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●『大英博物館 古代ギリシャ展-究極の身体、完全なる美-』
極に身体と聞くと、究極の精神はどうなのかと思ってしまうが、これは目に見えないだけに捉えどころがない。そのため、究極の身体は完全なる美であり、完全なる美は完全なる精神の産物でもあると言いたいのかもしれない。



●『大英博物館 古代ギリシャ展-究極の身体、完全なる美-』_d0053294_20172185.jpgまた、究極な精神と聞くと、禅僧の修行のようなことを通じて獲得出来るものと日本では思いがちだが、究極な身体も運動で鍛え上げることで得られるから、究極なるものは何でも人一倍鍛えることでしか手に入らないものと思ってよい。で、まだ究極な精神にこだわれば、それは具体的にどういう状態の精神かと思う。仙人でも美女の足を見るとふらっと魅せらて地面に墜落するのが現実であり、鍛え上げた精神がどれほど強固なものかは、昔から大概の人は疑問視しているかもしれない。たとえば、今回の展覧会ではギリシャ神話の代表的登場人物が10名ほど取り上げられて説明パネルに性質が書かれていた。その頂点に立つゼウスが浮気者で、とにかくあちこちで女性と交わるから、きわめて人間臭い。それが究極の精神と古代ギリシャ人が言いたかったとすれば、エロスを隠して否定しがちな禁欲性こそ、反究極の精神ということになる。ゼウスは正妻のヘラには頭が上がらないところも人間的で、またヘラはゼウスの多情ぶりに悩まされ、嫉妬深くなっている点は、ギリシャ神話は完全に男が作ったと思わせられるが、男女の権利が等しいとみなされるようになった日本の現在では、ゼウス的な女もあればヘラ的な男もあると考えられているはずで、性に関しても女が男に浮気されて泣くだけの存在とは言えなくなって来ている。ゼウスがあちこちで子を儲けるのは男の性の本能をきわめてまともに表現しているが、女のそれも実際は同じはずだ。それにたがが締められていたのは、女がそれを貪り過ぎると、男の間でいろいろと面倒なことが起きると考えたからで、男が女の性の欲望をコントロールして来たのではないだろうか。それは特にキリスト教が広まってからだ。仏教でもそれはあって、女は神を崇める山に入ってはいけないなど、男よりも穢れているとみなされた。これはたとえば男が命じるとおりに他の男と交わったするマゾヒスティックな性癖があるなど、社会のルールを根底から覆すようなことを女の方が平気でやりかねないことを、男が知っていたからではないだろうか。
 D.H.ロレンスがそうした社会の抑圧や因習を嫌悪し、ギリシャ時代のおおらかな性を謳歌した時代を賛美したのは、男の本能を肯定したからでもあろうが、ロレンスのすごいところは、他人の奥さんで子が3人もあった女性と駆け落ちしたことだ。ゼウスのようなその無鉄砲ぶりは、現在ではまず非難される。そんなことを許すと、迷惑する人が多いという理由だが、ロレンスは芸術家であり、どうにか食いつないで行く過程で文学者として次第に認められ、生き方と作品が一致している点はさすが歴史に名を残すだけあった。ロレンスは芸術家や知識人だけがそうした恋をする価値があると自惚れてはいなかった。肩書きはむしろ嫌い、純粋に男と女として引き合うものがあるかどうかを問題にした。だが、このように書くと、盛りのついた動物の雌と雄みたいで、精神がないではないかと言う人があるかもしれない。特に人間の女性は男によってマゾヒズムが高められることがあって、倒錯したセックスでなければ感じないということになったりもする。それでもその男女が本当にそれでいいのであれば問題は何もない。そういう性倒錯の世界はギリシャ時代の作品にもあったし、文明国家ではどこにでも見られるだろう。ただし、現代の露出趣味は隠すから生まれたもので、キリスト教文明以降、ますます強くなったものだろう。ギリシャ時代にはさほではなく、もっと大らかで、他人に性行為を見られても案外平気であったかもしれない。そういうことを調べた研究書がきっとあるはずだが、こうした展覧会ではまず取り上げられない。ただし、今回は性を表現した若干の作品が珍しく展示され、性に関する情報が氾濫しているネット時代にわずかでも追い着いた感があった。ギリシャ時代のそうした性表現は彫刻にもあるが、主に壷絵に描かれた。そうした絵ばかり集めた本があって、現代の性行為との比較を論じた人もいるかもしれない。
