贋物は本物の代用品で、その意味でさびしいものだ。街中のそんなさびしい桜の造花を3月26日には3か所で見た。その日は京都駅の百貨店で展覧会をひとつ見て、その足でJRに乗って大津に出かけた。
天気がよかったので、京都駅まで四条烏丸から歩いた。その途中、東本願寺のすぐ近くで贋桜を2か所で見た。東本願寺では観光バスが何台か停まり、大勢の門徒が寺の中に入って行くのが見えた。今年は親鸞の750回忌で、展覧会も美術館で開催中だが、先日のTVでは親鸞の遠忌を祝うことをやめて、東北の被災地に物資を送る活動を門徒が行なっている様子を伝えていた。親鸞もその方が喜ぶに決まっているという思いによるだろう。そこで少し気になったのは、東北の門徒に限って物資が送られているのかどうかだ。宗派に関係なく被災者全体に寄付や奉仕が施されるのであればいいが、時に宗教には偏狭なところがあって、自分と同じ宗旨の者とだけ相互援助する場合がある。わが自治会でも、自治会費は支払うが地蔵盆には参加しないという、ある宗教の信者がある。宗旨に反するからという考えだ。その宗旨とは仏教の一派であり、その点で地蔵盆に参加するのは何らおかしいことではないはずだ。その宗教では地蔵盆を嫌うどんな教えがあるのか、同じ仏教の中でもこうも考えが違ってしまっているとなると、日本の仏教はとっくに壊れてしまっている気がする。現世の御利益があることを第一に考え、その旗印のもとに大勢の信者が集まる。そしてそれらの信者は他の仏教とは交わらず、むしろ批判する。釈迦がこの状態を見れば嘆くだろう。町内の地蔵盆は町内の子どもの安寧を願うものだ。それ以外の何らかの宗教上の誘導要因は一切ない。それを自分の宗派は地蔵盆と無関係であると主張してそれに協力しないのであれば、その家の子どもは自分を特別視して自惚れた大人になるか、あるいは仲間に入れてもらえないさびしさから、先々親の態度に反感を抱くかもしれない。だが、後者の心配は毛頭無用で、信者は日本中に無数にいるから、選民意識を抱くに違いない。
それはともかく、28日にあった自治会の決算総会では、早速4月に今回の大地震の義援金を町内から集めることになった。西京区全体で決まったことで、自治会員はそれにしたがう。だが、寄付は各自の自由で、どれだけ集まるか予想がつかない。自治会では毎年日本赤十字の共同募金や赤い羽根の募金をしている。それらで集まったお金の何割かは、やはり被災地に送られることは確実であるし、日赤の募金と同じ4月に義援金を募ることは、何とはなしに二重徴収の思いがしないでもない。また、義援金を集めるために町内を一軒ずつ周る組長にすれば、恒例の日赤募金の際に、特別に今年だけは義援金分を加味した額にしてほしいという文面を自治会が用意してくれれば、家を周るのが一回で済むという思いもあるかもしれない。ところが、ややこしいことに、自治会によっては年間の自治会費をやや多めに徴収し、その中から自動的に日赤と赤い羽根の募金をしているところがあって、そういう自治会ではやはり今回の地震の義援金は特別に独立して実施する必要がある。ついでに書いておくと、わが自治会は年間3600円の会費で、これは他のほとんどの自治会が決めている6000円よりかなり安い。6000円は年金暮らしのお年寄りにとっては比較的大きな額で、しかも老人は自治会の大きな行事である運動会に参加して楽しめないこともあって、自治会を脱退する人が増加傾向にある。わが自治会は3600円とかなり安いことが自慢のように言われるが、実際は年6000円より割高だ。というのは、日赤と赤い羽根の募金は別枠で組長が徴収するから、そられの分を足せば6000円を越える場合があるからだ。自治会費から自動的に幾分かを寄付に回すことは、それこそ先の宗旨の違いではないが、寄付の強制であり、それに文句を唱える人があっていいはずだ、だが、そういう意見は聞かない。寄付は別という考えからわが自治会では自治会費とは別に募っていて、これは組長の仕事は増えるとしても、理にはかなっている。そして、毎年自治会ごとの寄付額が公表され、わが自治会は段トツにそれが大きい。年6000円の自治会費からいくらの額を寄付分として回しているかは、その公表額からおおよそ推測出来る。その額はわが自治会の1軒当たりの平均的寄付額の半分に満たない。これでは、徴収して周るのが面倒というより、いやいやながら寄付しているという雰囲気が強い。