津波から絆という言葉を世界に向けて発信しようとTVが言っていた。それをぼんやりと耳にしながら今朝は目覚めた。そして、古紙回収日なので、8時半頃に起きて先日紐でくくっておいた新聞紙や段ボール、古着などを回収置き場に持参しながら、2月下旬の寒さと天気予報が伝えていたことが正しいと思った。
山崎のサントリーの工場に行った日は4月下旬の陽気で、それが2か月も後戻りするのは春の特徴で、寒暖を繰り返してやがて暖が勝って行く。大地震が晩秋に生じていれば、被災者の気分は先々の厳冬を思ってさらに落ち込んだのではないだろうか。それはそうと、昼前に、たまにやって来る「目覚めよ」のエホバの証人の伝道者が玄関口に立った。今日は初めて見る中年女性だ。筆者が花粉で目が充血し、また鼻炎で鼻をズルズル言わせている様子を見て、短く切り上げようと決めたようで、「ルカ伝」から第21章のある節を引用するだけで帰った。イエスが大地震の到来を予言した箇所だが、もちろん彼女は東北の大地震に因みながらで、やがてその災害も収まるとイエスは言っているとつけ加えた。3階に上がって『聖書』を引っ張り出すのが面倒なので、ネットで調べると、同章の最初は、寄付をする金持ちと貧しい女を見て、イエスが最も多くを寄付したのはその貧しい女だと言うエピソードであった。イエスがそう言った理由は、寄付した額はわずかでも、それが女の全財産であったからだ。金持ちがたくさん寄付したからといって、その生活が揺らぐことはない。ところで、地震云々の下りは同章ではさほど重要でなく、なぜ伝道者の彼女がそれを筆者に読み聞かせたのか理由がよくわからない。今回の地震に関係して、それよりも大切な部分は、この冒頭の寄付に関する話ではないだろうか。数日前から芸能人らがこぞってTVに出て被災者にメッセージを送るようになり、また寄付をするケースも目立つ。芸能人はTVに顔が出て発言することが商売のひとつの根幹を成すので、地震に際してメッセージを発することは、どこか営業の思いが見え透く、あるいはそう見られて仕方のないところがある。そう見られないためには、芸能人であることをさして主張せず、普通の人に混じって現地でボランティア活動をすることだ。だが、有名であることをいい意味で利用して、広く寄付を募る行為に精を出すという考えもあるし、大部分の芸能人はその思いでいるだろう。またそう信じたい。それはともかく、ボランティアと日本語化したこの言葉は、元をたどって行けば「ルカ伝」第21章の冒頭の話につながっているはずだが、キリスト教に限らず、どんな宗教でも、つまり人間には、同様の援助精神は本来宿っている。
原発への注水は効率よく行なわれているようだが、時に煙が上がってやきもきさせる。電気も通じて、いずれ制御が出来るようになるだろう。そっちの方は着々と進んでいるようであるのに、放射能が外部に漏れ、さきほどは東京の水道水が乳児には飲ませないようにとの発が出た。また野菜や原乳など、微量とはいえ、放射能汚染されていることがわかって、生産者に対する保証問題が云々され始めた。まさかこういう事態を原発が引き起こすことを関係者は想像しなかった、あるいはあえてそうしなかったのだが、そのつけが回って来たと言ってよい。原発は綱わたり的なところがあって、希に綱から落ちることがある。今回はまさにそうたとえてよい。それでも、何でも経済的物差しで考えるのが文明国で、もっと安全な原発を建設するのであればもっと莫大な費用がかかった。安く造った分、こうして後で大きな支払いをしなければならないということだろう。あるいは、関係者はこうした事故を当初から織り込んで、今までに充分元を取って儲けたかだ。だが、それはないだろう。放射能に汚染されてしまえば、農作物どころか人も住めなくなる。この費用は原発をひとつ造る以上かもしれない。