 ギリシャはオリンピック発祥の地であるから、今回もNHKで放送される番組からの抜粋として、現在の俳優が演ずる古代ギリシャのオリンピック競技の様子が映じられた。素っ裸で走ったり、また円盤を投げたりする若い男性たちが出演し、それは見方によれなホモが喜ぶものであるかもしれない。ギリシャ時代に男色はあったから、鍛え上げた身体を持った若い男性が裸で走る様子を、男がうっとり眺める場合もあったと思える。そこには一概に大らかとばかり言えない隠微なこともあったかもしれないが、そういう微妙な感情を造形作品に表現することは古代ギリシャの作家にあったのかどうか。ギリシャ美術はヨーロッパの規範になって、ローマはそれを模倣しただけと言ってもよいが、ギリシャ時代のオリジナルが失われても、模造すたローマ時代のものがたくさん残っていて、それでギリシャ時代のものはもっとすごかったであろうと想像することになっている。だが、そういう模倣作品とは違って、ローマ時代ならではの作品はやはりあるし、それはギリシャ時代が手がけなかった領域に属する。そしてその後の時代はそれを繰り返し、その果てに現代ではコンセプチュアル・アートが登場した。人間が2000年や3000年で変わらないとすれば、ギリシャ時代にもコンセプチュアル・アート的な考えを抱いた者はいたかもしれない。ただ、そういう人物がそれなりに作っても歴史には残らない。そして今伝わっているのは、量産された分野の作品で、古代ギリシャの世界はこうした展覧会で紹介される作品から想像するとおりではなかったかもしれない。だが、それを思っても仕方がない。現代に伝わった作品から当時をしのぶしかなく、そしてそれはやはり究極の身体、完全なる美ということなのだ。また、伝わっているよりも失われた名品の方がはるかに多いはずであることは言うまでもなく、その伝わっているものですら、究極の身体、完全なる美であるならば、ギリシャ時代は本当にその言葉にふさわしい芸術を生んだと言える。今回特別に1部屋で独立展示された「円盤投げ」は、原作から600年後のローマ時代の模刻で、しかも同じようなコピー作は世界に大小22あると言う。それほどに模倣されたことは、原作がいかに素晴らしかったかを示す。
 古代ギリシャ美術となれば、彫刻が最も有名だ。神殿は運べないし、またその内部にあった壁画は失われた。そのため絵画は壷に描かれた絵で想像するしかないが、この壷絵がまた素晴らしい。最初は像を黒くした技法であったものが、その後赤像式のものが生まれ、やがてはそのどちらでもなく、白い陶器肌に色の線で描くというように時代は進む。これもどれが面白いかは人さまざまだが、赤像式は様式化が目立つ黒像とは違って、画家の自在な精神の発露が見られ、しかも力強く、古典時代の産物であることがわかる。これらの壷は割れやすいこともあってギリシャには伝わらず、当時輸出されてイタリアの古い墓の副葬品となって19世紀に見出された。大量にあったので、画家を特定することが出来ることもあるほどで、また時代ごとに表現が変わって行ったこともわかる。古代ギリシャ美術は初期のエーゲ海文明を除けば、アルカイック期、クラシック期、ヘレニズム期の3つに分けることが出来、それぞれが特徴を持って、またファンもある。筆者は古風なアルカイック期が好きだが、これはエジプト美術の影響を受けている。彫刻を見るとそれがわかる。そういう影響を脱するのは文明国家としてはごく自然で、またやや稚拙で型にはまった表現が洗練され、均整の取れた美を追求するようになる。