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●『バリでの出来事』
今朝目覚めると、家の外で家内が隣の奥さんと話をしていた。バリ島に10日ほど滞在して帰って来られたようで、お土産のバティックのハンカチを手にして家内は戻って来た。それで今日のブログはこのドラマを採り上げることに決めた。



さて、韓国ドラマに興味を持った今年1月、ネットでいろいろ調べていると、『バリでの出来事』と『パリの恋人』というドラマがあることを知った。パソコンでは文字の大きさによってバとパが紛らわしく、しばらくの間『バリでの出来事』はてっきり『パリでの出来事』と思っていた。それが違うことは、妹からKNTVで録画した『バリでの出来事』のビデオを借りた時にようやくわかった。このドラマを観たのはもう3か月ほど前になるが、今でもあれこれ場面を思い出す。名作と言ってよい。昨日書いた『ラストダンスは私と…』より画面がかなりカラフルで、登場人物たちの貧富の差、それに俳優たちの演技も誇張が強く、その分印象を強くする効果がある。全20話で、2004年1月に韓国で放送が始って、視聴率が最高40パーセント近くになったヒット作で、およそ1年後の『ラストダンスは私と』がこのドラマを強く意識したものであるのは合点が行く。このドラマを観る前に『ピアノ』でチョ・インソンの演技は知っていたが、ここでは表情も身のこなしももっと洗練され、そして驚くべき熱演ぶりにはとにかく圧倒された。それですぐにまたネットで調べると、「バリ廃人」という言葉が流行しているらしく、このドラマによってチョ・インソンの女性ファンが急増し、ソウルでのファン・ミーティングに参加するなど、かなりのぼせ上がった人たちのブログがいくつか目についた。1か月ほどはそうした人々の感想をいろいろと広い読みし、ファン心理なるものを半ば傍観しながら、こっちまで熱いものが湧き起こるのを感じた。そういったファンの気持ちはどこまで持続するのであろう。チョ・インソンのドラマが次々と日本で公開され続けない限り、ファンは少しずつ冷めて行くのが現実であろうし、そう思うと韓国ドラマで有名になった俳優も、華やかに一時は光を浴びる反面、その人気の持続が何と困難であり、他人事とはいえ、一抹のさびしさのようなものを感じずにはおれない。だが、いい演技をして、みんなから素晴らしいと一斉にほめられている時だけが天であるとしても、それで充分ではないかと思う。チョ・インソンという俳優が、割り当てられた役を懸命に演じ、そのことで異国日本の女性たちをの心を少なからずつかんだという事実は、それだけで永遠のことなのだ。
 このドラマの男の主人公はチョ・インソンともうひとりジソプがいる。この対照的な若い男ふたりのどちらが好きかで女性たちの思いは二分しているが、男であっても両者の甲乙つけ難い男っぷりを充分感じることは出来る。筆者はチョ・インソンの方が好みだが、それはどこかやんちゃな雰囲気が日本で言えば勝新太郎の若い頃のような感じで、今後どのような役柄をこなせるかと興味が湧くからだ。ジソプは寡黙な印象で、チョ・インソンと同じく独特の香りがある。これまた女性たちの気持ちを吸収するタイプであるのはよくわかる。そのジソプは今は入隊中だが、『ラストダンスは…』のチソンも同ドラマ以後すぐに入隊したようで、何だか人気絶頂の時のこの韓国男性に当てられた義務はかなり恨めしいものに思える。それでもそうした経験を経てまたひとまわり大きくなって映画やドラマに登場して来るほどの才能でなければ、韓国の芸能界ではとても生き延びては行けないのだろう。その残酷とも思える緊張感が韓国の若い俳優の魅力のひとつの理由になっているとも考えられる。日本でも徴兵制を採れば男が本当に男らしくなるという単純な理屈を振りかざすつもりは毛頭ないが、困難な歴史を経て今も徴兵制を採らざるを得ない事情は韓国の人々みんながよくわかっていて、それを運命として受け入れつつ、なおかつその条件下で働くことは、最大の効果を得るべく何事にも真剣になる気分を持ちやすいのではと、そう想像することは許されるだろう。昨日も書いたが、20代半ばの年令では半年単位が貴重な人生で、変化の著しさが最大限に許容される時期だ。俳優にとってそういう時期に出会うドラマは、一期一会的にその後の人生を大きく決定するものになり得るし、そのようなひとつの奇跡のよう出会いの産物であるドラマを、日本で同時代的に味わえるのもまたひとつの奇跡ではないかと筆者には思えてならない。