筆者が学生の頃、河川工学の先生は、淀川の堤防の高さは、流域の経済力や人口密度など、各地域の重要度に準じていると語った。これは誰にでも予想出来る。貧乏人の家は金持ちに比べて家の造りや大きななど、何もかも貧弱に出来ている。それと同じことだ。もしものことがあった場合、損害が大きく出るところほど、防御は強固にと考えられる。一昨日、地震の被害に遭ったある一家をTVが紹介していた。8年ほど前に家を建てたが、それが津波でやられた。2階部分はそのまま残っていて、無事だった家族がそこに入った。丸窓が両目と口といったような位置に3つ穿たれた部屋から見える海辺の景色が好きで、そこに家を建てたそうだ。笑顔の父親はまた同じ場所に家を建てると言うと、子どもは津波がまた来ると言い返し、父はそれを受けて、また建てればいいと応えた。この父の考えに淀川沿いの堤防の高さの差を対比させることが出来る。次にやって来る大津波は平均すれば1000年後のはずで、その頃まで何世代にもわたって土地に愛着を持って過ごせるのであれば充分ではないか。次の1000年目に大津波によって家がすっかり押し流されたとして、1000年の間それがなかったのであれば元は取れている。実際はそう割り切れなくても、自然の威力を畏怖することでいずれ諦めもつくし、そういう生き方を東北の人は知っているということだ。
高さ10メートルの防潮堤では駄目で、100億以上のお金を費やして20メートルの津波にも大丈夫なものを造るという思いが今回の地震によって具体化しそうだが、それだけの費用をかけ、また毎年の維持費を考えるならば、1000年に1回の大津波に抵抗することを諦める方が合理的という考えもある。あるいは、標高20メートル以下の土地には住まないかだ。生活の便利さを追求しながら、巨大な津波がやって来ればひとたまりもないと状態は、誰もが内心よく知っているはずで、今回はその自然の脅威が改めてわかっただけに過ぎないとも言える。だが、津波の被害を受けた原発がいとも簡単にストップして、放射能を撒き散らしたことは、地震学者や原子力関係者が自然の甘く見過ぎたためと言われても仕方のないところがありはしまいか。だが、それも経済的なことをいろいろと考えてのことであったのだろう。そして、そこから見えて来るのは、東北が東京の下僕的な存在であるということだ。今回の地震によって、なおさら東京が一局集中化していることを心配する。その一方で東京が元気で日本をリードしなければならないという意見が大きい。それはそうなのだが、そのリードすべき東京が大地震で被害を受けた時にどうするかということを考えれば、東京の役割をもっと分離すべきではないか。何でもかんでも東京に集中というのは、何かことがあった場合に致命傷になる。幸いと言おうか、今回の地震で関西は直接的な被害はなかった。そこで思うのは、京阪神を東京並みにすることだ。経済的には幾分そのようになっているが、あらゆる分野でそれを今のうちに行なっておくと、東京か京阪神のどちらかの機能が麻痺しても、もう片方で当分はどうにかなるし、その残った片方が麻痺した片方を再生させる。だが、そういう考えは東京の知事からは賛同を得られないだろう。そうでなくても東京のひとり勝ちした財産を地方に分けることに難渋を示していて、郷土意識が強すぎる。これが国家意識となれば、東京が壊滅的被害を受けても、たとえば京阪神が今までの倍は頑張って、やがて東京を元どおりにするという思いが各方面から出て来るはずで、それこそが絆という言葉のひとつの具体化ではないだろうか。ともかく、まずは原発の暴走が収束し、放射能をこれ以上拡散させない手を打ってほしい。動物の食餌連鎖によって蓄積されて行く放射能の問題もそのことにすべてかかっている。そして、放射能の被害が出て来るとして、きっとそれは貧しい普通の人々が真っ先であるだろう。そして、そういう貧しい人が、イエスの時代から、誰よりも多く寄付をする。