だが、ある人に言わせれば、そうした寄付を募る元締めの団体は、毎年日本で最も豪華なパーティを開き、東京には巨大なビルをかまえ、寄付金が全部寄付した人の思いどおりに使われていないとのことだ。そう言えば確かに先日のTVではその巨大なビルが映り、そうした施設や人件費に寄付が使われているとすれば、寄付する気持ちも萎えるという気がした。寄付やボランティアは、する方は全くの奉仕精神からだが、それを取りまとめる何らかの組織は必要であるし、また毎年集まる額が数百億単位ともなれば、組織にいる人は経営者と同じ感覚を持つこともあるだろう。そして、そうした人たちの生活は、寄付者やボランティアとは違って、収入やそれに匹敵する何らかの経済的見返りを得ているはずで、これは宗教団体と何ら変わらない組織と言えるのではないか。
筆者は自治会長を丸2年務めたが、もう2年はやるつもりでいる。そして毎年新たに見えて来ることがある。簡単に言えば矛盾や不明点で、それを自治連合会の集まりで質問する自治会長がいる。だが、概して例年どおり、つまり何事もあまり騒ぎ立てずにそのまま続けて行こうという考えが支配的だ。自治会長は自治会の中で何らかの仕組みで毎年決まるが、自治会長を束ねる自治連合会の会長やその役員は、選挙で選ばれるわけでもなく、親しい者に声をかけて、いわば仲間内で何年も同じメンバーで運営される。それが水の澱みのようなことを引き起こさねばいいと思うが、ほぼ毎年変わる自治会長は、1年程度では自治会長の仕事をまっとうするだけで精いっぱいで、とても連合会を批判する余裕などないし、改革を求めてもほぼ却下される。そしてそうこうしているうちにどんどん自治会員が減少しているというのが実状だ。もう10年もしないうちにわが自治会では、役員を担当する者がいなくなるのは必至に思える。これを解消するには、隣の自治会と合併して自治会の人数を増やすしかないと思うが、現在14ある自治会を減らすことはどうも大変らしい。かつては4つ程度しかなかったものが人口の増加とともに分割されて14になったのは、この数十年のことだ。そして今は高齢化と少子化によって人口が最大時より千数百人も減っているというのに、自治会の数は同じままで、これでは自治会内がうまく機能しなくてあたりまえだ。筆者は連合会の総会で自治会の合併を意見したが、まともに取り合ってもらえなかった。そのうち自治会そのものがなくなる時代が来るのではないか。ここで書けば切りがないが、そのほかにも納得し難いことはいろいろある。そうしたことを、ほとんどの自治会員は考えもせず、毎年徴収されるから別段不思議とも思わずに会費を支払っている。先の寄付と同じことで、集められたお金がどういう使われ方をしているのか、もっと関心を持って、疑問点は徹底して追及すべきではないか。年間3600円や6000円程度ではどうでもいいと思う人も多いが、そこから自動的に1軒当たり1000円を連合会に吸い上げられ、それが数千軒も集まるとそれなりの額になる。筆者は自治会長として年間8000円程度のコピー代を使うが、先日の決算報告ではその3倍以上の金額として報告された。それはコピー代のほかに文具代などの消耗品を含むという断り書きがあってのことで、コピー以外の消耗品が2万円も使われていることを知った。いったい何に使ったのか、筆者には思い当たることがない。来年の会計報告ではもっと項目を細分化し、コピーはコピーとしての分のみを明記することを伝えるつもりでいる。会計と監査はもう何十年も同じ年配者がやっていて、これはあまりいいこととは言えない。自治の精神からすれば出来れば毎年すべての役員を交代すべきで、そうして馴れ合いになっていることを常に刷新を心がける必要がある。そしてその意識をもう2年の間に筆者がどこまで実現出来るかどうかだ。何十年と同じ人が務めるのは、まるで造花の桜で、それはある意味では他の人に変わっての奉仕精神の賜物だが、一方で他の人の自治会への関心を奪い、自治会のまとまりをなくす方向に加担する。したがって、本人がやりたいと言っても、ぱっと散る桜のように、1年限りで次の人に交代する方がよい。筆者が4年ほど務めようと思っているのは、書かれた会則すらない状態を改め、今後は比較的若い人が参加出来る仕組みやムードを作るためには、最低その程度は必要と思うためだが、その道はなかなか険しい。