 韓国ドラマが日本の少女漫画によく似ているとよく言われる。漫画自体をほとんど見ないのでこうした情報の真偽はわからないが、日本の少女漫画にしても何かを大きく参考にして出来上がっているはずであることは充分想像出来る。日本の少女漫画がストーリーにしても漫画のタッチにしてもすべて完全な創作であるならば、これは日本を代表する芸術として世界中で賛美を得るはずだが、今のところそうなっていないのは、それらの漫画が大なり小なり、過去の文学作品あるいはおとぎ話などから素材を得ているからで、本当のオリジナルと呼べるものはごくわずかではないかと思う。完全な創作というのも変な言い回しだが、ここではごく単純にオリジナリティと思ってもらいたい。だが、このオリジナリティというのもなかなか面倒なものだ。人間は自己の複製を生んで存続している現実を考えれば、真のオリジナルなものなどどこにもないと言えるから、話がややこしくなるのだが、つまりは韓国ドラマが日本の少女漫画のパクリであるといった意見には賛成しかねるということだ。日本の少女漫画が用いたであろうあらゆる過去のドラマツルギーを参照しながら韓国ドラマはあると言った方がきっと正しい。昨日も書いたが、古い民話やおとぎ話は子どもたちだけのものではなく、それらを素材にした大人向けのドラマは昔からどの国でもそれなりに書かれ、また語られ続けて来ているから、そうした人間の普遍の関心事を、今流れつつあるこの瞬間に適合するように変容して見せることは何も不思議ではない。日本においてはそれが一時期少女漫画という形に花が咲き、韓国ではTVドラマになり、またヨーロッパでは数百年の間オペラにとして結実したということだ。そして韓国ドラマはおとぎ話や民話によくあるような普遍的な内容のストーリーばかりを用いず、年ごとに変化する韓国社会の様子を軸として据える観点があるため、一時のブームとしてではなく、それなりに今後も人気ドラマの出現は長く続くように思える。そうした長期のスパンで考えるならば、今年はさしづめ日本における韓国ドラマ開花の年として重要な年度として記憶されることになるだろう。そういう生々しい現場に立ち会って自らそれなりに鑑賞という形で参加することは、人生の中でもそうなかなかない話で、筆者としても今後少しずつ観て行くであろうことが面白くなっている。
 面白いのは事実としても、その気分の中には遠い国の遠い時代のドラマを味わうのとは異なる、もっと生々しい感慨がある。それをみんなが感じているからこそ、たとえばチョ・インソンに夢中になって韓国のファン・ミーティングにまで出かけるということになる。この生々しさは、たとえ演技にしろ素顔で俳優たちが出て、舞台ではない韓国の実際のあちこちの場所を動き回るということによって生まれ出ているもので、言葉を変えれば「切ない」が当たっている。「切なさ」は生きている実感に直結しているものだ。どこまでも傍観に過ぎないのだが、手を伸ばせば触れられるかもという思いがその「切なさ」を増幅する。このファン心理は筆者にはよくよくわかる。そしてある程度の大人になれば、そうした「切なさ」がある時期が過ぎればまた別の対象に移ることがよくあることもわかっている。そのことがまた別の切ない気持ちを認識させる。「切なさ」とは「恋心」だ。恋心を認めたくない人はたとえばこのドラマのよさはわからない。しかし、そんな人間がいるだろうか。「恋心」はしばしば障害がつきものだ。障害、妨害があるからこそよけいに燃える気持ちが男女にある。これは永遠不滅のもので、少女漫画だけではなく、人類の発生と同時にあったものだ。幾多の障害を越えて思いを遂げる者同士の陰には当然その反対
の位置に甘んじる者が存在する。そして思いを遂げた者同士がずっと安泰ではなく、思いを遂げられなかった者から復讐を受けて死ぬこともある。大抵の人々はそうしたドラマとはあまり縁がない幸福な一生を送るが、時にはそうでない話があることも人々はよく知っている。ここにドラマが永遠に再生産され、人々がそのたびに人間の本質を新たに知ることが繰り返される。
 障害の最も大きなものは韓国では家柄や貧富の差と見える。90年代前半の不況によって貧富の差が拡大し、それは今もほとんど改善はされていない。そうした社会では当然そのことをそのまま重要なモチーフに使うドラマが人気を博するであろう。このドラマもまたシンデレラ・ストーリーだが、ハッピー・エンドにはせずにむしろ残酷な結末を選んでいるところに韓国ドラマとしての新機軸があると言われている。だが、「切なさ」が頂点に達すれば人は狂うのは当然で、狂えば破滅が待ち受けるのもまた必然だ。恋の物語が死で結ばれるというのも大昔から続く古典的過ぎる筋立てで、この点は何も驚くには当たらない。