主軸:愛のように太い」となるが、「愛」というのがいかにも60年代半ばだ。見開きジャケットはインドの庶民信仰の印刷画をベースに、メンバー3人の顔を描き重ねている。伝説的となったこのジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンスというバンドについては、ジミ以外のメンバーが本を書くなどしてよく知られるところとなっているが、このアルバムからわずか3年後に37歳で帰らぬ人となったジミについては、先に述べたギル・エヴァンスを初め、惜しむ声は当時から多かった。その夭折によってなおさら神格化されたところがなきにしもあらずだが、ジミが短い生涯に書いた曲は今なおミュージシャンたちに咀嚼され続け、特にこの「リトル・ウィング」は別格的に賛美されているところがある。この曲は歌詞も単純で、1回聴くだけで印象に残る。それほどに完成度が高く、ほとんど奇蹟と言ってよい。歌詞は短いので以下LPに印刷されるものを書き写し、また訳してみる。Well, she's walkin' through the clouds, With a circus mind, that's running wild.(彼女は激しく流れる雲の中をサーカスするような気持ちで歩いている。)Butterflies and zebras and moonbeams, and fairy tales.(蝶やシマウマ、月の光、おとぎ話)That's all she ever thinks about. Riding with the wind.(それが風に乗りながら彼女が考えたこと)When I'm said, she comes to me, With a thousand smiles, she gives to me free(ぼくが悲しい時、彼女は千の微笑みを持ってやって来てぼくを自由にしてくれる。)It's alright she says. It's alright, Take anything you want from me, anything. Anything(そして言ってくれるのさ。「大丈夫、大丈夫なのよ、ほしいものは何でもわたしから持って行っていいのよ」)Fly on, Little Wing(舞い上がれ、小さな翼)。
この歌詞に登場する彼女がジミにとって誰であったかを詮索する興味は筆者にはない。ヒッピー・ブーム華やかな頃、この曲の「蝶やシマウマ、月の光、おとぎ話」の下りはいかにも時代の趣味を反映し、こういう無私の愛を云々することは大いに流行った。だが、筆者はたとえば男が愛を失い、娼婦に慰められる時の様子をこの歌詞から想像もする。特に泣かされるのが「Take anything you want from me」の1行だ。これがこの曲の最も言いたいところであるのは間違いない。この1行から触発されたとおぼしき童話が70年代半ばに書かれたシルヴァスタインの『おおきな木』で、彼はジミより1世代上の年齢だが、シンガーソングライターでもあったので、ジミの音楽には詳しかったろう。それはともかく、女が男に向かって「何でもあげる」と言うことは、最大かつ最後の決め言葉で、これ以上の励ます言葉はない。この場合の女は、あるいは母であってもよい。それに女は与えるものと言えば実際は千の微笑みしかなく、小さな翼の言葉に象徴されるように、か弱く貧しい、小鳥のような存在のはずだ。ともかく女性の愛を最もストレートに表現するとこの1行になるし、こういう女を持たない、出会わない男は不幸だ。その意味でこの曲は女性のそうした愛を実感出来て初めて心に染みる。ま、たいては恋人や妻で、筆者の場合はさしづめ糟糠の妻そのものの家内ということになるか。となると、先の娼婦は的外れかもしれないが、そのように読み取らせるほどに、ここでは「彼女」は男を慰めてくれる、男にとってはなくてなならない存在だ。その彼女が激しく流れる雲の合間を歩いているというのであるから、これは現実ではなく、夢の中と考えてよく、また簡単に言えば天国にいる彼女を思い出していることになる。すでに自分の周りにはいないが、目を閉じればいつでも会え、しかも限りない笑みを与えてくれる存在だ。そういう彼女にジミはこの曲を書いた。これでは泣けないはずがない。筆者は、その喪失感を伴った、限りなく慰めてくれる女性を思い浮かべながら、何も足したり引いたりすることが出来ないほどのジミの演奏を、いつ、何度聴いても、すぐに涙がこぼれる。ヴァイやサラスもそういう経験があるからこそ、この曲をカヴァーする気になったのだろうが、これほどに揺さぶられるロックの曲は他に例がないように思う。それが原曲がわずか2分半の長さの流行歌で、しかも小さな子どもでもわかる簡単な歌詞でわかりやすく歌われるというあまりの卑俗さを伴っているところが面白い。そういう形を採ることで、より多くの人に率直に伝わる。これは大衆芸術の使命だ。
さきほどメロディを拾うとEマイナーであったが、同音階の上半分の4音を主に使う。ザッパのもとから出たヴァイがこの曲を演奏するのはどこか奇異なところがなきにしもあらずだが、ヴァイはジョー・サトリアーニと同じく、愛や優しさといったものを重視し、それを謳い上げることに恥ずかしさを持っていない。そのザッパには全くといってない部分にこの曲が反応した。そして、ギターを演奏しながらこの曲を歌うことは、ロック・ギタリストにとっては格好よさのひとつの象徴で、それはジミのようになりたいというのではなく、この曲の歌詞に描かれるように、自分に限りなく尽くしてくれる女性を思い描き、それを崇めたいという人間愛に同調するためだ。一方、ヴァイがどうあがいても、その演奏は表面的ななぞりをていねいにしただけのものと思えるが、ヴァイにすればこれを同じような単純でしかもボールドな愛の曲を書くことが夢で、そのひとつの目指すべき星としてこの曲をカヴァーしているのだろう。だが、はたしてそれが可能かどうか。ジミのように不幸な生い立ちと、どぶねずみのような、そしてあまりにも早い死を迎えた者ならではの重みがこの曲にはある。不幸を一方に抱え、その重圧に等しい昇華物こそが名作となって長く伝わるのではないか。さて、ジミの同アルバムに収録されるヴァージョンは、歌詞の童話のイメージを高める意図から小さな鐘の音色が加わり、さらにはLPの時間的制約があって、わずか2分半に満たない。これはラジオでかけられることとシングル盤を意図したからでもあるが、この短さは当時はよかっても、今はもう少し長いのが流行で、筆者もその方がよい。サラスの演奏は5分強だ。これはジミの倍で、歌詞とギター・ソロを二度繰り返すからだ。サラスはギョージ・クリントンに拾われたが、その点でもヴァイ以上にジミには近い。ジミの演奏とよく似るが、これはジミを越えることがむはや困難なことを示す。ではあっても、サラスの演奏も深い情感を込め、またギタ・ソローも独特で素晴らしい。1000回も聴けば飽きるようなものだが、これを書きながら今も鳴らしている。そして時に耳をそばだて、歌詞に思いを馳せると、胸が締めつけらて目頭が熱くなるが、その元のメロディを書いたのがジミであることを改めて思い、尊敬を新たにする。ギル・エヴァンスがジミの才能を絶賛したのはよくわかる気がする。ジャズの目から見てもジミは天才であったのだ。そして、この曲に代表されるように、ジミは常に悲しみを心にたたえ、またそれを乗り越えようとしていた。ギルはそこに最も惚れたのだろう。