窓から森村がスーパーマンのように飛び出している写真「イヴ・クラインとしての私」が、今回のこの展覧会のチラシ左上端に印刷されている。2010年の作品だ。

この写真作品が、題名を見ずに即座にイヴ・クラインのもじりとわかる人は、美術に関心の強い人だ。今年1月から4月まで兵庫県立美術館で開催されたこの展覧会、全く期待せずに出かけた。4月3日のことだ。会期途中で震災があったので、さほど期待されなかった入場者はより少なかったのではないだろうか。だが、筆者が出かけた日曜日はかなり人が多かった。1か月ほど経った今頃に感想を書くのには理由がある。何から始めようか。まず、イヴ・クラインが建物の2階の窓から飛び出す姿はかなり強烈に印象に残るらしく、ネット・オークションで筆者がよく本を落札する大阪なんばの古書店
クライン文庫は、イヴ・クラインに因む名前だ。ロゴも窓から飛び出すクラインの姿をそのまま使っている。また、クラインと言えば鮮やかな青色が有名で、オブジェを真っ青に塗ったり、女性の裸体に青色を塗り、その女性の拓本を取って絵画作品にするなど、前衛の言葉がまことにふさわしい作家だ。クライン文庫の店長とは何度か多少話したことがあるが、そう言えばクラインのどこが気に入ったのかは訊ねたことがない。だが、芸術に造詣が深い人でなくても、イヴ・クラインの作品は文句なしに格好よく見える。クラインがその青をどこから見つけ出したかだが、フランス人でニース生まれであり、地中海を思っていたのかもしれない。また、クラインは1962年に34歳で亡くなっているが、この夭逝も格好よさに大きく影響している。やるべき仕事をしてさっさと世の中から去る。会場が滋賀であったと思うが、昔クラインの展覧会があって、その図録表紙は裸女の青い拓本だ。若い女性をそのように絵画の道具に使えたクラインは、きっと女に持てただろう。「君たち、素っ裸になって絵具を全身に塗ってこの床に敷いた紙に泥んこ遊びのように寝転がってくれないか」「きゃーっ、素敵、楽しそうだわね。いいわよ」といった対話がなされたのではないだろうか。女性をそのように口説き落とせない男は格好いい芸術家になれない。それに、現代芸術はこのように文句なしにスカッとして楽しいものでなければならない。クラインはそれをやった。そういうクラインの思いを森村は継ごうとしている。筆者はこのブログで2、3度森村の作品はもう見なくていいといった思いを書いた。だが、今回の展覧会でその思いを新たにした。

森村が2階の窓から飛び出している建物は、パーマ屋だ。幸い、その写真には町名を記すプレートが写り込んでいる。「阿倍野橋筋3丁目」だ。便利な時代になったもので、ネットで調べるとすぐにその場所がわかるし、またこのパーマ屋が現存することも確認出来る。森村がなぜこのパーマ屋を選んだのか。これが関心事となり、このパーマ屋に行ってから展覧会の感想を書くと決めた。そして、今日天王寺に出て展覧会を見るついでにその場所に行った。その付近は家内が生まれ育ったところにほど近いが、再開発の真っ最中で、昔の面影は急速になくなりつつある。今日はまたパーマ屋のすぐ近くに集合店舗の大型ビルがオープンし、歩けないほどのたくさんの人が繰り出ていた。パーマ屋は森村の写真どおりに健在で、そして驚いたことに、森村はパーマ屋をそのまま写してはいるが、その前の道や画面奥は別の場所を合成している。2010年の時点ですでにそうであったはずで、パーマ屋と奥に走る路面電車以外は全部別のものを組み合わせているかもしれない。だが、古めかしい看板のパーマ屋だけは場所が確実にわかるうえ、この作品の重要な要素となっているところ、森村が思い入れのある場所なのであろう。このパーマ屋は車1台がようやく通れる細い道沿いにあって、2階の窓から飛び出すと、体を向い側の建物にぶつける。この写真を見た時、目に留まったのは路面電車、そして道路を走る後ろ姿の自転車男だ。その男は取ってつけたような印象があって、森村自身かと思わせると同時に、その場所に自転車男を嵌め込む必要を森村が思ったことを伝える。またこの自転車男は、キリコの絵を思い出させる要素だ。憂愁の色合いはそう言えばこの写真にも濃厚だ。路面電車は、このパーマ屋の奥に走る阪堺電車で、パーマ屋との距離感は森村の写真そのままだ。このパーマ屋界隈は狭い道路が網目状につながり、下町情緒が色濃い。筆者もそういうところに生まれ育ったので、そういう場所を歩くのは、懐かしくて自分が幼い頃に戻ったかのような錯覚を覚える。森村は筆者と同じ1951年の生まれで、しかもおそらく生まれた場所も3、4キロしか変わらないはずで、同じ時代の同じ街の空気を吸って育った。その意味で筆者が森村の芸術を理解出来ないはずがないとも思える。

