響き合う心と言えば、とても素敵な言葉に聞える。これはこっちが働きかけて向こうが応えてくれることでもいい。それに、応えてくれるその向こうとは、人間でなく、何か作品であってもよい。

作品は無言でも、作者の思いが込められている。それが凝固した形で絶えず周囲に響きを発散している。作品に接することはその作者に接することだ。作者に会いたいのであれば、その作品を深く吟味することだ。筆者はどのような作品でもそのように考えることにしている。であるので、筆者に会いたいのであれば、実際に顔を見ずとも、この文章を読んでもらえればいい。また、筆者は自分の知る誰かに、筆者の知らない間にこれをいつか読んでもらえることがあるかもしれないという思いで書いている。そして、その誰かが、こうしたネットには姿を見せず、また音信が途絶えてままになっていることをさびしく思うが、そういう人がいつか筆者をネットで探した時にこれを見つけるかもしれず、それを思えば書く気力のある間は書いておきたい。一方通行の思いであっても、それがいつか響き合う可能性を持っていることは否定出来ない。何事も響き合いであって、それがないと人生はつまらない。さて、今日取り上げる曲の題名は、「やまびこ」や「こだま」と訳すのがいいだろうが、「響き合い」ではどうか。この曲を取り上げるつもりになった理由のひとつに、「やまびこ」という言葉がある。2週間ほど前にあることに気づいて愕然としたが、どうやらその直感は当たっていると思えるし、またそこには「やまびこ」が深く関係している。だが、その意味することは書かないでおく。取り上げるつもりになったもっと大きな理由は、このカテゴリーを始めた時からいつか書こうとずっと考え続けていたことの機が熟したからだ。先の愕然とした出来事に思い至る数日前、この曲が無性に聴きたくなった。そして、今月の最終日の今日はこの曲について書こうと決めた。この2週間ほどは毎日この曲を聴きながら仕事しているし、今も書きながら聴いている。この曲は現在の筆者の心境を最もよく反映している。それだけではない。この曲を今取り上げることは、時期と機会が響き合った行為であり、この20数年のある一連の出来事を総括し、それらを思い出す意味を持っている。これこそ「思い出の曲、重いでっ♪」であるが、その思い出の源になった相手はこの曲をおそらく知らない。そのため、完全なる一方通行だが、先に書いたように、作品に対して筆者が心を響かせ、こうした文章でそのことを記録することをその相手はいつか知るかもしれないし、そうなれば一方通行とは言えない。それに、筆者が思う特定の相手ではなく、これを読む見ず知らずの人であってもそれは同じことで、何かを感じ取ってもらえるのであればそれは響き合いにほかならない。

さて、この曲はアメリカのギタリスト、ジョー・サトリアーニが1987年に発売した2作目『Surfing With The Alien』に収録される。筆者がそのヴァージョンを聴いたのはずっと後年で、最初に聴いたのは2枚組CD『タイム・マシーン』の最後に入っているライヴ・ヴァージョンであった。ジョーのアルバムは最新の3枚ほど以外は全部所有するが、最も好きな曲が『タイム・マシーン』収録のこの曲で、彼のベスト作品と思っている。アマゾンの批評を見るとこのアルバムはすこぶる人気がない。だが、そんなことはどうでもよい。自分が心底響き合えるのであれば、他人の評など何ら気にすることはない。確かにジョーにはもっとわかりやすい、またとっつきやすい曲がたくさんある。筆者はそうした曲ももちろん好きだが、全体にそうした曲はいかにも若くて青い。『Surfing With ……』のマンガ・ジャケットは、筆者は昔から嫌いで、あまり頭のよくない若者相手という感じが強い。こういうジャケットでは収録される曲も最初から相手を選んでしまう。そうした深みのないデザインや、またそれにいかにも見合った曲は、筆者のような年齢になると何となく気恥ずかしい。ところがこの曲「エコー」は、ステージによっては10分を超える大作で、じっくりと聴かせてくれる。またジョーの叙情性がこれほど見事に結晶化した曲はない。演奏のたびに少しづつ姿を変え、それはこの曲にジョーが汲めども尽きない奥深さを感じてもいるからだろう。