監視されているような気分を昨日の投稿の文章を書いている時に味わった。急に空が夕暮れのように曇り、雷が鳴って雨が降り始めたからだが、書き終わる頃にはすっかり晴れて、雷が嘘のようであった。
大気の不安定に過ぎないが、猛烈にキーを叩きながら書き進んでいる時は、心の変化が雲のように次々と涌いているのと同じで、傍から見れば、それが雷のような激しさをもたらしそうな兆を発散しているようにも見えるであろうし、またそういう自分を天が監視して、ドラマの脚色のように雷を鳴らしてくれているとも思うことが出来る。となると、昨日の投稿は雷的な部分があったと主張しているようなものだが、これを書き始めたちょうど今、また雷が鳴って雨がぱらつき、筆者の内部に雷のようなものがあることを何となく納得する。その雷とは通常は怒りの思いに捉えられることが多いが、昨日の投稿にはそれは当てはまらない。怒りという単純で一時的な発散で終わるものではなく、もっとしつこく渦巻く思いで、そのために今の雷が鳴り始めたのではないかと感じるほどだ。渦巻く思いとは、地震がもたらしたものだ。これははっきりしている。さきほどTVでは地震後に被害を受けなかった子どもまでも心に変化が生じていると伝えていた。ちょうどそれに似て、筆者なりに地震後に確実に変わったことがある。変わったと言うより、眠っていたことが暴れ出したと言えばいい。津波で被害を受けた地区は、瓦礫に混じった海底の泥が乾燥し、空気中に飛散したそれを吸い込むと病気を引き起こすそうだが、それにも似ている。意識の底深く沈んでいたことが表面に湧き上がり、それに反応して戸惑うと同時に、それを鎮めるために行動することで、さらに今まで知らなかったことが、糸がほぐれるように一気に視野が広がり、その広がった全く新たな光景に今度はまた大いに戸惑ってどう対処していいのかわからないでいる。その不安定な心の落ち着く先は、筆者のような年齢になると、もうかすかながらでも自分でわかっているので、後は時間が過ぎ去ればまた、表面に出て来た古い記憶や舞い上がった戸惑いの素は意識の底に沈殿して行く。問題はそれまでの時間がどれほど必要か見当がつかないことだ。この点は原発の処理問題によく似ている。ま、簡単に言えば「取り乱す」ということだが、それをしていては仕事にならないし、またこうした文章を書くことも出来ないので、ほとんど取り乱している自分をもうひとりの自分が監視しながら、また抑え込みながら生活し、表向きはそう見えないように努力している。これも簡単に言えば「葛藤」という表現がいいかもしれない。それをどう始末するか。また、始末するとして、どういう形が理想的かを考えている。それはこうした文章に表わすか、別の何かで表現するしかない。そのことに気づきながら、筆者のこのブログも元を正せば「葛藤」の抑え込みを目的としたものではなかったかと思い至る。

今年の正月は道路上に「意」の大きな白い文字を見て感じ入った。今から思えばそれは実に暗示的で、ここ数日はその「意」を思い出し、また意識している対象を心の中で見つめながら心が苦しい。そうしたことに対する自己防衛本能は、その対象を忘れることであるのは言うまでもない。だが、人間はパソコンではないので、そう簡単に操作ひとつでデータが消えるといったことはない。また、消えることをどこかで望んでいないという場合もある。となると、この問題は筆者ひとりがどうにかしなければならないもので、ここにこうして書いても仕方がない。ただし、後で振り返った時、こう日はこういう精神状態であったのだと自分でわかるので、日記の意味合いからは無駄ではないし、また書く最中は心の苦しさから逃れられる。そのために書かずにはいられないと言ってよい。もちろん仕事でもよく、何かに没頭することが必要なのだ。人間は没頭出来る何かがある限り生きて行ける。その没頭とは日常的なことだが、その日常が意外なことがで騒ぎ立てられ、その結果の苦しみが文章を書くことや散歩、仕事で紛らわすことが出来るとするのは、もともと苦しみはたいしたものではなかったことになる。筆者はそのようにして今までさまざまな苦しみを乗り越えて来たが、どうせ乗り越えるのであれば、せっかくの機会であるから、何らかの糧を得ようと考える。これは苦しみを記念することと言ってよい。そして、その乗り越えは苦しみごとに違うとしても、一貫した、そして積み上げ的なもので、その行為の一端がたとえばこのブログになっている。となると、今回の地震を記念して、どのようなものになるかわからないが、今後このブログが何らかの変化を遂げることになるだろう。そのことはもうぼんやりと考え始めている。簡単に言えば、苦しみを越えるために創作する思いが欠かせないのだ。それは苦しみを楽しみに変換する行為であり、その変容過程や結果が、他人には明らかな形として見えない場合が多いかもしれない。それは自己満足だが、筆者がわかっておればいい。

