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●『柴田晩葉-湖都のモダン日本画家-』
田晩葉という画家の名前は初めて知った。大津歴史博物館の開館20周年記念展で、大津が生んだ今は忘れられたも同然の日本画家を顕彰しようということだ。



●『柴田晩葉-湖都のモダン日本画家-』_d0053294_0563225.jpg3月5日から4月17日まで開催され、筆者が見たのは「街中のさびしい桜、アゲイン」に書いたように3月26日のことだ。今頃になって取り上げるのは、連休中は先月一度も書かなかったこのカテゴリーを少々穴埋めしておこうとの思いによる。ただし、どこまで思い出すことが出来るやらだ。全く知識のない画家のこうした大規模展を見ることは楽しい。2、3年に一度は開催されるような巨匠のものばかりではなく、同様の展覧会がもっと開催されていいと思うが、来場者数を考えるとそれも難しいだろう。さて、大津の日本画家と言えばまず山元春挙が思い出される。チラシの裏面には、晩葉は春挙の門人として大正時代の夜明けとともに画壇にデビューしたと書かれている。だが、春挙らしさはあまり感じなかった。大正のモダニズムの空気は強いが、筆者は都路華香の画風を思い出した。華香は晩葉より、生まれも没年も10年強早い。この年齢差は大正時代の空気を吸った者としては圧倒的なものがあるのではないだろうか。亡くなったのは1942年57歳で、敗戦を待たずであった。華香よりも個性が強くなく、画風は徹底しなかったように思えた。器用と言えばそうなのだが、琳派もこなせば俳画もありで、その多様性がかえって印象を弱くしている感がある。華香の大規模展が開催されたのは数年前のことであり、しかも評判は一部に留まったから、晩葉が今後再評価されて人気が拡大するとはあまり思えない。また、華香はアメリカ人の収集家がいるが、晩葉は今後そうなるだろうか。今回は新発見の大作を含む回顧展で、そこには京都神宮前の星野画廊の所蔵作が含まれる。埋もれた画家を発掘し、こういう形で紹介するのは、関係者の努力がうかがえて、展覧会が評判になることを願いたい。そう書いておきながら、いきなり晩葉が都路華香風で、しかも華香より面白くないと結論づければ、身も蓋もない。それで、以下記憶を頼りに思いつくまま書く。
 今回見出された大作は、チラシの表に印刷された「京の町」であろうか。これは2枚折りの屏風で、雪の降る町家を描き、一見して蕪村の名作「夜色楼台図」を思わせるが、空を描かず、密集した家並みで画面を埋め尽すのが面白い。こういう家並みはもう京都にはないに等しく、家並みを描いて情緒溢れる作品になった時代がどこかうらやましい。晩葉には俳画的な作が目立つ。蕪村の気質を引いていた自覚があったろう。それが伝統というもので、戦前の京都にはまだそれが強かったであろう。この「京の町」とそっくりな家並みを写したモノクロ写真が飾ってあって、大津の風景とあった。であるから、大津生まれの晩葉は、大津を写生して描きながら「京の町」と題したのかもしれない。あるいは、大津の戦前の家並みは京都そっくりであったかだ。こちらの可能性の方が大であろう。また、晩葉は京都絵画専門学校に学んだから、画題に京都が用いられるのはごく当然だが、大津を描いた作も多い。この中途半端とも言えるところが、晩葉を忘れられた存在にしたかもしれない。その点、華香は京都出身で、純粋な京都画壇の画家という位置づけがあって、晩葉よりも得したところがある。京都の隣ではあっても、大津はやはり田舎だ。その出身で京都生まれの才能と互角に張り合うには、京都にずっと住み続ける必要がある。晩葉はそうであったが、チラシにもあるように、大津の情緒を育んだところが特異であり、その点を評価すべきというのが今回の展覧会の意図だ。大津の情緒というのは、たとえば画題に言える。晩葉に大津絵を描いた作品があるのは言うまでもないとして、大正時代にイギリスの皇太子が琵琶湖を遊覧した折り、晩葉は全20図の近江の名勝画帖を献上している。かしこまり過ぎたのか、その作品はあまり印象に残らないものであったが、晩葉にはそういう真面目な作品と、大津絵や俳画的な作品がある。会場の説明書きには後者をマンガ的と記していた。大津絵がそう表現されるのであればそうだろう。だが、晩葉のそうした軽妙な作はとても清潔な感じが漂う。それは華香も同じなのだが、現代の日本画が失ったものはそういう味わいではないだろうか。大正のモダニズムの洗礼を受けながらもそういう清冽さを失わなかったのは、戦前の日本が戦後の日本とは別物であったと思うしかない。晩葉はフランス語を学ぶほどに外国に関心があったと言えるが、作品は西欧を描いたものはなかった。では何のためにフランス語を学んだか。西欧を旅するだけのためならば、そこまでしなくてもいいだろう。それに晩葉はフランスには行かなかった。教養としてフランス語を学ぼうとしたのであれば、その態度は作品に何らかの形で表われているはずだ。大正モダンの空気を吸いながら、もっとそれに接近して新しい日本画を生み出そうという思いであったに違いない。作品の画題からは直接には見えないそうした精神性を見つめるべきで、その点は華香の作品も同じだ。
 短冊や色紙などの小品がたくさん展示され、それらにも晩葉の特徴がよく出ていた。そうした小品は日本画家であれば誰しも似たものを描くことが出来たが、元来俳画的な作を得意とする晩葉であったので、なおさらであった。京都の五色豆のどこかの店が今でも晩葉が描いた包み紙を印刷して使っていて、それも展示されていた。鴨川の友禅流しを簡略的に描いたもので、川面に漂う友禅の色が五色豆に通じている。これも小品の部類だが、印象に強く、晩葉がマンガ家やイラストレーター的な才能を持っていたことをよく示す。そうした小品はネット・オークションでもたまに出て比較的安価で買えるから、手元において見つめればこの画家の持ち味がもっとよく実感出来るのではないだろうか。また掛軸でもまだまだ市場にはあるようで、戦前の味わいを持つ晩葉のそうした作は現在の日本画家は描けないから、アメリカ人の収集家が現われないうちに買っておくのがいいかもしれない。大作としては「京の町」意外に屏風や襖絵がいくつも展示されたが、他の同時代の京都の画家でも描くような雰囲気があって、印象に強いものはさほどなかった。会場は晩葉の作だけでは埋まらなかったせいか、同じ会の作者のものも展示された。もっと作品が発掘され、頻繁に見る機会があれば、晩葉の画風がもっと認識され、見る目が違って来るように思う。それにはまた、たとえば華香との作品の比較展示もあっていいだろう。チラシ裏面には「寿老人」の小品が印刷されているが、それとほとんど同じと言ってよい華香の作がある。また、龍を描いた青龍寺の襖絵は江戸時代の龍図とは違うモダンさが漂い、華香がよく描いた龍ほどではないが、似たものを感じさせる。縦長の掛軸で船を描いたものは、華香に学んだ冨田渓仙の作を思わせるものがあるが、これはどっちが早かったのだろう。ともかく大正時代の京都画壇の色合いを強く漂わせる画風は、100年経とうとしている現在、歓迎されるべきものになって来ている気がする。
by uuuzen | 2011-05-04 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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