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●凹み恋の笑クボ
んだ心を平らに戻すには、時間と、出来れば気晴らしになる非日常的な機会が必要だ。津波で家や家族を失った人々が集団で暮らし始め、そこを取材して放映することが多くなって来ている。



今朝のNHKの番組では、被災者に連帯ムードが高まって笑みが出始めている現在の時期をハネムーンになぞらえ、阪神大震災の例から、それ以降次第にまた気分が凹み始めることを伝えていた。その気分の下降期をどう乗り切って地震前の平常な心の状態に戻るかが問題だ。ハネムーン期の被災者の生活はTV番組のネタになりやすく、視聴者はそれを見て感動する。それが過ぎてから長らく続く下降期は、マスコミはほとんど紹介せず、被災者は半ば忘れ去られて、心の凹みをまた強く感じ、ひとりずつがそれを耐え続けなければならない。阪神大震災では、早朝通勤のために商店街を歩いていて、倒れて来たブロック塀の下敷きになって死んだ人がある。その人は大地震を感じた直後に死んだが、死因は重い塀の倒壊による圧死だ。同じ事故は大地震でなくても起こり得る。実際2、3か月前か、女子高校生が自転車で解体現場の際を走っている時、コンクリートの塀が倒れて来てその下敷きになって死んだ。人生とは時間の経過に沿って前に歩いて行くことだが、その途中で思わぬ落とし穴があることを、そうした事件によって人は知る。人生の落とし穴は全く突如で、大地震でなくても誰でもある程度その可能性に晒されている。ところで、小学生当時の昭和30年代、この落とし穴遊びをよくやった。まだ広場があちこちに残り、道路がアスファルトで敷き詰められておらず、スコップで掘ると子どもの下半身くらいは入り込む穴を作ることが出来た。そうした穴の上部に薄い板を被せ、土を撒いておく。そこに近所の子どもを導いて歩かせ、穴に嵌める。それを笑ったものだ。いじめではなく、落とされた方も大笑いをした。遊びは豊富で、また全身を使ったのではないだろうか。今にして思えば、その落とし穴遊びは人生の行路を象徴していた。子どもの遊びは大人の社会の縮図であるように思わせる。
 さて、散歩好きな筆者は、遠くへ旅する時間的経済的余裕が慢性的にないため、日帰り出来るところで間に合わせる。そして何か目的ついでのことで、その目的は必ずひとつではない。もったいない主義から、目的をいくつか作る。このブログでもそうだ。たとえば1日の行動で数日の投稿ネタが出来る。それで今日は昨日の投稿の続きを書く。奈良にたまに行くとはいえ、筆者の行動範囲はごく限られる。奈良は名所が点在し、また歴史に関心がなければそうしたところを周る気分にはならない。そして、車に乗らない筆者には不便で、毎年秋になれば行きたいと思う場所が奈良にあるにもかかわらず、そのままになっていたりする。だが人生とはそのようなものだ。気になりながら忘れてしまうことの方が多い。そしてそのうち落とし穴にはまるか、病の床に就く。これまで見て来た死から、後者が多いことは明白だが、死への準備が出来る後者の方が自分にも周囲の人にもいい。それが、今回の地震では一斉に大勢の人が大きな落とし穴に飲み込まれた状態で、残された人の思いの整理は長年を要するだろう。先に子どもの遊びについて思い出した。今回の津波でまず連想したのは、マーク・トウェインの最晩年の小説『不思議な少年』だ。これには2種があって、トウェインの原稿に加筆したものとそうでないものがある。どちらも読んだが、どちらにも子どもを題材に名作を書いたトウェインの厭世的な面が出ている。ある不思議な少年が、ごく短時間の間にフィルムの早回しのように人間の歴史を見せる場面があって、そこでは人間は蟻のように小さく見えている。少年は粘度細工のように人間世界を何度も壊したり作ったりすることが出来るが、トウェインはそこに神の仕業を思ったのだろうか。その神は残酷を超えて、ただ人間には無関心なのだ。