淀駅から八幡駅までは京阪電鉄では最も田舎の景色が続く。途中で宇治川と木津川をわたるが、その鉄橋は筆者が子どもの頃から変わらない。その橋をわたる時、背割り桜が見えることを知っていたので、淀駅のプラット・ホームを写した後、そのまま進行方向の右に陣取り、川に差しかかる時を待った。

そしてわたり始めた時、写真の構図として納得出来る機会を待ったが、あまり待ち過ぎると橋をわたり切ってしまう。また下手をすると、鉄橋の鉄骨が前面に大きく写ってしまう。多少緊張しながら待ち、木津川をわたっている時にいい角度を狙って1枚だけ撮った。それが上に掲げたものだ。遠くに橋が架かっていて、その向こうにうすくピンク色の細い帯が見える。それが背割り桜だ。電車の中から見るこの景色はいい。今からそこを歩くのだという期待感が高まる。木津川をわたり切るとすぐに八幡駅だ。今年の正月は男山八幡宮に初詣に行くつもりであったが、家内は遠いと言うので実行しなかった。そのように、思いはしているが出かけていない場所がたくさんある。日帰り出来る場所でも出かけるのにだいたい4、5年は最低かかっているようだ。優柔不断と言えるだろう。八幡の男山八幡宮には小学校の遠足で出かけたことがある。そのほかにもう一度ケーブル・カーに乗って山頂に行ったような記憶があるが、ぼんやりとしている。そのぼんやり具合を鮮明に置き直すために、またケーブル・カーに乗りたいと思っているのだが、どういうわけかこの八幡宮は京都の外れでもあって、これは八幡に住む人に叱られるだろうが、どこか陰気臭く、積極的に行く気になれない。であるから、背割り桜を見るのと同じ日についでに男山に登ったり、松花堂美術館にも行こうと考えていたにもかかわらず、4月3日は出かけるのをぐずぐずして、八幡に着いたのは3時半であった。そうなればもう立ち寄る時間はない。背割り桜でさえ、夕暮れの中で見そうな時間だ。だが、それもまたいいと思った。人生の黄昏に入りかけているので、黄昏の桜の方が似合うだろう。入学式に見る晴れ晴れとした桜にはもう嫉妬してしまいそうな年齢なのだ。

さて、背割り桜の背割りとは、大きな川に挟まれた細い中州状の堤を指した言葉だ。馬に乗って正面を見た土岐、両側が低い。その馬の背を思えばよい。本当は大阪の中之島のような中州ではないが、川が上流から運んだ土砂を、淀川の改修の歴史の過程で高い堤として築いたのではないだろうか。だがこれは調べてみないことにはわからない。川は3本で、北から順に桂川、宇治川、木津川だ。これらが背割り堤の終点あたりで合流し、淀川となって大阪に向かう。その雄大かつ歴史上でも重要な場所に桜並木が1、2キロも続くのであるから、有名な場所にならないはずはない。以前に書いたが、この堤は筆者が小学生の頃は松並木で、時代劇のロケによく使われたそうだ。それが枯れてしまったのだろう。代わりに桜が植えられ、現在見事な枝っぷりに生え揃っている。土や日当たりがよく、また手入れが充分なされているからだろうが、街中の桜よりはるかに勢いがいいように思う。それにもっと素朴な雰囲気で生えているのかと予想したが、人が歩いて楽しめることを最初から想定して作ったもので、その人工的な点が街中の桜の感じを多少思わせる。それは八幡市が京都市の伏見からも外れている田舎でありながらも京都府であることとちょうど似ている。大人になって八幡駅に降り立ったことがないので、駅前は新鮮であった。ただし、やはりいかにも田舎でレトロの雰囲気が濃厚だ。だが、それはそれでよい。これが、駅舎が淀駅のように立派な高架になると、駅からすぐの八幡宮に何となくそぐわない。いつかはそうなるのだろうが、筆者の生きている間はまずないであろう。駅横のコンビニに入ってビールのロング缶を1本買った。喉が乾いていたのと、せっかくの花見であるし、ビールくらいはいいかと考えた。そこそこの人がぞろぞろと歩いて行くが、帰りの客の方が多かった。地図は持っていたが、人の列に混じって行けばよい。すぐに木津川をわたる橋が見えた。堤が高いので、橋まで上り坂だ。上り切ると信号があって、パノラマの景色が広がった。信号待ちをしながら、3枚続きの写真を撮ったが、左端の1枚は車の列が大きく写り込んだので、中央の写真だけ掲げることにした。ガードマンが2、3人出て人の流れを見守っていたが、彼らの賃金はどこが出しているのだろう。

中央の写真には石造りの立派な橋柱が写り込んだ。戦前のモダンな様式で、中央に大きく「御幸橋」を彫ってある。かなり長い橋で、いつもムーギョ・モンガに行く途中でわたる松尾橋の倍はあるような気がする。長い橋を徒歩で行くのは孤独な気分だ。車がどんどん先を行くこともあるが、空が普段見慣れないほど広くて大きく、また風が強いので、心細い気分にさせるのだ。背割り桜がなければまず絶対にこの橋を徒歩でわたることはないだろう。橋の下流側50メートルほどに、中途半端な、つまり未完成の橋がもうひとつあって、その突端に大きなクレーンがあった。、もうひとつ橋を造っているにしてはおかしい。歩いている橋の方が新しいからだ。帰って調べると、架け替えたばかりで、下流側の元の橋を撤去しているのだ。全く新しいものにせず、使い回し可能なものは使おうということで、「御幸橋」と彫ったレトロな橋柱は再利用された。元の橋の撤去風景はそれなりに珍しい。高い足場を組んで少しずつ取り崩している。大きな橋であったので、撤去も大変だ。来年来るともうないだろう。そうなるといい年に来たものだ。橋をわたりながらどんどん左手に背割り桜の並木が接近する。人の姿も胡麻粒のように目立つ。わたり切ったところが堤の入口で、そこにもガードマンがいて、人の流れを誘導していた。堤に車が進入出来ないように鉄の柵がいくつか埋め込まれている。それを、体を蛇のようにくねらせながら抜け、そしていよいよ堤を歩くき始める。まず意外であったのは、堤上が全部きれいなタイルで敷き詰められていたことだ。てっきり地道と思っていたが、それでは雨天時に花見客は足元が泥まみれになるという配慮がなされたのだろう。これが筆者には何となく不満であった。祇園や嵐山の有名観光地を歩いているのと変わらないからだ。だが、京都府はこの背割り桜をそのような観光地にしたいのだろう。堤の左下は芝生が植わった河川敷きで、たくさんの人が寝転んでいた。中には抱きついていちゃついているアベックもいたが、そういう姿が不自然ではない。何しろ満開の桜である。みんながいちゃついてもいいではないか。堤の右手下はテントが20か30ほど並び、震災の義援を兼ねて何か商品を売っているようであった。屋台的な食べ物の店もあったと思う。それらのテントを全部周っていると桜を見る時間がなくなるかもしれない。それでとにかく堤をそのまま行くことにした。そうして最初に撮ったのが下の写真だ。続きは明日。