栃木でクレーン車が登校中の小学生に突っ込んだ。原発事故のニュースばかりであったのが、一昨日はこの事件が何度も放送された。
運転手の顔写真が出た。いかにも事件を起こしそうな、にやけた表情をしていた。人間の心理は不思議なもので、そういう写真を見せられるとやはりと思ってしまう。この手法は週刊誌の宣伝がよくやる。派手な文句にいかにもふさわしい表情の顔写真が選ばれる。手錠を嵌められて警察の車に乗せられる容疑者の姿は、最初に報道されたにやけた顔とは違って、もっとまともに見えた。それが少々意外に思えたのは、最初のにやけ顔が刷り込まれたからだ。このように最初の報道は強い影響を及ぼす。原発の放射能汚染も同じだ。後で最初の測定が間違いだと報じられても、人は容易に信用しない。最初が肝心ということだ。だが、最初だけよくて後がさっぱりという人もあるから、物事の判定は難しい。集団登校は痴漢などに襲われないようにとの配慮からで、わが自治会でも朝の8時頃に先頭と末尾にPTAや自治会の有志が陣取って、間にたくさんの児童を挟んで百足競争のように学校へ向かう。それほど万全でなくてもいいのではと思うが、事件が起こってからでは遅い。だが、今回のクレーン事故はそうした集団登校の列に突っ込んだ。そのため、被害が大きくなった。バラバラに登校していればそのようなことはなかったが、結局登校でも下校でも、道を歩く時は常に危険に晒されている。筆者はムーギョ・モンガに買い物に行く時、バス道の歩道を通らねばならない時以外は裏道を行く。バス道は田畑を潰して作られたので、1キロほどが直線で見通しがよい。にもかかわらず2車線なので、とても危険を感じる。とにかく見通しがよいので車が速度を上げるのだ。その車が一瞬ハンドルを切り損なうと、歩道を歩いている者が轢かれる。そのためなるべく曲がりくねった裏道を行く。その方が遠回りであっても。だが、そんな用心をしていてもいつ車にはねられるかわかったものではない。常に危険と隣り合わせ。車社会になってなおのことだ。前に何度か書いたが、車道と歩道とに分かれているにせよ、ハンドルのミスで人にぶつかる危険のある、いわば人殺しの道具に常になり得る物体が、人の歩く道と接していることがおかしい。人間はミスを犯す動物であるから、一昨日のクレーン事故は、車道と歩道が接している限り、永遠になくならない。
それにしても一瞬のうちに子どもを事故で亡くした親はやり切れない。悲しみや怒りの持って行きようがないだろう。筆者は息子がひとりだが、ひとりだけ生むなら子どもは作るなと周りから言われた。子どもがかわいそうと言うのだ。育ててみてそれが当たっていたように思う。だが、一方でひとりで充分、その子を大事にうまく育てればいいという意見も耳にした。ところが子育ては難しい。大事にうまく育てたつもりでも、さっぱり親の言うことを聞かず、ぐうたらになってしまうこともある。それも親の責任と言われるが、やはりそうなのだろう。厳しく育てても、うまく行くとは限らず、優し過ぎても駄目。育て方もあるが、本人の遺伝的気質もあって、兄弟も同じように育てても、大きな差が出る様子をよく目にする。成人してしまえばどうなろうが勝手と親は高をくくる方がよいが、変な事件を起こして世間の物笑いの種になってもらっては困るという思いもあって、子どもがいくつになっても気になる。親の背中を見て子は育つとよく言うが、どんなアフォリズムにも裏ヴァージョンがあるように、それは100パーセント当たってはいない。親が仏様のように真面目でこつこつ努力型であっても、子どもが極悪人になることがある。またその反対に、平凡な親から天才が時に生まれる。そう思えばあまり子どもの教育に熱心にならない方がいいと思うが、資格社会の日本では、子どもの頃からそれなりの大学を目指して勉強に目覚めさせなければ、平均よりはるかに少ない賃金で生涯暮らす必要がある。それに文句を言っても、自己責任という言葉であっさりうっちゃり負けする。確かにそれに一理はあるが、親がいくらうるさく言っても気づく年齢が遅い子もある。そして気づいた時ははるかにレースに遅れを取っている。たまにそんなレースに遅れはしたが頑張っている人物をTVが美談的に取り上げ、人々の感動を引き出そうとすることがあるが、それでおしまいであって、誰もそういう番組を見て自分も頑張ろうとはしない。頑張る人物は誰に言われるまでもなく最初から頑張るし、またそういう人物でないと世間で頭角を表わさない。

