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●今年の桜、その10
が目立つ季節になるのに桜の話とは呑気なことだが、撮り溜めた写真を消化するために今日も続ける。切りがいいので今日で終わりとしたいが、これを書き終わるまでそれはどうなるかわからない。



昨日は落ち込んだ話を書いたが、「腑甲斐ない」を「不甲斐ない」と書いたことにさきほど気づき、訂正しておいた。今調べると「不」でも間違いではないようだ。「甲斐」を用いる意味もさまざまあるようで、この言葉が甲斐の国から出たという意見は、甲斐には戦国時代に頼りになる武将が多くいたというところと結びついているとのことで、最も納得出来る。となれば、筆者が自分を不甲斐ないと言うのは、経済的には何の頼りにもならないところからは実に正しい。昔の話だが、家内の姉は経済力のない夫婦の生活が最も悲惨と言ったことがある。娘を嫁がせるにしても、苦労をかけさせたくないという思いからで、世間では誰しもその考えを持つ。お互い好きとか何とか言っても、富士正晴も書いていたように、男女の性器は誰とでも合うように出来ている。そして肌を接すれば情が湧き、たいして好きでもなかった相手とでも生涯暮らすことは出来る。その時、どう食べてどう子育てをして行くかというきわめて現実的な問題が眼前に常に横たわっていて、それを乗り越えるために働く過程で生まれる感情こそを愛と捉えるようになる。ともかく、家族像を持続するには経済力が必要で、男の甲斐性はまず経済力の意味に使われる。そしてこの経済力はかなりの点で学力と関係している。昨日書いた学校の先生にしても大学時代に教員免許を取り、それを前提としてさらに数倍から時は数十倍の競争に勝ってようやく教壇に立つことが出来る。頭脳があれば、金稼ぎも出来るように世の中はなっているから、結局のところ経済力のなさが不甲斐ないと同義になる。筆者はごくたまにだが、賢いのを自慢しているように受け取られ、しかもそういう賢さがあるのに、なぜ金稼ぎが出来ないのだと言われる。こうなると、話が通じないので筆者は黙って相手は勝ち誇るが、世間の金持ちはほぼそういう考えを持っていて、経済力のある人間こそが本当に賢いと考えるし、また尊敬されてしかるべきと自惚れる。だが、そういう連中を馬鹿にすることは出来ない。というのは、寄付する時に桁違いの金額を出すことが出来るし、それは寄付される側にとってはありがたく、思いがあっても出来ない人よりどれだけいいか。聖書には、貧しい女がなけなしの全財産である金を施すことの方が、金持ちがその女の何倍もの金を出すことより尊いと書いている。この見方は貧しい人も金持ちも施しをしなければならないことを暗に突きつけていて、とてもうまく出来ているが、貧しい人にとってはより酷な話だ。だが、そこには貧しい人でも施しをすれば天国へ行けるのだという洗脳があり、そのことによって教会は信者から集金している。これはどんな宗教でも大なり小なり同じだ。それでも貧しい人は信じる。それだけ現実が辛いからだ。せめて来生はもう少し暮らしが楽になりたいと考える。
●今年の桜、その10_d0053294_11282277.jpg

