遺体が見つからず、まだ震災による死亡者や行方不明者の数がわからない。何の予告もなしに突然身内がいなくなったり、また家が流されたりして、生きる希望が湧いて来ないとしても、それは当然過ぎる。

今回の震災で孤児が阪神大震災の数倍以上になる見込みだそうで、孤児の引き裂かれる思いを想像すると何とも辛い。筆者は幼い頃、ある日父親が急にいなくなった。何年もの間、母にそのことを訊ねたものだ。心に裂け目が出来ていたのは間違いない。だが、筆者には母があり、ふたりの妹があった。それに引き換え、今回の震災孤児は、全くのひとりだ。その恐怖とさびしさは何をもってしても補うことは出来ない。大人が身内を亡くすことでも耐えられないのに、小学生やそこらで孤児になると、先の人生がどのように見えるだろう。そういう孤児が施設に引き取られても、18歳までしかいることは許されず、その後は国から25万円ほどをもらってそこを出なければならない。確か今回の地震の直前のTV番組でそうした孤児の特集をやっていた。脛をかじる親はおらず、また施設育ちという偏見にも耐えて長い人生の船出をする。誰でもそんな酷い人生はいやだと思うが、人生には予期せぬ落とし穴が待ちかまえていて、いつ何時、身内や全財産を失うかわからない。さて、近畿在住の者にとって東北地方は辺鄙というイメージがある。東北という名称は、日本の東北に位置するところに由来するのだろうが、いつ頃から使われ始めたのか。上方から見ても、また江戸から見ても東北に位置するということ自体、東北に辺鄙な印象があって当然と言えるが、九州や四国のように、位置関係を示さない独自の名称で呼ぶことは出来ないものか。それがそうでないのは、いかにもどうでもよい日本の端という、一種差別的なニュアンスがこもっている気がする。関西や関東に並ぶ意味での東北と考えられないこともないが、現実としては関西と関東は対になっていて、東北はそれに均衡する名称ではない。やはり日本の中心からして東北という外れの地域を意味し、そのことがこの地方の何もかもを象徴しているように思える。小学校で習ったように、東北は冷害という自然災害によって人々の生活が困窮し、子どもを売ったこともある歴史からも貧しい地域との印象もある。それは今でも変らず、夫が東京に出て働いて、生活費を妻子に送る家庭は少なくないのではないか。そうした地方であるから、原発でも造って電力を東京に供給するという発想が、東京にもまた東北地方にも芽生えたのだろう。
今回の地震から数日経った頃、千昌夫をぼんやりと思い出した。東北を背負って歌手デビューし、今も東北人のひとつの代表的存在になって日本中に知れわたっている彼だが、地震の被害に対してどんな思いでいるだろうと想像した。それが数日前にNHKのTVに他の歌手と同じように、地震に対してコメントする映像が流され始めた。1分ほど話した後で、代表曲「北国の春」を歌う場面に切り変わる。筆者は演歌を好まないが、コメントの後のこの曲は東北の春そのものという感じがあって、実によい。東北には行ったことはないが、この曲から感じられる風景を思い浮かべればいいのではないか。このような流行歌によって被災者がすぐに癒されるはずもないが、歌を聴き、また歌っている間は心が洗われる。千昌夫が出た後、ひょっとすればと思っていたところ、やはりもうひとりの東北を背負って立つ歌手の新沼謙治が同様にコメントし、代表曲「嫁に来ないか」を歌う映像が流れた。いや、実際には映像を見ていない。3階で仕事しながらラジカセを鳴らしっ放しにしていて、FM放送を聴かずにNHKの総合TVの音声を流している。それで聴いたのだ。そのため、新沼の顔は見えないが、そのコメントはなかなか心がこもっていた。そしてコメントが終わった後に流れる歌は、「北国の春」と同じように感動もので、こんなにいい曲だったかと思った。歌手は歌うことしか出来ないが、歌うことで人々の心に何かを染み入らせることが出来るのであれば、それ以上の喜びはないだろう。形あるものは消え去る運命にある。歌もその意味では例外に洩れないかもしれないが、元々音楽は手に取るような形はなく、心で感じるものであるだけに、人間がいる限り伝わって行く可能性を持つ。東北の人々が千や新沼の曲を愛するのはよくわかる気がするし、今後も愛され続けるだろう。震災に遭って絶望の淵にある人に、歌など楽しむ余裕はないかもしれない。その意味で芸術は大災害の前にあって何とも無力で、またあまりにもはかないが、人間は絶望しながらも夢を抱くことは出来る。そういう余裕といっていいものを元来人間は所有している。泣くだけ泣けば、いつか涙は乾く。人間には自己保存のための限界点のスイッチがあり、これ以上絶望すればもう終わりと感じるそのギリギリのところで、かすかな希望を見る気分の芽生えに気づく。そういう時、歌は前進するためのひとつの道具になるだろう。歌うことで絶望を忘れるでもいい。かつて朗らかに歌った曲を思い出し、そっとそれを口づさむか思い出すだけで、わずかでも何かが変わるし、それを実感することは出来る。現実が辛いものであっても、そういう別世界的な広がりを思い浮かべることで、辛さが軽減出来る。そうは思わない人もそう思ってみるべきだ。