トウェインがそうした思想を最晩年に持つに至ったのは、個人的な不幸の連続や、飛行機や爆弾の発明など、文明の進展によって戦争が一挙に残虐なものとなる予感があったからでもあるが、今回のような大きな自然災害も思っていたのではないだろうか。戦争は人災だが、戦争に至る前には食料不足など、自然災害が引き金となる場合はよくある。そうしたことを前にして人は蟻のように無力で、一気に落とし穴のような被害に飲み込まれる。『不思議な少年』で鮮明に記憶に残るのはそうした部分だ。津波の被害で見わたす限り瓦礫となった東北の町を見ていると、『不思議な少年』に見える厭世思想を思わずにいられないが、それは被災者でない者の空想に過ぎず、実際はもっと悲惨で、言葉が出ないだろう。
 トウェインの話で思い出した。これは前に二度ほど書いた。トム・ソーヤーかハックルベリーかどっちの話だったか忘れたが、塀を白ペンキで塗ることを命じられ、その作業をやる羽目になった主人公は、いやな仕事だが鼻歌混じりにその作業をこなす。すると子どもたちが集まって来て、なぜ楽しいのかと不思議そうに見る。そして主人公はお金を取って子どもたちにその作業をやらせる。さらに子どもはたくさん集まって来て作業をしたがり、しまいには塗るべき塀がなくなり、地面まで塗る。この話は仕事に向かうべき態度の大きな真実を示している。何でも気分次第なのだ。今朝のNHKのTVで、ある被災地では避難所の各人が何らかの役割を持って生活していることを伝えていた。そうすることで暮らしにはりが出て来たという。これがハネムーン期だ。もちろん人によってはなだまともに動く気になれなかったり、またそれを他の人から内心とがめられたりと、うまく機能しない部分を抱えるのは言うまでもないが、落ち込んでばかりもいられないと思うのは人の正常なところであって、そうしたハネムーン期がなければ、その後の下降期とそれから平常に戻る上昇期もないのではないか。このハネムーン期、それに続く下降期、そしてふたたび上昇する時期というのは、一緒に暮らし始める男女にも言える。筆者は結婚して30年以上になるので、もう平常な安定期だが、ずっと外で働いている家内は、休みの時は気晴らしに外に出たがる。そうしていては家の中の掃除や整理が行き届かないが、それはそこそこにしても、精神的なゆとり、気分転換は必要だ。そして、筆者は展覧会を見に行くことを中心に家内と一緒に出かけることが多く、そういう時、行き先を言わずに電車に乗る。毎回どこへ行くのか質問されるが、どっちの方面か言うだけで、正確には伝えない。それでも電車に乗って座席に隣合わせに座った途端、家内の顔が明るくなる。非日常的な時間に入ったことを実感しているからだ。その非日常はほとんど何度も行ったことのある場所でもいい。思い切ってヨーロッパに旅したいなどと贅沢を言われることがあるが、今はそれが出来ない時期であるので、お互い冗談と思って話を交わす。で、筆者のリードによって時には20メートルか50メートルも後をついて来る家内は、筆者があまりにも過酷な散歩を断行するので、帰りはたいてい不機嫌になる。それでもまた一緒に出かける。
 家内は『お水取り』の展覧会を見た後、そのまま帰ると思ったらしいが、筆者はもうひとつ用事があると伝えて、猿沢の池からそのまま三条通りを西に進んだ。その道は去年秋にも歩き、その時はJR奈良駅まで行った。今回はその駅を越えて、南西に1、2キロ行かねばならない。家内はどこへ行くのかと訊ねるが、無言で筆者は先を行く。ネットで印刷した地図を持ってはいるが、初めての土地なので、距離感がわからない。それに方向音痴であるから、一歩間違えるととんでもない方向に進む。奈良駅を越えると人影はほとんどなく、道を訊ねるにも出合わない。さて、行きたい場所は奈良県立図書館であった。ここには数年前に行きたいと思った。京都ドイツ文化センターでそれまで毎年開催されていた『ドイツの美しい本』展が、同図書館で開催されるようになったからだ。その理由はわからないが、来場者の少ない同センターより、もっと多くの人に見てもらいたいという思いになったのだろう。とはいえ、京都市内にいて便利であったのが、とても不便になった。