巨匠の展覧会は2、3年に一度開催される。その中にクレーも含まれる。だが、今回の展覧会は京都と東京の国立近代美術館で開催されるものとしては初めてとのことだ。
少々意外だが、今まで筆者が見たクレー展を思い起こしてみるとそうだ。そして、国立近代美術館で開催するだけあって、今までにない切り口の充実した内容であった。3月12日から開催され、まだ早めの18日に行ったと思うが、1週間後の25日であったかもしれない。自分の行動をメモっていないので、また今日が何日であるかをほとんど気にせずに生活しているので、1か月以上経つと日づけがわからなくなる出来事が多い。ともかく、会場にはたくさんの人が来ていて、クレー人気を改めて確認した。チケットは招待券を鳥博士さんから送ってもらった。一昨日も数枚送ってもらったので、可能な限り見に行くつもりでいる。今回の展覧会のチラシはいつになく豪華で、客寄せのための真剣な努力が見える。こういうよく出来たチラシがあると、図録の売れ行きが芳しくないのではないか。クレー好きの筆者は、今までに開催されたほとんどのクレー展の図録を持っているが、近年はあまり図録を買わなくなり、今回もそうであった。回帰が2か月以上と、5月の連休を越えて15日まで開催されているので、図録は2、3年もすれば古書で半額ほどで買うことが出来るはずだ。そう思うと、古書に出そうもない図録なら買っておこうという気になる。チラシはA4サイズで、縦方向に観音開きになっている。それが閉じた表面の中央部分は、クレーの水彩画が二分割される形に印刷されている。クレーは作品を一旦描き上げた後、このように上下や左右に分割して、それぞれを独立した作品とした。号当たりいくら程度で売ったのか知らないが、作品の大きさが元来さほどでもないクレーであるので、分割するとさらに小さくなる。それはどのような家庭にでもさりげなく飾られるのにもって来いだ。ヒトラーが登場して故郷のスイスに戻らねばならなかったクレーは、絵を売って生活する必要があったので、そのために作品を分割したと思いがちだが、それもあろうが、切り離すと予想外の面白い絵が出来上がることを喜んだのであろう。それは最初から切り離した構図として描くのとは違って、絵に広がりをもたらすのではないだろうか。
小さな絵がほとんどのクレーであるので、今回は展示に工夫が凝らされた。通常の壁面だけでは足りなかったであろうから、臨時の展示用の壁が斜めにいくつか立てられ、その間を縫って見ることとなったが、そのために、作品を間近に鑑賞することが出来た。また、スイスのベルンにかまえたアトリエが数年前までそのままあったが、改装される際にクレー時代の窓枠や扉などが外され、今回それを使ってアトリエ空間が再現された。これには日本人が関わっていて、クレーの人気が日本で高いことをほのめかす。アトリエのあった建物はがっしりとしたアパートだ。その2階か4階か忘れたが、4部屋を占めるうちの1室がアトリエに使用された。20畳ほどで、やや正方形に近い。ドアを開けて奥がバルコニーで、右に二重窓があり、光が差し込む。改装する前に撮影された映像によると、バルコニーに出ると前庭があって大きな木が立っている。クレー時代も同じようであったかどうかわからないが、たぶんそうであったろう。クレーは自作をアトリエにたくさん並べて自分も写り込む写真を比較的多く残した。今回はそれらの写真に見える作品が割合出品され、写真で想像するより実作品が小さいものであることを感じた。また、写真によっては再現されたアトリエのどこに作品を置いて描いたがわかり、クレーの製作をより生々しく感じることが出来た。筆者が最も興味深かったのはこの再現アトリエ空間だ。画家がどういう部屋で描いたかは、作品には無関係とも言えるが、クレーの作品の大きさはアトリエの大きさによく釣り合っていて、会場芸術を唱えて巨大な作品がより作られる傾向にある現在、クレーの創造は無理のない、そして作者の手触りがよく伝わるものとして、突きつけている意味は大きいだろう。ともかく、今回はそういうクレーの創造の方法、製作の手法に焦点を当てるもので、クレー好きにとっても作品の面白さを再確認するのにいい機会であった。どういう手順で描かれているかといった問題は、絵を描かない人にとってはどうでもいいようなことでありながら、いわば小中学校の美術の授業で学ぶことからさほど遠い技法ではないクレーの絵画は、描かれた方法などがわかればより親しみを覚える。油絵具に麻の生地という、西洋画の一般的イメージからは遠いところにあるクレーの作品は、用いる画材に工夫を凝らし、またそれに見合ったいくつもの画風の作品を生んだので、小画面の作品がほとんどであるにもかかわらず、万華鏡を見るようなきわめて多彩な表現を獲得している。