月末になったので、何か思い出の曲を取り上げようと先日から考えた。震災から数日経った頃、脳裏に浮かんだのは今日取り上げる曲「Favela( O Morro Nao Tem Vez)」のメロディだ。音を拾ってみたところ、Gマイナーだ。3分20秒で、フルートが最初のモチーフを奏で、次にジョビンのピアノがぽつりぽつりと合間を埋め続ける。バックにオーケストレーションはなく、全体に単純な印象が強い。それだけに主旋律が印象に残りやすい。以前「イパネマの娘」でアントニオ・カルロス・ジョビンの曲を取り上げたので、一作曲家一曲というこのカテゴリーの一応の取り決めからすれば、ほかの曲にすべきだが、スタン・ゲッツとアストラッド・ジルベルトのふたりをフィーチャーしたヴァージョンを紹介した「イパネマの娘」には、ジョビン色は後退している。それで今日はジョビンのアルバムから選ぶことにすればいいかと考えた。この曲には「イパネマの娘」と同じように、歌詞つきのヴァージョンがあると思うが筆者は聴いていない。歌詞があると考える理由は、曲名だ。「favela」はポルトガル語で「スラム」、「O Morro」は「丘」の意味で、丘に密集した貧民の町を思えばよい。そして、「O Morro Nao Tem Vez」は「スラムは夢を持てない」と、えらく悲観的な意味で、これはそれに見合う歌詞があるのではないかと思わせるに充分だ。スラムに夢がないのは、貧しい人は世に出る機会が乏しいということだ。これはかなりの程度どの国でも言える。まず教育にお金をかけられない。教育がなくても金儲けは出来るが、たいていは成り金となって代々続く本物の金持ちからは蔑まれる。これもどの国のどの時代でも同じだろう。ジョビンはブラジルにはそういう町や村がたくさんあるという現実的なことをよく知り、ある意味では同情もあってこういう題名の曲を書いたのだろうが、題名だけからは残酷な現実が見えて辛いところがある。ジョビンは音楽的才能を伸ばすことの出来る境遇にあり、また作曲家として大成功したが、スラム街の存在を忘れなかったということか。また、スラムの住民には希望が持てないという思いは、貧困に対する告発と考えられなくもない。今回の地震の被害をTVで見ながら、筆者がこの曲を思い出したのは題名が理由ではない。題名の意味はこの曲を取り上げるつもりになって知った。津波の被害に遭った町はそのままでは人が住めず、スラム以下の存在だ。被災地では些細なことで人が喧嘩を始めるようにもなっていて、夢を持つことが出来ない人々の集まりだ。筆者がこの曲をぼんやりと思い浮かべたのは、もっともなことであったと言うべきだろう。津波で死んだ人の中にはたくさんの音楽好きがいて、瓦礫の中にはこの曲を収めたアルバムがきっと混じっているはずだ。そして、被災者の中にはこの曲を好きな人もいるであろうし、また避難しながら、この曲を思い浮かべている人もあるかもしれない。そして、スラムには夢がないことを自嘲気味に思うこともあるかもしれないが、この曲を思い出す余裕のあることは、まだ心にゆとりがあることだ。それは健全なことだ。

ジョビンは1927年生まれで、94年に亡くなった。ビートルズやザッパよりひとまわり上の世代だ。その分、音楽は先んじ、また人気もそうであった。そしてその分、筆者は同時代的にはほとんど楽しめる立場になかった。本曲が収録されるアルバム『アントニオ・カルロス・ジョビン、デサフィナードの作曲家が演奏する』が録音されたのは、1963年5月だ。これはビートルズのデビューとほとんど同じで、日本ではビートルズとジョビンが同時に聴かれたことになる。そして、ビートルズの方がより人気を獲得した。それはスタン・ゲッツという、ビートルズより前の世代のジャズ・メンが紹介したことでボサ・ノヴァがより世界的人気を獲得したという、一世代前の音楽の見方がなされたからでもあるだろう。初期のビートルズはサックスの音を嫌って用いなかった。それはジャズ色を消し去りたい思いからでもあった。そしてボサ・ノヴァはジャズよりどこかもっと上品で澄ましたところがある。それもビートルズのシャウトするような音楽からは対極に位置するものであった。