繁華な商店街を歩くのは楽しい。店の明るさとともに、さまざまな人を見ることが出来るからだ。ところが、この商店街がほとんど繁昌せずにシャッター通りと言われる状態になっているのが今の日本だ。
そしてそのさびしい商店街に造花の桜が飾られているのは、なおさらさびしさを感じさせるが、造花の桜を飾って少しでも人を呼ぼうとしている商店街の人々の努力が見えて、その分は心が温まる。季節はいつも確実に周ってどんな辺鄙な田舎でも桜が咲く気温になる。そんなことを思わせもするからだ。さて、今日は昨日の続きを書いておこう。京都駅ビルで展覧会を見た後、三井寺の隣にある歴史博物館に行った。同館は数年ぶりで、前回は息子の車で家族3人で出かけた。その時、同館のレストランで昼食を食べたが、そこはかなり安くて便利だ。同館の近くには食べる場所は全くなく、浜大津まで行かねばならない。その浜大津でさえも10年前までは大型の施設が湖べりに建っておらず、食べる場所がないに等しかった。それほどに人口が少なく、繁華街とは無縁の大津であった。京都の繁華街でも昔は大阪に比べればそんなところがあったが、一昨日書いたように近鉄奈良駅のすぐ近くの代表的商店街にたくさんの食事どころが出来たのと同じように、この30年で倍増したように思う。だが、その一方で地方都市の地元の人が主に利用する商店街はどこも閑散として来た。大津歴史博物館のレストランは、瀬田の文化ゾーンにある図書館のレストランに似て、いかにも田舎っぽい雰囲気に満ちているが、違うところがひとつある。それは家族3人で出かけた前回にも感じたが、レストランの入口に立つと、ラテンのダンス音楽が聞えたことだ。壁に貼ってあるたくさんの紙を見ると、ダンス教室を開催している部屋があることがわかる。おそらく60、70代の男女が集まって楽しんでいるのであろう。前回行った時は、派手な衣装の男女がぞろぞろとレストランの近くを歩いていて、ぎょっとしたものだ。山手の見晴らしのいい、そしてひっそりとした同館の内部に、男女の笑顔に満ちる活気のあるダンス部屋があって、それがどうやら頻繁に使用されているらしい。歴史博物館といういかにも厳格なイメージのある建物の中に、娯楽に使われるそうした部屋があることは、市民の要望に応えている意味で、微笑ましさ以上に切実さを感じさせる。その切実さとは、高齢者の悲哀であり、それは造花の桜のような美しさでもある。そういうダンス好きの男女が、街中の商業施設を使わないあのは、おそらくそういう場所が大津にはないからだろう。それで不便ではあっても、こうした公共の施設を借りているに違いない。そういうダンスに熱中する70代の男性や女性を筆者は個人的に知るが、世代の違いを強く感じる。世代が異なれば、趣味もそうとう異なる。だが、筆者の世代が70代になった時、それまで関心がなかったのに、急に踊りたくなる者が続出するだろうか。つまり、ある世代になった時にダンスを始めるのかどうかだ。ダンスは男女が手をつないで身を寄せ合う行為で、そういうことに改めて憧れるようになるのが、高齢者ということか。だが、同じ高齢者でもダンスにはそこそこの経済的ゆとりがいるし、また自分に自信がないととても他人と一緒に踊る気にはなれないのではないか。
話を戻す。駅ビルで展覧会を見た後、JR京都駅に入り、東海道線と湖西線が両側に並ぶプラットホームに立った。湖西線の電車が停まっていたので、東海道線の山科の次の大津と、湖西線の山科の次の大津京とでは、どちらが三井寺に近いかと車掌に訊ねた。すると、きょとんとして三井寺を知らないと言う。まさかと思ったが、そういう職員もいるのだろう。それで調べて来なかった自分が悪いのだと諦めて、次に入って来た、いつもの東海道線に乗った。数時間後に知ったが、大津京で降りる方が数分の一の距離で断然近い。そう思ってはいたが、歩くのも悪くはないと考えたのだ。そう言えばJRの大津駅で降りたことは記憶にない。浮世絵でこの大津を描いたものがあって、それによると、遠くに湖を見下ろす広い通りが中央に描かれ、道の中央に旅館の客引き女やそれに袖をつかまえられる旅人がいる。それがどの光景を描いたものかずっと気がかりであったが、今回駅舎を出てすぐにそれがわかった。大津駅前には幅の広い道がまっすぐに湖に向かって下がっている。その突き当たりが浜大津で、路面電車の京阪が走っている。筆者は昔からそれを利用して大津に行くのが習わしであった。だが、蹴上辺りから山を越えて山科に至るまでの間が地下化されてから、あまり利用しなくなった。以前の方が地上の風景が見えてよかったのに、なざわざわざ地下を走らせるようになったのだろう。無理やり地下鉄化にして、どこかの団体が儲けたに決まっている。そして利用者にすれば一挙に料金が上がって、京都から大津に行くにはJRの方が半額以下で済むようになった。文明の進歩とは、不要なものを作って何でも値上がりすることと同義だ。それはさておき、坂を降り始めてすぐ右手に裁判所があった。そのファサードは耐震設計を後で加えたことが丸わかりで、骨のように見える筋交の鋼鉄が全面を覆っていた。その異様な無粋さは、滑稽さと悲哀を感じさせた。そのすぐ後、寺の前に小さな石碑があることに気づいた。写真を撮るのを忘れたが、「俵藤太……」とあって、思い当たることがあった。最近読んだ本の中に、日本の御伽噺を紹介したものがある。その中にかなりのページを割き、しかも例外的に挿絵入りでこの俵藤太の、御伽噺としては比較的長い物語があった。三井寺にある新羅神社に詣でて祈願した後、瀬田の唐橋で百足を対峙するといった話が展開するが、藤太は近江に深い関係があることがわかった。筆者が興味深いと思ったのは、藤太が弓の名人であることで、その彼が渡来人に因むことが明白な新羅神社に詣でたという筋立てだ。韓国ドラマの『朱蒙』は高句麗の弓の名人が主人公になっていたが、そのことが伝説的に渡来人によって近江の地に伝えられ、やがて日本の御伽噺の中にもいさかか形を変えて現われたということだろう。
