奇は新なりはさほどいい副題とは思えない。「奇」は若冲でも用いられた。その二番煎じのようなところがある。だが、芦雪を端的に表現するには「奇」しかないということか。

ともかく、こうした副題が決まってつけられるようになったのはいつ頃からか、時代の流れであるので仕方のないところがある。MIHO MUSEUMでこの展覧会を見たのは東日本大震災の当日で、そのことは今後も忘れない。そして、
以前の投稿には芦雪の作品図版をいくつか転載しながら、芦雪の描く波が不気味な津波を思わせることを書いた。地震以降、筆者は心が安定せず、それはこのブログに表われていると思う。今年正月松明けの頃から裏庭の小川沿いの小道を掘り返し、瓦礫掃除をし始めたことを思い出す。春草が生えて来るまでの間にそれを全部終えようと考え、暇を見ては精を出した。結果的に現在2メートルほど残して放ったらかしにしている。筆者は何事も中途半端で、そのことがそんな掃除にも表われている。それはいいとして、瓦礫を掘り返したために手を痛め、右手の小指はその後治るどころか、逆にひどくなっている。特に朝目覚めた時がそうだ。左手で握って曲げなければならないほど関節が硬直している。それもまたいいとして、瓦礫で思うのは、東日本大震災で今なお片づかない瓦礫の山だ。筆者の瓦礫掘りはそれを予感していたかもしれない。瓦礫掘りなど今までにやったことはなかった。それをなぜ今年になって思い立ったのか。筆者は何事も自分の意思で行動しているつもりだが、自分で気づかない無意識も含むと思える。それはよく夢と結びつけて考えるが、ここ10数年ほど、ある決まった夢をよく見る。同じ映像ではないが、自分では同じ内容の夢であることはよく知っている。思い出すと辛い夢なので、なるべく日常は忘れるようにしている。その夢を見る原因はよくわかっているが、見ないようにする方法はない。夢は無意識で勝手に見るものであるという理由からではない。そして、先頃の巨大地震があった。今後はその夢を見なくなるか、見ても全く別のものに変わるのは確実だ。10数年間、何度も見た夢が地震を引き起こしたと言いたいのではないが、地震が生じたことで、筆者はその夢から開放されることを知っている。それで辛さがなくなるかと言えばそうではなく、逆に増すかもしれない。だが、それが生きている実感でもあって、今後どのように推移して行くのか、その落ち着きどころを見定めてやろうという思いがある。それは怖いもの見たさと言うのではないが、洞穴の奥にどんどん入って、その果てに何があるのか確認しようという思いに似ている。そのように、地震後筆者を取り巻く状況は変わった。どこかでそれは自分の意思でどうにでもなるものとも思ってはいるが、無理にねじ伏せず、流れに身を任せてみるのもいいではないか。
長沢芦雪展は6月5日まで開催中だが、地震の影響で人気の方はどうなのだろう。まんの悪い時に開催されたが、関西は地震の被害の影響を直接には感じられないので、新緑の季節になって大勢訪れるだろう。初公開作も含めてこれだけまとまった内容の芦雪展は初めてだ。それが国立博物館ではなく、MIHO MUSEUMで開催されるところ、この美術館の健闘ぶりがうかがえる。芦雪の作品を最初に意識したのは、至文堂が現在も毎月出している「日本の美術」の応挙と呉春の巻で1973年だったと思う。そこに竹に雀を何羽か描いた巻物の図版が出ていて、その筆の達者ぶりに舌を巻いた。その作品は今回出品されていないが、雀を描いたものは3,4点出ている。それらの雀は「日本の美術」で見た雀と同じ特徴がある。竹内栖鳳も雀を得意としたが、その大先輩が芦雪であった。そこには応挙からつながる京都画壇の系譜がある。応挙は筆者はさほど好きではない。真面目で立派な絵を描くことはよくわかっているし、古代ギリシア美術で言えば古典期に相当するとも思っている。だが、クラシックとされるものは、いいのはいいが、時に面白みに欠ける。その面白みとは笑いにつながった感覚で、真面目さ一方ではやり切れない空気に風穴を開ける。それが過ぎると露骨になり過ぎて卑しい感じが勝るので、クラシックを基礎に、わずかにバロック調を混ぜた程度がいい。芦雪は応挙に学んだ。これはクラシックというものを徹底して学ぶことであり、その中で才能が著しいものはなおさらもがき苦しむだろう。これが呉春の場合は、最初蕪村に学んだので、その後応挙に就くことになっても、応挙とは別の方向性があることをよく知っていて、いわば余裕があったと思える。とはいえ、応挙に就いて以降の呉春の作は、技術的にはすっかり応挙の追随となったと見てよく、よほど応挙のクラシック度が鋼鉄のように頑健であったかがわかる。芦雪はその技術を最初に徹底して学んだので、初期の作はほとんど応挙と紛らわしい。あるいは呉春以降の四条派なら、たいていの画家が描いたような内容だ。そのために芦雪の贋作はとても多いだろう。技術が勝ったものであるから、その技術を学べば表面的にはきわめて似た絵が出来る。その機会は京都ではいくらでもあった。
