肉を買って来てカレーライスでも作ろうと思い、一昨日は午後7時前に家を出た。家から出て数十歩のところで空を見ると、おぼろ満月が出ていた。
ムーギョ・モンガまで歩きながら一句ひねり続けたが、帰り道でもいい句が思い浮かばず、深夜にブログを投稿した後に考え直して、「被災地の おぼろ満月 なおおぼろ」が出来た。地震の被災地には京都と同じ曇り空かどうかわからないが、そうでなくても人々の悲しみからは満月が曇って見えるのではないかという思いだ。おぼろ月の翌日の昨日は、やはり小雨が降り、ムーギョ・モンガには行かなかった。作ったカレーライスがあるので、買い物に出かけずとも済んだ。雨が降ると原発への放水と多少は同じ効果があって、雨を降らせるためのロケットを打ち上げに済む。それはさておき、昨夜のNHKのTVで障害を持った被災者の救済についての番組があった。被災者に対して「頑張って」の掛け声はもちろんいいが、問題は数か月か1年以上経ってからだ。今は誰しも気が張って、TVでも盛んに報じることも、ここ10日で民放はことごとく以前と同じ娯楽番組をやるようになって、地震関連の番組はほとんどNHKが中心で、しかも終日ではない。この調子では数か月や1年後は、今騒いでいる人たちの大半は地震のことを忘れる。そうなった時に、被災者がどう頑張ることが出来るか。今が大変は時であることはわかるが、被災者は将来がもっと大変だ。架設住宅で孤独死が相次ぐようになったり、また仕事が元どおりにならず、就職先が見つからなかったりして、ひしひしと絶望感が襲う。そういう時に、かつて被災者として見知らぬボランティアからの助けを得たことを思い出し、なおのことそれがなくなった状態を思って沈みがちにもなる。そこまで先のことをふと想像しなくても、高齢の病弱の老人や、あるいは仕事の見通しが立ちそうにない人、また財産の大半を失った人は、今までのように生きて行くことが出来るのかどうか、頑張る気持ちがにわかに湧かないだろう。頑張れの言葉は被災者同士がかけ合うのはまだしも、そうでない人にとっては恵まれた位置からの人を見下ろした意味合いがどこかに混じっている気がする。だが、夢も希望も失って、生きる意味を見出せないかもしれない人に、声をかけて励ます必要はあるし、その代表が「頑張れ」や「くじけないで」であるのは、月並みではあっても仕方がない。
人はちょっとした心の触れ合いを糧に生きて行く気力が湧くものであり、よく言われるように結局はひとりでは生きられない。照れもあって「頑張れ」と声をかけにくい人は、別の方法で思いを表現すればよいし、そういうものが大量に積み重なって、被災者は支えられていると思いもするだろう。今回の地震がなくても年間3万人が自殺する日本だが、被災者が生きる希望を失ってその数を引き上げないような政策や人々の思いを伴った援助が必要だ。ところが国家の非常事態なので与党が野党に入閣を頼むと、下心が見え見えと言ってそれを断わった。何とも呑気なことで、危機意識がまるでない。それはそうだろう。東京で安穏に暮らし、国会で居眠りに終始出来る身分だ。仮に被災地に乗り込むにしても選挙を考えてのことでしかない。政治家はもっと大変なことが生じても、つまり日本という飛行船が本当に落下しつつあっても、相変わらず党派同士で睨み合い、自分たちのことを第一番に考えているだろう。もうひとつ昨日はげんなりしたニュースがあった。被災地で見知らぬ人が出没し、あちこちに転がっている金庫を持ち去っているという。警察がそれを取り締まり始めているというが、町の半分ほどの人が死んだところでは、金庫の持ち主が現われない可能性が高く、よそ者がやって来て金目のものを持ち去っても誰にもわからない。多くのボランティアを待ち望んでいる声があるが、それに乗じて泥棒が足を泥の棒のようにして瓦礫の中を金目のものを探し回る光景が頻繁に見られるようになるに違いない。あるいは報じられないだけで、すでにかなりの数のそういう人が現地にいるだろう。同じことは阪神大震災でもあったと聞く。世界からは地震に際して略奪行為がないことが不思議がられたが、それは早合点というものだ。ボランティアは美談のネタではあるが、それを隠れ蓑にして打算的に動く者もあるだろう。そういういやな、だが現実であることを思いながら、もう一方で被災者に「頑張って」と声をかけることの、どこか高みの見物的な態度を思う。声をかけずに、黙ってそばにいて何か世話をする、あるいは孤児を抱きしめてあげるといったことがいいのではないか。筆者は被災者へのボランティアの経験がないが、息子の車でいわき市に行って、一時的にしろ、昔からの知り合いの老夫婦、あるいはその近辺の被災者の手助けをしてみたいと思わないでもない。それがほとんど無理であることはわかっているが、そういう何かの手助けをしたい思いでいることは誰しも同じではないだろうか。