主人公たちの死によってその精神の純粋性が保証され、永遠のものとなるが、命と引換えに恋をする人間を笑うことは出来ない。誰しもそういう極限の恋には憧れがあるからだ。自分は恋などするような年ではないと高をくくっている老人でさえ、何かの拍子に恋する心にスイッチが入ることもあるから人間は面白いのだ。『ラストダンス…』では、田舎娘のもとにたまたまやって来た記憶喪失の男が同居することで自然に恋が芽生えるという主人公の出会いが設定されていた。記憶喪失の男はやがて大会社の跡取り息子であることがわかるから、おとぎ話の現代版としてはよく出来た筋立てで、かなり強引な面はあるがそれなりに納得させるものがある。この王子とそして姫となるべき女性との出会いを現代の韓国でどのように設定するかでドラマのリアリティが大きく左右される。ここではバリでのロケを通じて、そのバリでガイドを勤める身分の低い若い女性が王子である男のガイド役になるということで出会いを用意しているが、これはなかなか巧みでよい。韓国でならばまず絶対に出会わないふたりでも、羽目を外せる異国のリゾート地てあれば、貧富の差を越えて男女が出会って心にとめることはあり得るからだ。人の心を開放的にする地としてバリを選んでいるところにこのドラマの秀逸な着眼点がある。バリでのロケという豪勢な雰囲気がドラマを通じてさまざまな形で変奏される。それはチョ・インソン演ずる社長の息子ジェミンのファッションや住まいなどのライフ・スタイルのそれで、そのジェミンの婚約者ヨンジュも同様に韓国社会の持つ者の代表としての生活ぶりを披露する。
 ドラマを作り上げるには落差を描くことが効果的であるから、ここに貧しい人々が対比される必要がある。その貧しさはソウルにおいても極端な形でまだ存在しており、それを残酷なまでにこのドラマは描いて行く。持たざる者はそうした厳しい生活からどのようにして這い上がって行けるかだが、男ならば頭が図抜けてよい必要があり、それに男前であればなおよい。女ならば美人でさしずめフェロモンの過剰であろうか。ここはドラマであるのでそうした条件をごく単純な形に還元して描いているが、現実を考えてもこれは真実であり、そうした条件すら持たない者にはドラマが起こり得ることさえないという残酷な現実が露に立ちはだかる。そしてそのような人間の典型として特徴ある何人かが脇役として出て来るが、コミカルには描いているものの、実際を考えるとそれはかなり「切ない」人間像で、そうした脇役に対しての共感もまた感じずにはおれない。この現代韓国における深刻な貧富の差を、持たざる者の中の頭脳優秀な若い男が改めて考えた時、そこにかつての共産主義の実践理論が頭をもたげて来るのは当然と言える。ジソプ演じるカン・イヌクはそうした男としてもうひとりの主人公として登場する。彼はソウルの貧しい一角に住みながら、夜にはアントニオ・グラシムの『獄中記』を読む人物として描かれている。イヌクの隣にはハ・ジウォン演ずるバリでガイドをしたスジョンが住んでいるが、やがてふたりには恋が芽生える。スジョンやイヌクの住居はグラシムが住んだ牢獄然としているが、そのイヌクがやがて会社の中で地位を高めつつ、密かに金を溜め込むようになる。そして最後は大金とともに愛するスジョンとともにバリのホテルに逃れるが、それは共産主義に共鳴していたはずのイヌクの世に対する矛盾を思う気持ちの帰結であるとすれば、どこかで間違った道を歩んだことにほかならない。物語としては罰を与える必然がある。一方、初めから持つ者であったジェミンは、自分のものには決してならない女への恋に狂うが、これもまた必然であって、やがて破滅するのも自然な成り行きだ。これもまたあるいは天罰と言える。だが、ふたりの男に愛される貧しい女が死ぬことになる不条理はどう思考をまとめるべきか。スジョンが最後までイヌクかジェミンのどちらを好きかと行動に示さなかったゆえの罰として考えるほかはないが、女が格好いいふたりの男に言い寄られてどっちとも決められないのはあたりまえの話で、ここはスジョンには罪は全くない。いずれにしろ『冬のソナタ』や『ラストダンス…』でも同じような感じたこの不条理があるからこそ、ドラマがより高い次元で完成すると言えるが、切ない結末は全く切ないとしか言いようがなく、考え過ぎると廃人になるのでした。ハイ。
by uuuzen | 2005-07-21 21:01 | ●鑑賞した韓国ドラマ、映画
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時々ドキドキよき予告

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