ジョーがギターを教えたというスティーヴ・ヴァイにはこういう曲はない。ヴァイにもリリカルな曲はあるが、ジョーとはかなり雰囲気が違う。どっちがいいかというのではなく、姿や顔を比較してみてのとおり、ジョーにはジョーの、ヴァイにはヴァイの持ち味だ。だが、この曲のような即興で綴る部分が半分以上を占めるものはヴァイの作品にはないのではないか。その意味で、ヴァイの曲はステージもCDも大差なく、筆者はどちらかのショーを見せてやると言われると、ジョーのものを見たい。だが、世間ではヴァイの人気の方が高い。客に見せるという意識や態度はヴァイの方が強く、またセンスがある。ジョーは小柄であるし、恥ずかしがり屋ではないだろうか。そのことがヴァイとは違った繊細さを生んでいる。
ジョーのアルバムで最初に買ったのは3作目『Flying In A Blue Dream』で、これは1989年の作だ。同年か翌年に聴いた。ヴォーカルも担当し、また全体にヒリヒリさせるような痛々しい感情がむき出しになっていることが意外であった。もっと別な印象を思っていたからだ。すぐに夢中になって別のアルバムを買うというところまでには至らなかったが、『タイム・マシーン』は93年に買った。そして最後の「エコー」を聴いてびっくりし、残りの作品を買い、海賊盤に手を出すまでになった。それでも「エコー」がベストの曲のまま今に至っている。この曲はヒリヒリする剥き出しの感情の塊と言ってよく、ジョーにしかない持ち味が全面的に花開いている。80、90年代を通じてこれほどの凍ったような、それでいて熱いギター曲はほかにはないような気がする。『Surfing With …』でもこの曲は最後に収録されている。『タイム・マシーン』ヴァージョンはCD発売の5年前の88年の収録で、また『Surfing With …』の翌年に当たる。聴き比べると、たった1年でこの曲がどれほど変化したかがわかる。前者は6分弱だが、後者は約8分で、この長さは2枚組CDならではだ。また興に乗ればもっと長く演奏するようで、13分近い場合もある。歌のないギター曲でそんなに長いものは珍しい。ザッパにも例がほとんどないだろう。即興部分が多いことはジャズに近いが、実際ジャズ好きはこの曲を歓迎するのではないか。また、ライヴではベースとドラムスをしたがえた3人で、その単純さもジャズ的だ。そして3人であるのに、またベースとドラムスはほとんど付け足しのような存在であるにもかかわらず、この曲の多彩は目も眩むばかりだ。ギター1本でこれだけ緩急強弱と感情の起伏に富み、また激しくも美しいとしか言いようのない曲はほかには知らない。この曲を録音したのはジョーが31歳の時だ。当時彼はどれほどの詩情を内部に蓄え、またそれを作品化しないではいられない思いを抱えていたのかと思う。若さだけは無理だ。おそらくうまく行かなかったことがあったり、失恋もし、そうした持って行きようのない思いをギターを弾くことで紛らわせ、そうする間にこの曲が出来たのだろう。それは演奏技術だけでは全く無理な話で、それ以前に何をどう表現したいかが重要だ。この曲をカヴァーする素人は世界中にいて、中にはかなりの腕前を見せる者はあるだろう。だが、作曲のもととなった感情や思いまで模倣出来ない。ジョーが世界的に有名であるのは、ただギターの速弾きが出来るからではない。
さて、これを書くつもりになった時、アルバム『タイム・マシーン』のディスク2を繰り返し聴きながら、脳裏に豊かなイメージが広がる曲があった。タイトルを確認すると、それは
「Always With Me, Always With You」で、この「いつも私と一緒、あなたと一緒」という意味は、「いつもお互い思っている」ということで、やはり響き合いが主題になっている。そのため、ディスク2ではこの曲と「エコー」が対になって思えるようなところがある。だが、「Always With Me, Always With You」が悲しみを幾分帯びた優しさとすれば、「エコー」はずたずたに引き裂かれたような激しい悲しみであり、また即興演奏部分がより多く、より長い演奏であるので、どちらかをとなれば「エコー」を取る。一昨日YOU TUBEを調べると、「エコー」の映像つきのライヴ演奏がふたつ挙がっていた。ひとつは『タイム・マシーン』ヴァージョンと同じ