今回知ったが、森村の生家は茶舗らしい。その店の内部で昭和天皇とマッカーサーが隣り合わせに立つ有名な写真のもじりを撮影した作品があった。天皇とマッカーサーの両人を森村が扮しているが、長身のマッカーサーを演ずるのは身長の面で苦労したろう。ふたりが立ち並ぶ周囲には古い茶箱がいくつも並んでいた。茶を売る店は裕福なはずで、そういう家から森村という作家が出て来たのは納得出来る。この茶舗の寺田園がどこにあるかもネットで調べるとわかる。先のパーマ屋から北東2キロほどだろうか。そこへは行っていないので、現在どのような外観をした建物かはわからない。この木造2階建ての店の外観を道路を挟んでこちら側から撮影した動画が映じられていた。セピア色の写真のようにモノクロで、またピントが半ばぼけたように処理され、建物の中からひとりの老人が表に出て来て、日よけのテントをハンドルを巻いて垂らす。それだけの映像だが、これはとても印象に強かった。その店はいかにも昭和の戦争直後あたりに建った風で、先のパーマ屋とその点で共通する。テントを巻くのは森村で、父か祖父に扮したのであろう。自分の出自をこのように作品にさりげなく写し込む森村は、今年60歳で、自分を、そして20世紀を回顧するつもりなのであろうか。それに、いかにも大阪人らしい遊び感覚に溢れる。先の写真「イヴ・クラインとしての私」の題名が示しているように、森村は過去の有名なイメージを自分の経験や記憶と合体させる。過去の有名なイメージを自身の内部に確実に蘇らせる、あるいは食べ尽すと言い替えてもいいが、そのためには自分独自の何かを付与しなければならない。その最短の道が、たとえば有名な人物の写真である場合、それになりきって扮装することだ。森村はこれをずっとやって来たが、それだけではないことを今回知った。もちろんそれが基本になっているが、なりきりの彼方にあるものは多様性を持っている。ワン・パターンの手法でありながら、意味するものがきわめて多彩なのだ。これは、ワン・パターンに徹したからこそだ。
静止した写真以外に今回は映像作品がたくさんあった。そのひとつに、レーニンに扮して壇上から労働者に向かって演説をするものがあった。場所は東京のどこかレトロなビルの前に置き換えられ、また夜だ。労働者は本物のホームレスを使ったのだろうか。あるいは、多少の演技もするので、そうではないかもしれない。森村は絶叫口調で、貧困の悲しさなどを訴え、最後には何度か手元から紙吹雪を下で見つめる労働者に向かって撒く。すると労働者たちはぞろぞろと、失望したような雰囲気でその場を立ち去る。ソ連が20世紀に崩壊したことを象徴する一方、ホームレスには現代芸術など何の興味も意味もないという現実も表わしていると言える。もうひとつ、三島由紀夫に扮したものは、三島が自殺する寸前に自衛隊の建物のバルコニーで演説したことをもじっている。森村はここで現代の芸術に関してその堕落を訴える。最後に演説し終わった三島・森村が見下ろす眼前の光景が10秒ほど映るが、人々は何事もなかったかのようにあちこち勝手に歩いている。つまり、誰も森村の演説を聞いてはいなかったのだ。現代芸術のあり方に関心のある人がどれほどいるかとなると、この映像が示すように、人口比率で言えばゼロに近いのではないだろうか。そのことよりも筆者は面白かったのは、森村が演説に託して唱えた内容だ。そこには森村が考える現代芸術の理想のあり方のようなものがある。それは自分が好まない他の現代芸術に矢を射るという形を取っており、またその矢とみなされた作品や作家が何となくわかる点が面白い。そして、そこから見えることは、現代美術家が決して仲よく交流してはいないことだ。これは当然であろう。森村の作家としての主義がこの映像作品では巧みに吐露されていると思える。

最長の映像作品は、最後の部屋であったと思うが、2010年の「海の幸・船上の頂上の旗」で、30分近かったのではないか。途中で少し眠ってしまったのは、セリフがなく、展開に脈絡がなく、夢のようであったからだ。最初マリリン・モンローに扮した森村が学生たちの間に現われ、講堂のような場所を後にして楽屋で化粧を落とし、そして兵士の姿になってドアを開けて隣りの部屋に移る。そこは鳥取砂丘のような海辺で、キリコの絵に出て来そうなガラクタを積んだ自転車を移動させるが、途中で同じ兵士が数人現われ、森村は白旗を掲げる。最後は兵士数人で日が繰れる海辺の築山でその白旗を掲げるが、それは硫黄島でアメリカ兵士が星条旗を同じ仕草で立てたことのもじりで、戦後の日本がアメリカにすっかり白旗を掲げた格好で政治や文化が進んで来たことを示しているのかもしれない。「海の幸」はもちろん青木繁の有名な絵の題名だが、その絵のイメージをなぞらえた兵士の行列の場面もある。この「海の幸・船上の頂上の旗」は森村の作品の今後をほのめかしている気にさせる。静止した写真よりも映像の方が、夢のように化した過去の記憶を現在に蘇らせるにはつごうがいいのではないだろうか。今回はもちろん写真も多かったが、A4サイズ程度の小さな液晶画面に、ごくゆっくりと動く写真があった。それは写真ではなく、映像と言うべきかもしれないが、そうした作品と「海の幸・船上の頂上の旗」のような映像作品との距離は短いように思う。静止写真作品は、手塚治虫やピカソ、ヨーゼフ・ボイス、ガンジー、アインシュタイン、毛沢東、チェ・ゲバラなどなど、かなり無理してなり切って、もはや森村の顔の特徴が皆無と思えるものもあった。ケータイ電話にカメラがつき、またパソコン化したことで、時代は写真から映像に移行している。簡便にいつでもどこでもびっくりするような映像を撮ろうと、誰もが思い、また実行し、それをネットに載せることが可能になっているから、よほどのことがない限り、人々は映像に驚かなくなっている。それを森村はわかっているはずで、またそういう時代に即した表現をしている自負はあるだろう。