芦雪が応挙の画風に飽き足らなくなったとして、それはより若き世代、そして世に名を大きく遺すほどの才能であれば当然のことだ。それを応挙が好ましく思わず破門を言いわたしたしても、それは応挙の限界を物語るとも言えるのではないか。芦雪よりも若い世代になお応挙そっくりの絵を描く才能はたくさんあったが、絵は技術を習得した後、それに寄りかかっているだけではだめで、何か新しいことを表現せねばならないと思う方がまともだろう。ただし、そういう絵がどこまで歓迎され、売れるかとなると疑わしい。ほとんどの人は応挙を好み、それ風の作を求める。となるとごく一部の趣味人のみ相手にするということになるが、芦雪も生きていかねばならないから、そう奇抜なものばかりは描いておれないし、また本人もそういうことばかりをしたかったわけでもないだろう。そのどこか中途半端なところが芦雪という画家の本質をわかりにくくしているが、先に書いた雀を描いた巻物に筆者が感じた個性は明確に芦雪にあって、応挙に技術を学びながらも人格が違えば絵は別物になることを示している。そしてその個性による応挙とは違う何かこそが芦雪の持ち味で、それを直感で味わえる人はファンになるだろう。その持ち味はクラシック期の後に必然的に訪れるものと言ってよい。その意味で、芦雪は京都にあって新時代に即した最前線の才能であったが、芦雪の業績を誰かが継いでそれをさらに発展させたということはない。その意味で新奇なものであった。この新奇は「奇は新なり」と言うのとは少し違うように思うが、芦雪に奇や新の要素が強いのは応挙の作と比べるとよくわかる。そして、その点がどこまでも芦雪を応挙を越えない弟子という損な役回りを演じさせてもいるが、歴史的評価や世間での評判など気にせずに、気に入った画家の気に入った作を楽しめばそれでよい。そして筆者にとってそんな作が芦雪にあるかとなると、手元の分厚い図録を繰りながら、これは手元に置きたいなという作がさほどない。それは芦雪の奇が自分の肌に合わないというのではない。全体的に見ていて楽しみが伝わって来ず、何か破れかぶれの凄みと言おうか、見ていて辛いような陰のエネルギーめいたものを感じる。それはそれでまた江戸時代の京都では稀なことで、現代性を体現していたとも言えるが、緻密に描くかと思えば、思いつきの面白さが表に立ってきわめて手抜きをした感じの作が目立ち、幕末が近づいて来ている末世観が漂っている。
芦雪は46で死んだ。その原因はわかっていないが、自然死ではない。作品からはそういうことが伝わる気がする。今回図録の表紙に拡大印刷されたのは、1寸四方の小画面に五百羅漢を描いた作で、これは83年間行方不明であった。皆川淇園は同時代の画家では特に芦雪の絵を愛したが、淇園はこの絵について記録している。また淇園は毎年新書画展を開催し、その中には最晩年の若冲の絵も含まれたが、自ら書画をよくした淇園は新しい奇抜な絵を求めていたのだろう。そこに芦雪の才能があった。「方寸五百羅漢図」は細密画の頂点にあるような作だが、これは視力がよくて、極細の線を引くことの出来る筆があれば、そして器用な画家なら誰でも描けるもので、意外性の面白さはあってもそれを出ないのではないか。誰もやらなかったようなことをやろうとするのは、自己主張の強い画家ならたいてい考える。そして、そういう奇抜さは繰り返しをした途端にさっぱり面白いものではなくなるから、次から次へと同じように奇をてらった作を編み出そうと考え込むことになる。そして、そういう才能は現在ならイラストレーターあたりが担当しているもので、商品を売るための宣伝と結びついて求められてもいる。芦雪の時代はそういうことはなかったので、「方寸五百羅漢図」を描いても知識人の間で多少話題になり、誰から買えばそれで終わりであった。それが今頃になって展覧会図録やチラシに大きく印刷され、人々を改めて驚かせることになっているが、そのことで今さら芦雪が裕福になることもない。そう考えれば、やはり「方寸五百羅漢図」を描く行為は、画家が自分を満足させることをまず第一に思ったわけで、そういう絵を描こうとした芦雪の思いを分析してみたくなる。これは技術の誇示以外に何があったろう。人を驚かせることが自分を印象づける最大の方法と思っていたとすれば、この点は応挙とはやはりかなり違うだろう。驚きは一瞬で、長くは持続しない。そのため、驚きに訴える絵は長らく愛好はされない。かといって驚きのない絵は退屈であるし、技術と描かれるものとの兼ね合いは難しい。芦雪は何を夢見ていたのだろうか。夢にうなされるようなことがあったのだろうか。自分の画業がそのまま続けばどこへ到達するか知っていたのだろうか。その落ち着きどころを見定めてやろうという思いから、洞穴の奥にどんどん入り込み、その果てに何があるのか確認しようとしていたであろうか。画家が好きな絵だけを描いて生活して行くことの困難さは昔も今もさほど変わらず、時にはあまり意に沿わない注文に応じて流れに身を任せたような気がする。そして、そういう作にも芦雪らしさが確認出来るところに、強い自意識を持った近代間近の画家の姿を見る。