坂を下り切ると浜大津だが、そこまで行くのは退屈な道のりに思えて、大通りを西にわたって住宅地内の道を進んだ。そこをたどって行くとやがて三井寺に着き、そして歴史博物館に至ることが、大通り沿いの看板からもわかった。その道はもちろん初めてのことだ。すぐに国の登録文化財という京の町屋のような建物があった。残念ながらそのすぐ隣が駐車場になっていて、10年や20年前は同じような古い木造があったことを思わせた。旅気分を味わいながら進むと、やがてアーケードのある商店街となった。だがシャッター通りとなっていて、人影はほとんどない。京都にチェーン展開している有名なスーパーがあったが、そこには入らず、先を行くと、大津祭の鉾を展示する館があった。だが、当日は休館日であった。これまた京都にはよく見られるように、狭い路地の口があって、その奥を覗いてみたい気にさせる。そういう寄り道をする時間もエネルギーもないので先を進んだが、初めての道なのでどこをどう行っていいのか正しくはわからず、勘に頼っての散歩気分だ。しばらく行くと魚屋と果物がやたらと多くなり、どこも老人が店番をしていた。大型スーパーが近くにないため、付近の人々はそうした昔ながらの個人経営の店で買い物をするのだろ。そういう生活は昭和時代は日本中にあった。大津の一画にまだそれが健在であるのは懐かしい感じがあってよい。魚は湖で採れるものが中心というほではないが、他県とは違って淡水の魚をどの店でも並べていた。それもまた好ましい光景だ。ふと前方から安物のキーボードと縦笛による合奏が聞えて来た。谷村新司の「昴」という曲だが、これはいつ聴いても筆者は「イムジン河」のメロディを思い出してしまう。そのためうまくパクったとしか思えず、とても名曲とは言いたくないのだが、中国ではえらく大ヒットして、谷村は同地の音楽教授にもなった。それはさておき、合奏はふたりの40代とおぼしき男性で、震災の義援金を募っていた。近くで見ている人は2、3人で、その様子がこのさびれた商店街をなおさらさびしく感じさせた。
商店街を抜けると、線路の見える大通りに来た。その線路は京都に続く京阪の路面電車のものだ。いつもは電車の中から見下ろしていた商店街を歩いたわけだ。信号を待っている間、その向こうにさらに続く商店街の入口やその両側に建つ建物を見つめた。建物は昭和30年代をはっきりと伝える古臭いもので、しかもかなり汚れが目立ち、そのことが田舎に来たという思いにさせる。その商店街は菱屋町という名前であったと思うが、その2時間ほど後、歴史博物館の常設展示の大津の歴史コーナーで、信号待ちをしていた時の筆者の視線と全く同じ角度で撮影したその商店街の入口の白黒写真を見た。割烹着を着た婦人や学生服の男子など、オープン当時の昭和の匂いがぷんぷんとしていた。それが今はほとんど誰も歩かない通りとなっている。そこに入ってすぐ、中央に桜の木立があった。もちろん造花だが、アーケードの天井からは桜とチューリップを印刷した大きな垂れ幕の装飾がぶら下がり、外から吹き抜ける風で煽られていた。そこをさらに突き進むとやがてアーケードが途切れる。右に折れてしばらく行くと大きな朱色の鳥居があった。額の崩した文字はどう読むのかと家内が訊く。「長寺かな」と答えたが、社殿の脇で「長等」であることがわかった。だが、額の文字は竹冠がなくて「寺」であったと思う。それはいいとして、その鳥居前の道は昔一度歩いたことがある。鳥居右手に新しい鉄筋コンクリートの建物があり、また赤い円筒計の郵便ポストが見えて、何となく写真を撮っておきたくなった。これも2時間後に歴史博物館の常設展で見たが、筆者が撮ったのと同じ角度でこの鳥居前の道を撮った、確か明治時代の白黒写真があった。土管を敷設している光景で、その後少しずつこの鳥居前の家並みは変化して来たが、全体としては昔の趣が残っているのではないか。神社をすぎて道に迷い、三井寺に上がる山口の際に建つ案内小屋で道を訊ねた。中年女性がいて親切に教えてくれる。「ここまで来過ぎで、もっと戻ったところです……」と言われた時には、返す言葉がなかった。歴史博物館や三井寺に行くには、その最寄りの駅で降りるのが普通で、そうする場合は長等神社の近くにまで来る人はいないからだ。ということは、同神社から歴史博物館まではまだ多少の道のりがあるということだ。実際そのとおりで、告げられたように道を進むと、やがて三井寺に着きはしたが、そこからさらに歴史博物館までは距離があった。地図で見ると、JR大津駅からせいぜい2キロと踏んだが、きょろきょろしながらでもあって、その倍以上の距離を感じた。