それが今回の展覧会の副題の「究極の身体、完全なる美」で、その造形はそれ以前の他のどの文明も生み出さなかったもので、古典と呼ばれるのはもっともなことだと誰しも納得するだろう。完全に鍛え上げた肉体を、しかも動きを含めた表現として大理石を写実的に彫ること自体、どこか人間離れしたところがあるが、それでいて無理をしているようには見えない。これがヘレニズム期になるとそうではなくなって来るが、同じような変化はどの国のどの文明にも生ずると言ってよく、その見事な見本が古代ギリシャにあった。その見事さはもっと簡単に説明するならば、たとえばビートルズのデビューから解散までの活動と相似していると言えばよい。そのため、古代ギリシャ美術のファンというものが存在する。また、面白いのは最初期のエーゲ海の造形として分けて考えられる彫刻や絵画は、抽象的なものが中心で、それがアルカイック期になると写実味を帯び始めるが、写実が最初でその後に抽象があると考える向きにはこのことは理解し難いかもしれない。ここが美術の面白いところで、抽象から写実、そしてまた抽象と、何度も変転しながら時代に応じた様式が生まれて行く。
 そこで誰しも思うのは、現在がどういう時代であるかだ。何でもありの現在であるから、ひとりの作家が今日は抽象をやったかと思えば明日は具象といったように、無節操こそが流行と考える向きもある。だが、古代ギリシャ時代の美術が現在残っているものでしか考えられないのであるから、現在の美術も1000年ほど経った時にどれが残っているかで判断される。つまらないものは淘汰されるなりして残らないから、逆に考えれば古代ギリシャでも現在思うより、つまらないものがたくさんあったかもしれないし、そうしたあるまとまった分野の何かがほとんど失われたこともあるかもしれない。そうなると、現在の古代ギリシャ美術観は、かなり歪なものであることも考えられる。何が言いたいかと言えば、究極の身体、完全なる美とは異なる部分もそうとう含んでいたかもしれず、現在と事情は大差なかったかもしれないことだ。書いていてつまらなくなって来たので、もうやめるが、あれほどの大帝国のローマが歯ぎしりしながらギリシャの彫刻をせっせと模倣し続けたのは、雑多猥雑なものを一方に含みながらも、やはり古代ギリシャは完璧の言葉がふさわしい作品を多く生んだことは間違いない。その一方、現在はとてもそんなことは無理なような気がする。雑多で猥雑なものばかりが氾濫し、その中から珠玉のという言葉がふさわしいものが選別され、後世に伝えられることがあるだろうか。古代ギリシャの美術と聞くと、筆者はいつも届かない神の領域にあるものという思いが浮かぶ。どの国にもそれなりの神話はあるが、それを見事な造形作品として表現した古代ギリシャの芸術家は、ちょうどゼウスがそうであったように、自分を神であり、人間でもあるという絶対的な自信に対する信頼があったのではないだろうか。そして、それは究極の精神と言い換えてよいだろう。ともかく、究極な精神とでも呼べるものがなければ、後世まで語り継がれる名作は生まれない。その究極な精神は、あらゆるものに対して禁欲的ということとは少し違うと思う。ここまで書いてもう今回展示された作品を紹介する気力がなくなったが、誰しも予想するように、超一級品ばかりが勢ぞろいということはない。だが、古代ギリシャ美術の展覧会はめったにないし、端的にしかも間近で味わうにはとてもいい機会だ。筆者は鳥博士さんからもらった招待券で4月22日の金曜日に急に思い立って出かけた。その日はとても印象深いことが別にあって、夜には長文の手紙を自筆で書いた。そのことが今も気になっている。
by uuuzen | 2011-05-06 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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