封書はいい。封を切る時のときめきがいい。だが、最近届く封書は銀行や役所など、手紙ではないものばかりで郵便がつまらなくなっている。
昨日、1987年だったか、手紙の数がその時期を同じほどに落ち込んだとネット・ニュースにあった。筆者もクロネコ・メール便で出すことが多い。その方が安い場合が多いからだ。だが、切手を選んで貼る楽しみが郵便にはあり、メール便では絶対に出したくない相手がいる。そういう相手は高齢であるから、やがて筆者は郵便で封書やはがきを出さなくなるかもしれない。今朝家内に聞いたが、大学ではもう郵便は使わず、メールが中心だそうだ。郵便は届くのに日数がかかるし、絶対に届くとは限らない。メールだとそういうことがなく、しかも無料に近いという理由らしい。何でもスピード化の時代であるから、これは仕方がないか。だが、メールは郵便に比べて全く味気ない。古いメールを何度も読み返す人があるだろうか。手紙なら20年や30年前のものでも当時のまま読み返すことが出来るし、その筆跡や用紙、切手、消印など、どれもこれも懐かしく、手触り感がある。メールを印刷して保存する人もあるかもしれないが、そんなことは面倒で、読めばさっさと次のメールを待つ。そうしてメール中毒が生まれる。どうせ人間は暇潰しの存在であるから、そのように時間を使う人は勝手にすればよい。では封書がいいとして、こうしたブログの文章はどうだろう。筆者のこのブログはもうすぐ丸6年を迎えるが、1日1回の投稿で、多い場合は原稿用紙にして10数枚、少ない場合でも1、2枚で、仮に平均5枚と換算しても、6年で1万枚となる。よくもまあ書き続けたと思うが、全部読む人はいないはずで、この壮大な無駄を続けるエネルギーはいったいどこから来るのか。で、このブログに時間を費やす分、手紙を書くことがほとんどなくなった。そこで思ったのは、投稿で気に入ったものを印刷し、その裏面に手紙を書くことだ。その相手はネットをしない人であるから、筆者のブログの紹介になる。裏面の手書きの文章は、筆者にとって書の練習にもなってよい。無理にでも字を書かないと、下手になるのは早い。
昔の封書を整理がてらいろいろと見ていると、筆跡で即座に誰かがわかって面白い。筆者が最も能筆と思う人は東京在住の白百合を出た女性で、その見事で個性的な毛筆による筆跡には舌を巻く。女性が文字をきれいに書くのは大きな魅力だ。筆者は賢い女性が好きだが、そうした女性で文字まで絶品という例は案外少ない。今の若い世代では全滅で、みんな顔やスタイルだけを磨くのに必死だ。平安時代を言っても始まらないが、文字が女性の全人格を表わすということであれば、みんなせっせと文章を綴り、賢くもなったが、もっともそれはごく一部の貴族で、大半は文字が読めず、名もないような女ばかりであった。今もさしてそれは変わらないのではないか。いくら文字を美しく書く努力をしても、それをわかってくれる男が周りにいなければ無駄というものだ。今は無駄をすることは罪悪とみなされる。文字が美しく、また美人でもある女性と文通したことはある。先の白百合の女性とは全く違う書体だが、美しさでは引けを取らない。あるいは上かもしれない。学生時代にすでにそうであった。国文科なので当然とも思えるが、同科を出た全員がそうでは決してない。男性できれいな文字を書く人はふたり知っている。どちらも筆者より10歳ほど年長で、また学校の先生だ。そういう見事な筆跡を見ると、自分のへたくそぶりにげんなりするが、猛烈に手書きすることをまた始めれば多少はましなものとなるかもしれない。改まった手書きの文字で、改まった気分で封書を出す。それほど優雅な時はないが、そういう手紙を出す相手があまりいない。メールは文章を綴らないよりかははるかにましだが、その事務的な趣には、親しみを込めにくい。あるいは親しみなど今はもう不要なのだろう。ラヴ・レターという言葉に対してラヴ・メールという言葉があるのかどうか知らないが、何でも即席になると、思い出になりにくいだろう。また、今は思い出などどうでもよく、次から次へと恋の相手を変えても平気という若者が多いのかしれない。何でもスピード化の時代であるから、待つことが苦痛と思うようになっている。その苦痛の中でもがくことがまた楽しみであるはずなのだが、じれったい恋愛はゴメンという人は多いのだろう。遠距離などとんでもないということか。
2、3日前、他人のブログを印刷し、その裏面を便箋代わりに手紙を書いた。今度は筆者のブログを印刷して同じことをしよう。いや、実際には10日ほど前にそれをした。それがなかなか合理的で面白かったので、今後はその機会を増やしたい。筆者は昔から、封筒も便箋も不用紙を用いて手作りすることが多い。別段お金をけちってのことではない。このブログでもそうだが、あまりに大量の手紙を出すので、便箋代も馬鹿にならないという理由も確かにあるかもしれないが、不用紙を使うと、気分がほぐれて親しみが込めやすいのだ。目上の人に対して失礼に当たると思わないでもないから、そういう時は気を配って文章がそうならないように心がける。だが、先に書いたように、ネット・ライフを始めてからほとんど封書を出さなくなったから、いざ手紙をとなると紙が手元になかったりして慌てることになる。それで思いついたわけではないが、ブログを印刷し、その裏面を使うことだ。そうすれば手紙と同時に筆者の公開日記も楽しめる。その裏面を使う行為は、昔不用紙を便箋変わりにしていたことの延長で、筆者のやることは全く昔から変わらない。そういうことをよくわかってもらえる相手は今後ますます減少するから、筆者は孤独になり、それでせっせとブログに書き、手書きの文字がひどいことになる。ひどいことになってもどうせ今の若者には能筆がわからない。それに筆者が若者に封書を出すことはめったにない。ここまで書いて文字数をカウントすると、原稿用紙6枚分だ。平均的ということで今日はここまで。