 暮らしが楽ということは経済的に豊かであることとかなりの部分重なっている。今は共働きがごく普通になって来たが、共働きの最大理由は住宅ローンを返済するためではないだろうか。家を買うという一種の強迫観念が戦後の日本では巧みに国民に刷り込まれた。そして住宅と道路がつながり、車がひとり1台かそれ以上に普及し、そうして日本の経済が回って来た。その見方はそうとうに根強く、豊かさを物の豊かさと同一視している日本はまずそこから脱することはない。まだまだ高速道路は出来るし、山を削って家も建つ。共働きして得た大きな新築の1戸建てが、先頃の巨大地震の津波であっけなく流されたのは目にした。甲斐性のある人はまた猛烈に働いて同じような家を建てる。そういう人生を歩もうとする人が大多数いるおかげで日本の世界的な経済力が維持されているが、そのことにどれほどの意味があるのかと改めて考えると、筆者はげんなりして来る。大きな家に車、年何度かの旅行、子どもを有名大学に入れるなどなど、絵に描いたような幸福な家族像が、きわめて危うい基盤の上に成立していて、共働きする両親、そしてその子どもたちがどれほどのストレスを抱えていることだろう。そのように豆に働くことこそが生き甲斐と思うしかないし、またそれは人生のあるべき姿でもあるが、ストレスの発散の場がたとえばケータイ電話となっている。そこでは知らない者同士が簡単に待ち合わせをしてセックスをすることも出来るようになっているし、そういう現実に子どもの頃から慣らされ、また時には参加する子どもは、夫婦が共に働き、よき家庭を築くということに妄想を抱かないようになるのではないか。そんなことはどうでもいいことで、何でもありのこの世の中から何を選んでも自由ですよというのが日本の現状であり、頂点に達した自由主義社会ということで自賛していいのだろう。その自由主義社会は、ケータイをするにも金であるから、みんなそれに追われて共働きをする。筆者がげんなりするのは、どの家も同じように見え、またその家の内部には同じような家具や大型TVがあるなど、その金持ち日本を象徴するような平均的生活空間だ。それらひとつずつの物に夫婦や家族の思い出が詰まっているとして、本当に大事なのは先頃の地震でもあったように、家族の写真に代表されるように、人とのつながりの思い出なのだ。だが、それらもまた他人にとってはどうでもいいゴミだ。筆者が関心を抱きたいのは、そういう平凡な日常からは越えたもので、時空を超えて新たな価値が見出される続ける結晶のような何かだ。
●今年の桜、その10_d0053294_1129416.jpg さて、話を桜につなげねばならない。一昨日、嵐山の渡月橋を嵯峨方面にわたった天龍寺前の道を車で走った。観光客がそこそこいて、地震後この調子では京都はいずれ以前と同じように大勢の人がやって来るのではないだろうか。天龍寺前は商店街と言ってよいほど店が続き、街灯には造花の桜が1本ずつ刺さっていた。それを撮影するために出かけ直そうかと思いながら、そのままになっている。今日は祝日で、きっとまだあると思う。それを撮影して今年の桜の締めをやるのもいいが、造花の桜はもういいか。今日最初に掲げたのは10日に写したものだ。その日は河原町の中華料理店で親類が集まって食事したが、それが始まる6時前に、筆者は一緒に出かけた姪夫婦を連れて平安神宮に行った。その神苑の入場パスを毎年もらっているので、それを使って両人に庭を見せたかったのだ、たくさんの人が列を作っていて、内部はぞろぞろと百足状になって歩くだけであったろう。パスは姪夫婦が入場券と引き換えた後すぐに返してもらったので、筆者単独でまた入場することも出来たが、神苑の出口で待つことにした。20分もかからずに夫婦は出て来た。待っている間に右近の桜を撮った。爆発しているような形で、これほど大きくなると、もう美しいと言うより、よく手入れされているなといった思いが先に立つ。神苑出口近くではもっと背丈の低い桜が2、3本あった。ところがよく見るとそれはおみくじを結んである。出口近くで桜色の紙に印刷した花みくじを売っていて、アベックがそれを買っては枝に結ぶ。なかなかのアイデアで、みんなの願いが桜の花になるという趣向だ。結んであるので本物の桜のように散らない。この点は造花と同じだ。花みくじとあるので、恋愛運を知るためのものか。桜の花のようにあっけなく散る恋と出たのでは、恋人たちは悲しむから、きっとそんな内容のものはないに違いない。
●今年の桜、その10_d0053294_11302747.jpg

 桜を次に写したのは14日であった。自宅のすぐ近くで2枚撮った。1枚は駅前広場に去年秋植えられた枝垂れ桜で、これは駅前の変化シリーズではまだ紹介していない。半年でこのように咲くとは、さすが専門の植木職人が植えただけある。これが毎年大きくなり、20年後には平安神宮の右近の桜と違わない程度になって、嵐山の名物になるか。ようやく嵐山駅にふさわしい桜が植わったという感じで、以前の円形広場よりもすっきりとしていい。この写真の左下に青く写るのは建築中の駅前ホテルだ。最後に掲げる1枚は、嵐山駅横の小道だ。ここはめったに歩かないが、この道の右にわが家があり、左はプラットホームだ。プラットホームの際にたくさんの八重桜が植えられていて、これが今でもまだ咲いている。花の開花時期をずらせるために品種がどれも違うようだ。地面に散った花びらがたくさん落ちている。桜はこれもきれいだ。昨日掲げた西光院の桜もそうだが、自宅の庭のような近いところにこのようにたくさんの桜がある。わざわざ遠くへ出かけなくてもいいようなものだが、あまりに近いとありがたみを感じないのが人情で、機会を作ってみんな遠方の名物桜を見に行く。筆者は桜より梅が好きだが、桜もいい。嵐山の桜の訪問着を昔はよく作った。駅前の変化シリーズで紹介した、中の島公園近くの桜の林で気に入った幹のものを写生して用いた。それを用いて3年後までに振袖を作りたいと考えている。ただし、注文があればの話。着用者の体の寸法がわからなくては下絵が描けないからだ。だがきっと注文はないだろう。プリント製の振袖が10万円ほどである時代に、筆者の振袖は生地代や仕立て代だけでもその倍以上はかかる。昨日だったか、山梨の大月で長年実験しているリニア新幹線が、京都に駅が出来ると決まったようで、東京大阪間が1時間で結ばれる。完成まで30年かかるから筆者はもうこの世の中にはいないが、そのように時代はどんどん速度が増し、気軽に捨てたり取り替えたりするように進む。成人式の振袖がユニクロ化して当然で、使い捨てなのだ。そういう時代に東京まで歩いて行こうとするのと同じような筆者の長時間を費やすキモノ作りは完全に時代遅れだ。また一部の金持ちは金持ちの作家から買う。腑甲斐ない筆者の思いは空回りするばかりだ。甲斐人に知り合いを作って、その根性を見習うべきか。
●今年の桜、その10_d0053294_11305567.jpg

by uuuzen | 2011-04-29 11:31 | ●新・嵐山だより
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