鴨は春の鳥とは言えないが、春に見かけたのでそうしておく。今日の最初の2枚に写真は今月10日の撮影だ。一昨日書いたように、わが家の裏庭の向こうを流れる小川的用水路は梅雨時になるとよく上流の水門が閉められる。
そうかと思えば本流の桂川が溢れては困るので、雨でも水門を開けて小川に放流する場合がある。一昨日はそうで、茶色の濁流が渦巻いていた。それでも小川が氾濫しない水量がわかっているらしく、コンクリート壁のてっぺんぎりぎり以上に水面が上昇したことがない。だが、これも1000年に一度の大雨の場合はそうも言っておられず、桂川は氾濫、小川も同じ状態になって、わが家はおそらく2階まで水浸しになるだろう。そうなってもいいように、雨に濡れてはまずい重要なものはみんな3階に置いてある。それはいいとして、水門が閉められて小川が干上がった時、鶺鴒や雀、烏や鴨、小鷺などが川底に降りてついばむ。大きな鳥はさすが目立って格好いいが、ずんぐりむっくりの鴨はよちよち歩きで面白い。丸々と太って、人間が鴨を食べたいのはよくわかる。ムーギョ・モンガでは鴨ロースがいつも半額で売っているが、鴨は鶏と全然違った食感でおいしい。仕事場にしている3階から見下ろすと、小川の中に鴨が一羽見えた。写真に撮ろうと思いながら、いい撮影角度に収まってくれない。そんなことを知らない鴨は一心不乱に川底に首を下げている。どうにか1枚写したが、いい写真ではない。そのため写真はいつもより小さく加工した。右端に見えるのは八重の椿だ。以前に何度か書いたように、これはかなり大きく育って、家内が毎年枝の剪定を思い切って大きくせよとうるさいが、筆者は聞く耳を持たずでそのままにしている。もっといい椿ならいいが、今さら植え替えても同じ背丈に成長するのは30年ほどかかる。その頃筆者はとっくにこの世からいない。もっといい椿とは、描きたくなるようなものだ。筆者にとっていいものとは描きたくなるものだ。めったにそういう機会はないが、美女を描く時が一番いいのは言うまでもない。椿の美女を言えば、たとえば速水御舟の屏風に描かれる散り椿だ。これと同じ品種の椿はわが家の近辺にもあって、たまにそこを通りがかって眺めては満足している。自宅の庭にあれば言うことなしだが、そう贅沢ばかりも言っておれない。かと言って、他人の家のものばかり眺めてはケチ根性がついてしまう。図書館を利用するのもいいが、その一方で自分で本を買うのと同じことだ。何でも借り物ではいけない。
鴨がよちよちと歩いて視界から去った、あるいは写真をどうにか撮ったので筆者の関心が別に移ったため、すぐに次の春の鳥の飛来に気づいた。それが2枚目の写真。これは3回シャッターを切ったがどれもいい写真ではなく、1枚だけましなものを加工した。遠目にはよくわからなかったが、目白だろう。鳥博士さん、いかがですか。この写真ではわからないかな。目白はわが家の近くにたくさん飛んでいる。実にかわいらしい。そう言えば鳥博士さんは小鳥みたいに小柄で、たとえれば目白かな。それはいいとして、目白が止まったのは合歓の木だ。八重椿の隣に植えてある。そろそろ芽吹き始めた。これまた家内が毎年枝を大きく払えとうるさいが、今年の1月中旬、小川沿いの小道の瓦礫を掘り起こした時、ついでにそれをやった。樹木がまだ春の陽気に目覚めない頃に枝を切るのがよいと何かで読んだことを覚えているからだが、これは何となく人間が麻酔で眠っている時に手術することを思わせる。三島由紀夫の『午後の曳航』だったか、同じ話が出て来る。麻酔をかがされた逞しい男はその間に少年たちに身体をバラバラにされてしまう。何とも怖い話だが、三島にはバタイユに通ずるものがあって、それで三島はフランスで人気があるのだろう。