さて、サントリー山崎蒸留所だが、見学は30分ほどで終わった。敷地内の一般道路左側の2階建ての建物から出て道路をわたり、エレベーターで工場内に入る。人影がなく、酒が醗酵した匂いがぷんぷんする。まず二条大麦を仕込んで醗酵させる過程だ。左に仕込み槽、右に木製の醗酵槽があった。醗酵させた後は蒸留の過程で、これはポット・スティルによるが、建物内部の左右に6基ずつあって、右手の6基で蒸留したものを、さらに左手の6基で蒸留し直すという。蒸留釜の形状はそれぞれ異なっていて、それは内部で蒸留液の滞留の様子が異なるように作用し、味が異なるウィスキーが出来る。釜には何か所か小さな穴が空いていて、内部の沸騰状態が確認出来るようになっていた。蒸留したものを今度は樽に詰めて何年も寝かせる。この過程はウィスキーならではで、焼酎より手間がかかっている。樽の保管する大きな倉庫に行く途中の狭い屋内通路の片側の壁に、樽の材木で造った細長い絵画的な造形作品が10点ほど飾られていた。これがなかなかよく、名のある作家の作品ではないかと思った。古材を廃棄せずに、のような作品に仕上げることは、先日見た開高健展に展示された、開高の住吉の家を取り壊す時に採取した天井板で作られたウクレレを思い出させる。その伝で言えば、今回の震災では膨大な廃材があって、家を失った人は何らかの形で、自宅の廃材で何かを作っておきたいと思うこともあるのではないだろうか。貯蔵用の樽は、木の種類や形状から6種があって、最小のバーレルと呼ばれるものは180リットル、最大のパンチョンは480リットルだ。この樽が、扉を開け放った、ひんやりとした倉庫に数千は積まれていた。最も古いものは1924年製で、これは創業当初のものだ。案内嬢に訊くと、中身は入っておらず、樽だけとのことであった。近年の刻印の樽ほど数が多いのは言うまでもないが、全部で数千程度は少ないので、そのことを質問すると、別の倉庫に80万樽あるという。そりゃそうだろう。見学者が見せられるものは、見学用であって、大部分の工場内は立ち入りが禁止のはずだ。樽倉庫を見た後、案内嬢は試飲のための建物に引率してくれた。筆者はてっきりそれはなく、有料の試飲カウンターで飲むしかないと思っていたが、そうではなかった。
ガラスの扉を開けて中に入ると、そこはゆうに100人は収容出来るテーブルと椅子が整然と並べられた部屋で、制服姿の美女が3人、カウンターの向こうに陣取っていた。10人ほどの見学者全員はカウンターに最も近いところに座り、まず案内嬢の説明を聞いたが、座った途端にジャズが流れ、美女がより華やかになったようで、何だかドギマギした。試飲用として山崎と白州の12年ものだったかが用意され、車を運転して来た人にはアルコールのない飲み物が出た。チョコレートやおかきなどのおつまみもテーブルのバスケットに入っていて、自由に食べてよい。その部屋にいたのは15分ほどだったが、家内は筆者に飲ませるためにハイボールと水割りをもらったので、それらを合わせて2人前、計5杯を飲み干した。あまりのおしさにまるでジュース感覚だ。朝にトースト1枚食べただけの腹で5杯の一気飲みのウィスキーはかなり効く。それにすぐ近くに美女が3人立ってこっちを見ているとなればなおさらだ。向い側に座った親子連れに話かけると、初めての見学ではないと言っていた。それに10数年前には山梨の白州工場にも行ったという。案内嬢の話にもあってが、そこは森の中にあって、バスで移動して見学するほど広いそうだ。その話を聞いて家内が、そう言えば30年ほど前にそこへ行ったと切り出した。家内は酒はほとんど一滴も駄目で、白州工場に行ったことを忘れていたのだ。親子連れの親は40代の男性で、車で来たのでウィスキーを飲むことが許されなかったが、酒は飲めないと言っていた。そういう人でも見学に来る。また斜め向いにいた70歳くらいの太った男性は、かなり不機嫌そうで、ハイボールを1杯もらって、それを少しずつ飲んでいた。そしてみるみるうちに顔が赤くなっていた。最もたくさん飲んだのは筆者で、カウンター嬢にはそれだけいじましく見えていたはず。飲みながらそれを思って赤くなった。そしてその赤さは建物の外に出てすぐに消えた。土産を買おうと思って、見学出発の建物に戻ると、そこから大勢の人が笑顔でぞろぞろと出て来た。筆者らの30分前の見学者なのだろう。となると、カウンター嬢は30分ごとに酒を用意して大忙しだ。これが本物のバーなら、日本一の売り上げになるだろう。15分で客は出て行ってくれるから、酔って変なことを言うおっさんもいない。地震のニュースで持ち切りの天気のいい春の日に、ぶらりと出かけて昼間から酒を飲んだ幸福感覚は、同じ日本であるのに不思議な気がする。それと同じように、また、ウィスキーが長年樽の中で眠っていい味を出すように、被災者もいつか地震を遠い出来事として記憶の片隅に追いやり、春の陽射しに微笑むようになるだろう。そうでなくてはならない。