88年のモントルー・ジャズ・フェスティヴァルでのもの、もうひとつは何と
2007年であった。筆者がジョーを聴かなくなって数年になる。そのためでもないが、ジョーは盛りの過ぎた過去の才能と思っていたふしがある。今もそうだが、それは「エコー」を聴いた後、どのアルバムもさほどいいとは思わなかったからだ。そのジョーが最初に録音した87年から20年後の2007年になってもまだこの曲を演奏していることに驚きつつ、YOU TUBEでその9分に及ぶ演奏に接すると、また驚いた。どう言えばいいか、88年の超絶技巧はなりを潜め、どこかぎこちない。ギターの音色が広々として冷たい空間を感じさせるものではないからでもあるが、それ以前に技術が衰えたように感じさせる。何しろ当時51歳だ。毎日訓練は欠かさずとも、抑えが利かないほどの達者な指使いが衰えて当然かもしれない。ではその51歳のジョーが羽根が取れた惨めな孔雀に見えるかとなると、そう見る人もあろうが、ジョーより5歳年長の筆者はその51歳の演奏を好意的に見たくなる。31歳のほとばしる若さを失った代わりに、1音ずつ大切にする、落ち着いた姿がそこにはある。そう思ってもう一度その2007年ヴァージョンを見ると、やはり味わいがある。最後に近い箇所ではピックを使わず、ウェス・モンゴメリーのオクターヴ奏法のように指だけでソフトに弾くが、これは88年ヴァージョンにはなかったものだ。ジョーのたどって来た人生を感じると言えばいいか、またこの曲の別の面を見た気がする。そのため、華麗過ぎる88年の演奏より、2007年の演奏の方がいいとさえ思える。男が年齢を重ねてただ退化あるのみとみなすのでは、生きる意味がないではないか。女性の胎内の卵子は生まれた時に全部具わっているが、精子は毎日作られる。女性と男性は違うのだ。また、2007年ヴァージョンを、中年の衰えの目立つ演奏とみなすとしても、それでもいいではないか。この曲はそういう中年の悲哀も元々含んだ豊かな情感があると考えればいい。そして、ジョーは今後何歳になるまでこの曲を演奏し続けるつもりなのか、もっと老人になっての演奏に接したいものだ。筆者は若い頃から芸術家の老齢の作に関心がある。肉体が衰え、そして気力がそうなっても、まだ表現せずにはいられないことは、何と格好いいことか。毎日精子が作られるのであれば、男は老衰で死ぬ寸前まで何か作るべきなのだ。
この曲が87年からともかく2007年まで演奏し続けられていることは、筆者にはそれと同じ年月を回想させる。一応は『タイム・マシーン』ヴァージョンを聴いた93年までと絞ることが出来るが、ともかく87年から93年頃までの筆者には、この曲に響き合う、そしてある対象と響き合う一連の出来事があった。それを封印した形にしているが、東日本大震災で一気に浮上し、タイム・マシーンに乗ったかのようにまざまざとそれらの出来事が眼前に現われる。今はそれを鎮めるのに躍起になっているが、それにはどうすればいいか、その頃の記憶と筆者の内部では密接につながっているこの曲をおそるおそるまた聴くことはどうか。それを試して2週間ほど経ち、そして今日はこの曲について書くことにした。この一種の祓いの儀式によって落ち着きが取り戻せるのであればいいが、それは自分でもわからない。かえって混乱しそうで、この心がどこへ着地するのかと思う。全く何と言うことだろう。家内に言われたが、先日は夢でうなされていたそうだ。なす術がないといった状態だ。ところで、この曲を20年も演奏し続けているジョーはいったいどういう思いであるだろう。新曲ばかりを披露すればいいものを、なぜ過去に引きずられるのか。人気曲であるからか。それもあろうが、ジョー自身に強い思い入れがあるに違いない。その思い入れの核となるものが何であるかは誰にもわからない。だが、その心に響き合うことは出来る。そして、ジョーには今後も会えないとしても、この曲を聴くだけで充分彼の内面がわかる気がするし、ジョーもまた筆者の内面を理解してくれる気がするのだ。現実的にはジョーは筆者がこの曲に対して抱いている思いを知らない。作品とはそのようなものだ。自分の知らない時代と場所で、知らない人の内面に刻印される。それは結局人間と人間が響き合っていることなのだ。