同展はドイツで出版される全書籍の中から装丁や印刷など、あらゆる面から判定して数十冊を選ぶもので、その実物が手に取って確認出来る。同展だけ見るために奈良まで行く気になれないので、奈良で同展が開催されるようになって一度も出かけていない。そのため、現在も毎年開催されているのかどうかは知らない。ともかくこの図書館に行く気になったのは、関西のある古書店で1万円で売られているとても珍しい本が置いてあって、それを閲覧するためだ。ネットで調べると、この図書を蔵する施設は関西では同図書館のみだ。当然貴重書扱いで、ひょっとすれば閲覧が許可されないかもしれないが、そうならば古書を買えばよい。そう思って出かけた。地図を片手に歩くと、倍ほど遠い感じがする。途中で道が怪しくなり、自転車に乗った若い女性を呼び留めて道を訊ねた。5分ほど一緒に歩いてくれたが、両脇に新築の家が建ち並ぶ私道に入ったりと、こうして書いていてそれなりに面白く歩いた道を思い出す。だが、その女性の言った道はあまり正しくなかった。
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 スーパーの万代というのが大阪南部に系列店としてある。図書館への途上にその万代が地図にあったので、まずそこへ行きたかったが、女性と別れてすぐにその店が見えた。店で黒砂糖入りの飴を買って早速舐めた。もう夕暮れ間近で早く図書館に行かねばならない。万代を出ると真正面にバス停があった。そして次のバス停が「恋の窪町一丁目」という、まさかと思える町名であった。新興住宅地でそのような名前を採用したのかどうか、あるいはラヴ・ホテルがたくさんあるのか、何とも理解し難い名前で、これは調べ甲斐があるなと思いながら写真を撮った。そして200メートルほど行くと、そこがその町名であったが、ラブホはない。また新興住宅地であるようなないような中途半端な家並みだ。もうそろそろ図書館かと思ってまだ半分は未舗装のような広い道に出ると、左手前方に図書館らしき建物が見えた。だが、その前に川があって、しかも橋をかなり遠く離れたところにあるようだ。眼の前に図書館があるのに、さらに10分か15分は遠回りをしなければならない。そうか、やはりさっきの女性の言った道をたどるべきだったのか。そう思いながらも川に向かうと、70代のかなり痩せ型と、その反対に太ったタイプのふたりのけばい女性が道ばたで話をしていた。近寄って道を訊ねようといた時、ふたりは筆者に気づいて話をやめ、こちらが質問するが早いか、この道を行けといったように身振りで示し、そして太った方が慣れなれしい笑顔で、「あなたー、しっかりしてよー」と言った。その細い住宅道を入ると、正面に図書館が見える。道の長さは50メートルもなく、途中の電信柱に「恋の窪町」のプレートがあった。その写真を撮ったはずなのに、どういうわけか写っていなかった。暗くなり始めていたので、シャッターが下りたと思ったのは、そうではなくて、露光の調節中であったのだろう。地図には載っていないが、人がわたれるだけの狭い橋が架かっていて、それをわたると図書館の正面玄関だ。橋をわたりながら、凹みかけた気分がふくらんだ。図書館は親切な応対で、貴重書ではあるが、すぐに閲覧出来た。江戸時代の本であるので読むのに手間取り、1時間ほどかかった。図書館を出ると真っ暗で、今度は地図にない道を、初めて利用する最寄りの駅まで歩いた。途中でまたスーパーがあり、そこにも入った。もういい加減お腹が凹んでいるが、鶴橋で食べようと思いながら近鉄に乗った。結局天六の回転寿司を食べたことは昨日書いた。満腹になって、ふくれっ面の家内は少しは笑みがこぼれたが、慢性的不満がそう簡単に治るものではない。
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by uuuzen | 2011-03-30 20:56 | ●新・嵐山だより
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