2、3週間前か、ヴェトナム戦争での枯葉剤散布によって生まれた奇形児を特集したNHKの番組があった。ひどい奇形として生まれた子は、親に見せずにアルコール漬けとなる運命にある一方、親はどんな子でも育てるという場合がある。番組ではそのどちらも映し出していたが、アルコール漬けの奇形児はもはや人間と呼べないほどの、たとえば頭のてっぺんから手が出ているといったほどのひどい奇形が多く、育てることはまず不可能だろう。それほどでもない奇形の子は、親が腹を痛めた子というので自分で育てるが、そんな一例として喋ることも歩くことも出来ない男児が登場した。目は見えているようだが、歩くことは出来ず、また顔は大きく、いつも静かに笑っている。その子の姉と弟がよく面倒を見て、姉はその奇形の弟をかわいいと言いいながら抱きしめてした。それがその番組で最も印象深い場面であった。姉と言ってもまだ10歳ほどだろうか。利発そうな顔をしていた。それよりも優しさがある。これが大切だ。その大切なものをこの女の子は持っている。自分の弟だからどんな姿でもかわいいというのとはいささか違い、ひとりの人間として見て本当にかわいいと思うのだろう。それは画面からわかる気がした。無抵抗で、いつも笑っていて自分で自由に動くことが出来ない。じっとその子を見ていると、保護してやらなければならないという気が湧いて来る。奇形児であっても命があり、その命が消えかかると思える場合、人は誰でもそれを助けようと思うだろう。だが、そうした奇形児を育てる自信がないと言って引き取らない親もある。奇形の度合いにもよるが、そうした親を責めることは出来ない。また、奇形ではないが、障害を持って生まれることがある。その度合いもさまざまだが、ある養護学園に勤務していた身内がいて、彼からは以前さまざまな問題を聞いたことがある。この話は前にも書いたが、ある知恵遅れの20代の女性は、よく勝手に外出し、そして決まってタクシーに乗って運転手に自分の体を買ってくれと言い、タクシー仲間では有名であったらしい。大金を持って園に帰って来るので、事情を聞くと体を売ったと言う。それをやめろといくら諭しても効き目がない。これは知恵遅れの程度をどう判断していいのか、知恵遅れでなくても同じ行為をする若い女性はさほど珍しくない。また、知恵は遅れていても体のホルモンは正常で、性的な成熟があるのは当然だが、その体を狙って性行為に及ぶ養護員がたまにいることも聞いた。こうした問題は闇に葬られることが多いだろうが、人間であるので、そんなことが生ずることは誰にも充分想像出来る。通常の学校でも先生が児童や生徒に性交渉を持って懲戒免職になる事件は跡を断たないから、無抵抗に近い者が養護される施設ではなおさら被害が大きいのではないか。これが大学になると、みんな大人であるから、学生同士、先生と学生など、あっちもこっちもセックス天国だ。そしてそれが正常と見られ、誰も問題にしない。それはどうでもいいが、重度の奇形の弟を持った先の姉は、将来どのような職業に就き、どのような人格に育つだろう。枯葉剤による奇形が多いとはいえ、やはり差別はあるだろうし、そういう差別の中でその姉がいじけてしまわないようにと願う。

一昨日書きたいと思っていたことは、4月1日に大阪に出た時に撮影した工事現場のクレーン写真3点についてだ。そう思っていた矢先にクレーン車が児童たちに突っ込む事故が起こった。筆者には予知能力めいたものが多少はあるのかもしれない。クレーンに関してはもうひとつある。駅前のホテル工事現場で使っていた大型クレーンが撤去されるという知らせを13日に現場監督から持参してもらった。組の数だけあったので、翌朝各組に配り歩いた。ホテルの建物はもう骨組みは完成したので、今のうちにクレーンは撤去しなければならないらしい。それでそのクレーン車は一昨日の19日に道路を走り去った。そんなこともあったので、4月1日に撮ったクレーンの写真を掲げておこうと思ったのだが、このクレーンは造花の桜や本物の桜とは関係がないので、いつ投稿するのがいいかと迷い、急がなくてもいいと決めた。だが、なぜクレーンに目を留めたのだろう。その理由は、クレーンは鶴の意味であり、鶴にまつわるある画家に関心があったからだ。その話をすると長くなるし、またあまりに横道に逸れるのでこれ以上は書かないが、クレーンに注目する深層心理があったのだ。3枚のクレーンの写真は、最初が中之島肥後橋の朝日新聞ビルの向い側で、以前フェスティヴァル・ホールのあったところだ。写真を撮った後、信号をわたっていると、クレーンが屋上からワイヤーに荷物をぶら下げて真っ直ぐに地面に下ろした。ワイヤーは架設の足場から数十センチしか離れていないように見えたが、クレーンを操る技術の確かさに驚いた。だが、そうした工事現場で働く人たちは概して賃金は低い。そういう職を選んだこと、選ぶしかなかったことはみな自己責任ということだ。そして、クレーン車がごくたまに歩道に突っ込む。それが世間に対していじけてしまった思いの結果でなければいいと思う。2枚目の写真は天王寺に行って近鉄百貨店の西、阿倍野橋ターミナル・ビルの現場、そして3枚目はまた中之島に戻って関電ビルの東側だ。ここには何が建つのか知らない。大阪はあちこち常の工事中で、これは永遠にそうであるはずだ。天王寺は再開発が30年ほど前から始まって、将来的には大阪でも最も繁華な場所にする計画がある。だが、そういう新しいビルを歓迎するのは若者たちが中心で、筆者には関心がない。むしろ、レトロの雰囲気を残したところを歩きたい。こういう思いになるところが老化の始まりか。