もっとも、ボサ・ノヴァは使うコードなど、複雑かつ独自性があって、その点ではビートルズの音楽と比較出来るものではないが、60年代以降の世界の音楽により影響を与えた存在として見るならば、ビートルズが圧倒的に勝っている。そこで思うのは、ビートルズのデビューとは違ってもっと早いか、あるいは遅ければどうであったかという想像だ。実際はジョビンは50年代末期に録音しているからビートルズより先んじ、また白人のスタン・ゲッツが注目したことはうなづける。ゲッツは他の同世代の黒人ジャズ・プレイヤーとは違って、リズム・アンド・ブルースやロックンロールなどへの傾斜はほとんどなかったのではないだろうか。同じ新しい音楽であるとしても、ボサ・ノヴァに注目したところに、ゲッツのジャズにおける自分が占めるべき位置が見えている。スタン・ゲッツは本曲もカヴァーしている。ジョビンの録音の2年後で、ジョビンはギターで参加している。同じキーで、演奏時間はちょうど倍だ。ゲッツのサックスが中心になるのであるから、当然即興演奏が入り、倍の長さとなった。元の素朴な味わいがジャズに化け、また艶めかしくなった。たっぷり聴きたい場合はこっちのヴァージョンがよく、ジョビンの最初の発想を味わうにはフルートとピアノを中心とした63年の録音がいい。だが、ゲッツのヴァージョンでのジョビンのギターはとても味わいがあり、ジョビンにすれば63年の録音では果たせなかった思いを遂げたとも感じたかもしれない。
ところで、1960年代半ば以降のジャズは、筆者には末期状態に入ったものに映るが、ジャズ・ファンにとってはそうではなく、70年代に入っても成長し続けた音楽に思えるに違いない。つまり、同じ時代の音楽でありながら、ほんの数歳、あるいは好みの差異によって、どういう音楽を最も優先的に見つたいかが異なる。これはほとんど誰しもそうだろう。筆者がジョビンのアルバムで最初に聴いたのは『波』で、20歳のことだ。さほど夢中になることはなかったのは、当時セルジオ・メンデスがブラジル音楽の代表として大きな人気を得ていて、彼がビートルズの曲をカヴァーもして、より新しいブラジルの音楽という気がしていたからだ。ジョビンの曲はその前にあっていささか古くておとなしい印象を抱いた。やはり時代は激しいリズムで大きな音量の曲という方向に進んでいたのだ。筆者は中学生の時に「イパネマの娘」の大ヒットに遭遇し、ボサ・ノヴァはラジオではよく接していた。「イパネマの娘」の女性のかすれた物憂い歌声と、なまめかしいサックスの音は、ジャズを好む世代にとっては全面的に共感出来るものではあったが、中学生にはあまり近寄ってはならない大人の色気があり過ぎるように思えた。そして、ジョビンの音楽を大人になってから熱中せずに聴き直したが、大人になってからの音楽体験によって各ジャンルの音楽における優劣がどの程度正統的に脳内に刻み直されるかと言えば、残念ながら中学生の頃に一旦刻まれたことの影響から脱するのは困難だ。こんなことを書けば、今の20代や30代はビートルズもジャズもみな過ぎ去った後で追体験するしかなく、そういう聴き方には意味がないと断言することにもなりかねないが、1951年生まれの筆者は成長期にビートルズもジャズもボサ・ノヴァも台頭して来て、そのどれをも摂取出来る世代にありながら、ビートルズに最も染まったという事実を改めて考え直す。また、一般に正統と言われたり、名曲と呼ばれるものにすっかり同調して自己の脳裏に刻み込む必要はない。自分が好きであればそれでいい。さて、なぜこの曲を思い出したのか自分でもわからない。哀愁を帯びたメロディであるから、津波の被災地にふさわしいと、意識下で思ったのかもしれない。ただし、被災地がスラムのようで、そこに避難している人々が夢を持たないと言いたいのではない。ジョビンのボサ・ノヴァは洒落た音楽と一般には認識され、きれいに掃除された金持ちの部屋に似合いそうなところがある。あるいはヴァカンスのイメージがあって、くつろぎには持って来いという思いだ。その意味からすれば地震の直後にボサ・ノヴァはいかにも似合わないが、ジョビンはスラムを含めたリオの街を愛していたはずであるし、この曲にはスラムの住民に対する同情があって、それは高みの見物ではないだろう。筆者はジョビンのファンというほどではないし、また洒落た部屋やヴァカンスにも無縁であるから、全く別な思いで聴いているところがあるだろう。だが、そこが音楽の面白いところで、物悲しいメロディという表現も、単にそれにとどまらないところがある。短調や長調の差によってそう簡単に曲は色分けが出来ず、聴く者の個人的体験に負うところが大きい。ストラヴィンスキーが言ったように、音楽は何も表現せず、ある音楽をどう感じるかは人によってさまざまだ。