夫が浜口陽三であることを今回知った。妻が南桂子という名前であるので、夫婦で別姓を名乗っていた。4月24日までが会期であったが、20日に京都駅の伊勢丹で見て来た。

さて、手元に浜口陽三展の図録がある。1985年に万博公園内の国立国際美術館で開催された小ぶりなもので、年譜がついていないのが不便だ。巻頭のエッセイには妻の南桂子のことは一切書かれていない。これが不思議だが、芸術家は夫婦であっても仕事は別物で、ついでに南桂子のことについて触れるのを躊躇したのだろう。だが、今回の展覧会では夫が浜口であることが紹介されていたから、女性の方が低く捉えられていると思ったりもする。あるいは、浜口と南は1953年にパリにわたっているが、それは結婚という形ではなく、同棲であったかもしれない。そして、いつ正式に結婚したのか、これは今回の展覧会でも明示されていなかったと思う。一緒に暮らしていることは夫婦と考えてよいし、子どもを作らなかったようであるから、普通の夫婦とは違って、独立心をお互い抱いていた芸術家同士と見てよい。そのことは両者の作品を見ればわかる。同じ銅版画ながら、技術は全然異なる。浜口はメゾチントで面を主にした仕事だが、南は線を主にする。それに画題も、訴えて来るものも違う。それでいて、緻密な仕事という点では共通性があり、一緒に暮らしていたことに納得が行く。芸術家の夫婦は少なくないが、同じ銅版画でありながら、違う技法と画題というのは、お互いの仕事を尊重し、またライヴァルでもあったのではないだろうか。だが、浜口にも南にもそんな闘争心のようなものは皆無だ。むしろ孤独や哀愁が支配的で、一緒に暮らしながら、変化に乏しい淡々とした生活ではなかったかと思う。先日書いたが、芸術家の奥さんに筆者はそれなりに関心がある。どういう妻が理想かとなれば、筆者は自分と同じ仕事に携わる人物でない方がよい。お互い相手の仕事のやり方が気になって、喧嘩ばかりするのではないかと思うからだ。かと言って、全く筆者の仕事を理解が出来ないのも困る。そして、同じように創作的な仕事をする人物であってもいいとは思うが、そうなるとどちらがより有名になるかでまた闘争心も湧くかもしれず、結局は創造的な仕事ではない方がいいのかもしれない。また、女性の画家は概して落ち着いた雰囲気の人が多いように感じるし、絵を描くことに没頭出来る分、男に頼らないところがあって、かわいさに欠けるような気もする。さりとて、べったり甘えられるとしんどいので、妻として長年連れ添うのはなかなか難しい問題ではある。
浜口は1909年和歌山生まれ、南は1911年富山県に生まれている。浜口は2000年に亡くなり、南は2004年であるから、ともに長命であった。1982年にパリからサンフランシスコに移住し、1996年に帰国したから、40数年を海外で過ごしたことになる。これはほとんど外国の作家と言ってもいいほどだ。浜口も南も作品は小さいので、一部屋あれば充分で、贅沢をしなければ外国でも暮らして行くことは出来た。なぜ外国暮らしを求めたかだが、浜口は旅行癖、放浪癖と呼んでいい性質で、南はそれに引きずられた形ではないだろうか。浜口の若い頃の顔写真は知らないが、南のそれは今回紹介があった。フィギュアスケートの鈴木明子に少し似ているが、もっと意思の強そうな顔をしている。南は最初童話作家を目指し、また油彩がを描いていて、今回はそれらも少し紹介された。童話はさびしい印象のものが目立ち、その世界をそのままやがて銅版画で表現したと言ってよい。可憐な文学少女のまま生涯銅版画を作り続け、その一貫性にひとりの人間の生涯にわたる変化のなさを見るし、また芸術家として見事な姿勢であった。浜口もそうだが、南には専売特許的な技法と画題があって、それら決して多くない手の内をゆっくりと最晩年に向かって変化させ、途中でだれることなく、着実に深みを増して行ったのは、日常生活に大きな事故などの変化がなかったことと、強い意思があったからであろう。南の晩年や最晩年の写真は展示されなかったが、それはどうでもよく、作品を見ればいいということだ。また、人間は寿命があるので、南にしても93で死んだが、もっと長生きすればもっと作品が微妙に変化したであろうと思わせられるほどに、ある時期の作品は次の時期の作品に無理なくつながっており、またどの作品から伝わる質に変化がなかった。その強靭さと柔軟さは、ただ寿命が尽きることで断ち切られるだけで、そう思えば南はいつ死んでもよかったと言える仕事を生涯し続けた。これは幸福な芸術家像である一方、核となるものに生涯固執し続けたものが何であったのか、またそのことが苦しくはなかったかなど、いろいろと思わせられることがある。