昨日掲げた写真の説明をしておこう。背割りの堤を歩み始めて1、2分した頃、缶ビールを飲み始めた。往路と復路が同じではいやなので、帰りの道をどうしようかと思って、右手にあった説明書きのようなものの前で立っていた中年女性に訊ねた。御幸橋を戻って京阪八幡駅に行くのではなく、その橋の北につながっている桂川に架かる橋をわたって大山崎まで行くことが出来るかどうか知りたかったのだ。その女性は目を丸くしながらも親切に答えてくれた。お喋りな筆者であるから、すぐに初対面の人でも打ち解ける。そして、3、4分話した。その人の言うところによれば、大山崎ではなく、長岡京までつながっている道路であり、自転車があるならばまだともかく、徒歩では大変との話であった。この付近は名神高速につながるバイバス道路が出来るなど、自動車で走るには便利な地域になった。徒歩客は完全に無視だが、まだ自転車道路が出来たのでよしとすべきか。この自転車道路は桂川沿いを嵐山までつながっていて、わが家から自転車でのんびり走ると、いずれ背割り堤辺りに着くことになる。筆者はサイクリングに関心がないので、そんなしんどいことは今後もしない。活動範囲が著しく狭いのだ。現在の日本は、地方と地方が生活道路と高速道路でうまくつながっており、鉄道を利用するよりはるかに安価で速い。車は乗れば乗るほど安くつくようになっている。高速道路もそうだ。そして、車はたくさんの荷物が積めるし、また多人数で利用すると、もっと鉄道の比ではなくなる。日本の隅々にモノを流通させ、また人がドアからドアへとつながる思いがそうさせた。そのことによって、よく言われるように、日本中どの駅も似たものになり、また似た家が建つようになったが、一旦覚えた便利さは手放せない。阪急電車の車窓からは、長岡天神駅の近くにも高速道路が走るようで、目下橋脚がいくつも建設中だ。家内は30年前から事あるごとに筆者に車の免許を取れと言う。つい今しがたも急にそのことを言った。この文章を見ていないはずなのに、筆者の考えがわかるようなところがある。ふたりがよく似た夢を見るのも不思議だ。車の免許はあってもよいが、経済的に無理のような気がする。また、あったらあったで、筆者は遠方によく出かけるかもしれない。
桂川をわたって阪急で帰宅することは諦めてどんどん先を歩いた。4時頃にもなると、帰りの客の方が多い。突端まで行って戻ることに決めていたが、往復で3キロほどだ。これだけたくさんの桜が植わる堤がほかにあるのだろうか。筆者の目的は右手に見える天王山中腹に大山崎山荘を探すことだ。やがてそれが見えて来た。せっかくその写真を撮るからには、いい角度にしたい。そして、人工的な何かがなるべく写らないように心がけた。昨日の1枚目は左下隅に舗装した自転車道路がわずかに見える。それはあえてそうした。その道を除けば、江戸時代と変らぬ景色だ。ただし、当時は背割り堤がどうなっていたか知らないし、また桜は植わっていなかった。やはり平成の写真であることを示してしまう。3枚目は1枚目の別角度で、より山荘に接近した。この写真は気に入っている。近景、中景、遠景がはっきりしていいではないか。この写真に山荘は写っているがほとんど見えない。それでもっと歩いて、桜が途切れた場所、そしてズームを最大にして撮った。それが4枚目だ。縦横中央に山荘の切り妻屋根が見える。そのテラスに立って背割り堤を見下ろしたのが先月13日で、地震から2日後であった。とても天気がよく、散歩日和だった。その日から20日経った今月3日に、山荘のテラスを遠く見つめて写真を撮った。これで筆者のひとつの遊びは終わったことになるが、もうすでに昨日からは別のことを考えている。福島に行くことだ。昨日の投稿で、Tさんに今のうちに会っておきたいとの思いが強くなった。だが、電車では何度も乗り継がねばならない。さきほど家内が言ったように、車の免許があれば福島から仙台へと足を延ばすことが出来る。だがそれには自動車教習所に通って免許を取り、車を入手することが前提になる。車の調達は誰かがまたくれるかもしれず、あまり心配していないが、免許を取るのが面倒だ。それにやはり経済的余裕があまりになさ過ぎる。福島はやはり遠い。向こうからこっちを見る夢はそれこそ夢の中か。