そう言えば昨日言及したユルスナールも三島に関心が強く、三島が自殺した後、首を切られ、三島を介錯した三島の恋人と言ってよかった男性の生首と一緒にそれが並べられた写真を持っていた。その写真は日本ではどの程度流布しているのか知らないが、床に三島と三島の首を切った男の首がふたつ並ぶ光景を想像すると、何とも凄まじい。そういう光景を自分の最期にふさわしいと思った三島にすれば至福であったはずで、その異様な愛と死への憧れは、同じ同性愛者のユルスナールにも一種の尊敬の面持ちを抱かせたのだろう。昨日使った言葉で言えば、ピュアなのだ。またそんな自殺が出来るのは人間だけで、その技巧的な自殺行為も三島には長年の夢であったのだろう。三島の小説自体が技巧の産物で、自分の生活、人生もそのように持って行かなくてはならない思いに囚われていた。どんな作品づくりでも技巧は必要だが、三島のそれは美意識が徹底されたもので、筆者はそれがわからないではない。作品と作家の行動が合致しないものは、単に職人的な仕事とみなされて芸術的な観点からは価値は劣る。また作品と行動の合致は、簡単に言えば男が思う格好よさだが、これが大体の女には理解出来ないだろう。理解出来るとすればユルスナールのように芸術家か同性愛者ではないだろうか。またたいていの女から見れば、男のそんなお遊び事に等しい芸術ごっこの人生は、生活力とは無縁であると映り、むしろ嘲笑の的だろう。だが、昨日書いたように、どんな男にもそれにふさわしい女は存在する。であるので三島を好きな女も多いはずだが、その三島が女より男がいいとなれば、拒絶された女はユルスナールのようにレズになるしかないか。
即興で書いているので、話がどう展開するのやら自分で想像が出来ない。それもまたいいかと思いながら今段落を変えた。今日の三つ目の鳥は、さきほど写した若冲の「薔薇小禽図」に描かれる鳥をキモノの訪問着に写し代えた筆者が描く鳥だ。先の鴨と目白の写真を撮りながら、三つ目が見つからないのでブログへの投稿は無理かなと思っていたが、今日もう一羽の鳥があることに気づいた。この小鳥の正式な名称はそれこそ鳥博士さんに訊ねなければならないが、タイトルどおり、「小禽」としておこう。この訪問着、なかなか仕立てに出すことが出来ないが、目下最後の仕上げに取りかかっており、明日には筆者の手を離れる。だが、写真からわかるように、赤い薔薇の輪郭である糸目の白抜きの線がやや目立ち過ぎ、これを花と同じ色で半分ほど塗り潰そうかと思案中だ。その作業をするとなると最低でも半日は要する。1ミリ幅もない糸目の半分をそれとわからずに赤く塗り潰すのは、さほど簡単なことではない。そこまで凝らなくてもよさそうだが、ここまで凝ったからには徹底して凝るのもいい。こうすればいくら儲かるといった考えを抱いていては、こんな仕事は出来るはずがない。はははは、先の言葉を使えば筆者はピュアなものを持っているのかな。ほとんどの人にはわからないから、そんな無駄骨をする必要はないと言えるが、誰も見ていなくても自分は知っている。その自分に忠実でなくてどうする。昔々、男の流儀について聞かせてくださいとある女性から言われたことがある。その返事はしなかったが、男でも女でも同じで、自分がこれと決めたことは徹底して守るべきだ。それが最も愛する人にわかってもらえなくてもだ。ところで、この「薔薇小禽図」の訪問着は、若冲の絵と同じく小鳥が一羽描かれるが、着用した時には見えない位置にある。それは大きな無駄と言えるが、無駄は贅沢で、そういう贅沢が許されるのがキモノだ。自分は誰にも見えない小鳥を染めたキモノを今着ている。その思いに胸が躍るのではないか。そういうことがわかる人だけが着用が許される。