南が最もよく用いたモチーフは少女だ。これは浜口も50年代初頭に手がけており、どちらが先かわからないが、男の浜口が手がけるのと、妻の南が、そして最晩年に至るまでそれを用いたことは、意味が大きく違うように思う。男が女を描くのは自然なことに思える。美しいものとして捉える思いがあるからだ。だが、女性が少女を美しいと考えて描くだろうか。そこには男にはあまり立ち入ることの出来ない思いがあるように思う。そして、そんな南を傍らで見ていた浜口は、どこかで疎外されているように感じることもあったのではないかとも思う。だが、それこそが一緒に暮らしながらお互い独立した仕事を続けた芸術家夫婦であって、浜口はそういう南を尊重し、自分の仕事に精を出したに違いない。また、南が描く少女はどの顔も同じと言ってよいほどで、変化があるとすれば、後年になるにしたがって眉間に皺が目立つと言おうか、表情がより険しく、また深みを持つようになる。その深みはどの作品にもあって、一見同じようでいて、作品の時期ごとに少しずつ色も技術も変化したことに呼応しているが、その変化の速度が、一歳ずつ年齢を加えるごとに顔に皺が増えること同じで、ごく自然で無理がない。それに、南の作品は衒いがない。絵が作家の性格を示すものであれば、南のそれも作品に表われていて、しかも南の場合はなおさらそうであったと思わせられる。こうすればきれに見えて人気を博するかといった、人に媚びるようなところが全くない。そのため、自分の汚れさ加減を指摘されてもいるようで、見ていて辛くなるところがあるほどだ。そして、その純粋さが少女のモチーフに最もよく出ていて、この少女は南の分身であると思えて来る。また、少女が純粋とは現実的にはどういうことを指すだろう。処女のことか。そうとも言えない。性の喜びを知っているかどうかに関係なく、純粋な心というものはある。おばあさんになってもそうであるはずで、そのひとつの例が南であったのだろう。数十年の間、全く変わらない思いを表現し続けたこと自体、南の心が若い頃のまま瑞々しさを保ったことだ。その精霊が南が描く典型的な少女で、これは言いかえれば南が心の宿し続けた仏像のようなものに思える。何かよりどころとなるものを南は求め、そうして自分の分身としても少女像を生み出し、それを繰り返し描いた。そこには芸術が表現すべきものは何かという明確な信念のようなものがあったと思える。そういう気高い思いがあったからこそ、数十年にわたって1本の筋の通った仕事を続けることが出来た。
少女以外によく描いたのは鳥だ。その鳥の飛ぶ姿を少女が見つめるという構図は少なくない。鳥は少女が思いを託す存在とも考えられる。少なくともある場所に固定された人の生活とは違って、鳥は自由だ。その自由の象徴を見つめる少女の眼差しが悲しみの色合いを帯びるのはなぜか。笑顔ではなく、南はいつも思索にふけるような眼差しの少女を描いた。そうしたことを芸術家が自分を売るためのひとつのポーズとみなす人もあるかもしれない。だが、先に書いたように、南にはそういう計算はないように見える。限られたモチーフ、しかも少女にしろ鳥にしろ、花にしろ、写生を重ねて単純化したものではなく、会場に展示されていたが、図鑑を見て一気に文様的に描いた。そしてそれら記号化したモチーフを使って数十年も描き続けるのであるから、色や構図をどうするかといった技術上の工夫は欠かせなかったが、以前と同じようでほとんど変わり映えしないという謗りがたとえあっても、信念めいたことがあったために、容易に様式を大きく変えることを必要としなかった。そして、全体的な構図がごくシンプルというのは初期から晩年まで共通した特徴ながら、晩年になるほど細かく密集した線の表現が多くなる。それらはアール・ブリュットの作品に近いと言ってよいほど偏執狂的なところがあって、もともと悲しみを帯びた作品が、なおそう見えて来る。同じようでいて、やはり時代ごとに確実に変化し、しかもその変化は個人的な何かに負う部分も大きいだろう。南の作品はこれまでに雑誌で紹介されるなど、ファンはそれなりにいたようで、筆者もどこかで見た記憶があるが、それでいてあまりずかずかと入り込んで来ない。そこが南の作品の魅力でもあるのだろう。今回は研究書ともなる図録が作られたが、買わなかった。南の作品は一目でそれとわかる特徴があってそれぞれに完成度が高く、これが最高の名作というものがない。手がけたモチーフを鑑賞者は脳裏で解体し、自在に組み合わせることが出来る。その意味で、南の作品をもとにしたアニメーションが出来ると考える。そのストーリーや登場人物の性格づけは、南が若い頃に作った童話の世界につながっているのは言うまでもない。また、浜口のカラー・メゾチントと似たことだが、南の銅版画は数色使ったものがほとんどで、その色合いは晩年になるほど原色に近くなる。少ないモチーフと色合いによって、最大限の効果を発揮しようとの思いは浜口も同じで、どちらも短歌や俳句と通ずる作と言えるかもしれない。