チラシに書かれているように、クレーは生涯で約9600点の作品をリストに記録した。その最初は4歳の時のもので、この一貫した記録作業は、クレーのどの作品にも現われている、子どもの心を持った、そして清冽な味わいをよく示しているだろう。そういういわば完璧主義のクレーであったので、なお作画技術は表現を規定する重要なもので、それをおおまかにでも理解しておくことは無駄ではないどころか、欠かせないことと言ってよい。たとえばそうしたさまざまな作風のうち、今回「プロセス1」として紹介された「写して/塗って/写して|油彩転写の作品」がある。これこそ義務教育の美術の授業で学びそうなものだが、話は逆で、クレーやバウハウスがあったので、戦後の日本の美術教育がそれを取り入れた。つまり、クレーの画風はオリジナルだ。タネ明かしをすれば、「何だ、簡単なことだ」と思うかもしれないが、最初に考え出すことは大変なことだ。「写して/塗って/写して」は、まず鉛筆やペンで所定の線描きをする。それとは別に、黒い油絵具をその線描をすっかり覆うだけの面積で塗り潰した紙を用意する。線描をその黒い紙に重ね、先の尖ったもので線をなぞる。すると、線描の裏面に黒い絵具が付着するが、その線はあちこち滲んで汚れた、独特の味わいのあるものになる。それが作品のいわば骨描きになる。転写することによって、元はきれいであった線を、予想外の効果を付加したものにするのだが、それだけが理由ではない。その滲んだ線は油絵具であるから水を弾く。そのことを利用して、今度は水彩絵具で彩色を施す。滲んだ線はより滲むことがなく、また透明な水彩絵具の味わいとあいまって、クレーならではの個性的溢れる作風が表われる。また、そうして得た1点ものの作品を今度はリトグラフとして表現する場合もある。クレーは若い頃に銅版画の作品を作ったので版画には関心が深く、「写して/塗って/写して」の転写による作品も版画的な技法と言える。また同技法の作品は水彩絵具の多彩さを用いる場合が多く、それを版画で複数作るにはリトグラフが最適であったが、1点ものの作品とは違って、リトはリトの持ち味を出すことにしたので、双方を比較するとどちらも完成度が高いまま、印象は随分異なる。
「プロセス2」は「切って/回して/貼って|切断・再構成の作品」、「プロセス3」は「切って/分けて/貼って|切断・分離の作品」、「プロセス4」は「おもて/うら/おもて|両面の作品」で、これらはあまり説明がいらないだろう。「過去/進行形|特別クラスの作品たち」が最後のコーナーで、ここではクレーが売らずに手元に遺した作品を紹介していた。チラシによると、「自らの制作における試金石的ないし模範的作品」で、中には非常に緻密なものがある。そういう作品を見ると、売ることよりも、とにかく納得行くまで描き込むことが好きでたまらないといった思いが見える。売るのが目的であれば、もっと手抜きをするだろう。一見手を抜いたように見える作品でも、クレーはそれで過不足がないと思っていたに違いない。そのため、クレーの作品は線と色を自在に操ってどれも完成度が高く、どれもがクレーそのもので、どれが代表的技法であり、また代表作かは言えない。そういう画家は珍しい。手を変え、品を変えて何度も開催されるクレー展。次回はどんな切り口が示されるであろう。今回の副題が「おわらないアトリエ」とあるのは、過去の才能ではなく、現在でもなお新しい読み取りが出来ることをほのめかしているのだろう。小さな画面に自分の手と目を使って描くという絵画の基本は、パソコンがいくら進化しようが永遠のものであるはずで、今後も絶えずクレーを見習うべきなのだ。